第1話後編 困惑令嬢の生活
エリオットは庭園でイナベラを待っていた。暖かく、外で過ごすには気持ちの良い日だった。
令嬢はエリオットを見つけ、満面の笑みで近づいた。
「エリオット様」
「待ち合わせをしているので」
令嬢はエリオットに見つめられ頬を染め、潤んだ瞳で見つめエリオットの腕を抱いた。
「私、イナベラ様に頼まれましたの。」
「え?」
「私とエリオット様を応援してくださると。」
イナベラがエリオットとの待ち合わせに来ないのは初めてだった。頬を染める令嬢の手を優しく解きエリオットは平静を装って微笑んだ。
「申し訳ない。用があるんで、失礼するよ」
エリオットはイナベラを探した。
呼び止める令嬢の相手をする余裕はなかった。
教室も図書室も庭園にもいなかった。裏庭の隅に見慣れた髪色を見つけて、ほっと息を吐いて近づいた。
「これ」
「こんな貴重な糸を頂けません」
「うちは服飾を扱っていて、不要なものを届けてもらった。捨てるものだから」
「そんな、こんな貴重なものを」
「いつものお礼。放課後に渡そうかと思ったんだけど、早いほうがいいだろう」
「ありがとうございます。私、なんてお礼をすれば、良ければどうぞ」
エリオットはイナベラの声に気付いて足を止めた。
エリオットには向けられたことのない笑顔で、ライアンに小袋を渡していた。侯爵家のライアンと男爵家のイナベラに面識があるのは知らなかった。エリオットはイナベラが頼むならいくらでも糸を贈った。イナベラはエリオットからの贈り物を受け取ることはなかった。糸を宝物のように胸に抱いている姿に気が狂いそうだった。ライアンとの間には入れないので立ち去った。
エリオットは授業をさぼり、イナベラが教室から出てくるのを待っていた。
イナベラはエリオットに気付かないふりをして通り過ぎようとすると不機嫌な顔のエリオットに腕を掴まれた。
イナベラは自分の幸運が終わったと思った。誰かにかわってほしいという願いは届かなかったので、平静を装い礼をした。
「ごきげんよう。エリオット様」
「話がある」
イナベラには大事な予定があった。今日はどうしても譲れなかった。
不敬で裁かれることはわかっていた。それなら、罪は一つでも二つでも変わらないと開き直ることにした。
「申し訳ありませんが予定があります。」
エリオットは断られると思っていなかった。
そしてエリオットはイナベラが約束する相手は一人しか思いつかなかった。自分が冷たい目でイナベラを見ていることに気付いていなかった。
「男との?」
博士もライアンも男性である。いつも以上にエリオットの雰囲気が怖くても、イナベラはどうしても行きたかった。怖い気持ちを必死に隠して、ライアンと博士を思い浮かべて穏やかな笑みを作った。死ぬ前にお礼が言いたかった。
「はい。大事なお約束です」
「冷静になりなよ。立場が違う。」
冷たい空気で自分を見るエリオットは怖かった。イナベラはベンのために向き合う決意をした。どうせ死ぬならと最後の我が儘を言った。
「承知してます。一週間お時間をお許しください。その時は覚悟を決めましょう。今日はお許しください。」
イナベラはエリオットの返答を聞かずに掴まれている腕を解いて礼をして立ち去った。引き留める声は聞こえないフリをした。
薬草園では博士が待っていた。
「ほら」
渡された布からは黒いインクが落ちていた。
昨日はインクが薄くなっただけだった。博士がわざわざ落としてくれたのがわかった。ライアンと博士の優しさにイナベラは我慢できなくなった。イナベラは全身の力が向けて座り込んだ。先ほどの恐怖の時間が嘘のようだった。エリオットと必死に向き合ってここに来てよかったと思った。イナベラの目から涙が溢れ出した。
「あ、あ、ありが、とうございまず」
二人は目を丸くした。
「泣くほどのことじゃない。また菓子を持ってこい」
「私、こんなに優しくしてもらって、もう思い残すことは」
イナベラの言葉にライアンが乱暴に頭を撫でた。
「死ぬのはやめようか。家として動かないって言ってたよ。」
「私、立場の違いをわきまえろと忠告をいただきました。」
ライアンはエリオットがイナベラに執心なのを知っていた。
イナベラを心配して飛び出した男が無体なことをするとは思わなかった。ライアンの知るエリオットは女性に紳士で優しい男だった。
「たぶん、そういう意味では」
「私は身辺整理の時間をいただきました。約束の時まで」
博士はイナベラの背中を思いっきり叩いた。博士はイナベラと2年の付き合いである。
気のそらし方は知っていた。イナベラは痛みに驚いて顔をあげた。
「イナベラ、バカなことを言ってる暇があるなら手を動かせ。弟の誕生日は今週じゃろうが」
「そうでした。お二人ともありがとうございます。」
イナベラは礼をしていつもの場所で、刺繍をはじめた。
刺繍をはじめたイナベラをライアンは不安そうに見ていた。
「博士、介入したほうがいい?」
「好きにすればいい」
「相変わらずだな」
「イナベラは運が悪いからなぁ」
イナベラは二人の複雑な視線など気にせず集中して手を動かしていた。
***
イナベラは寝不足になりながらも龍の刺繍を完成させた。
エリオットとの約束まであと2日だった。
ベンの誕生日なので、朝早くに男爵邸に帰り、厨房に籠もった。
ケーキや弟のベンの好物を作り始めた。
一段落したので両親に挨拶をした。
両親の明るい笑顔に伯爵家から、何も連絡がないことがわかり安堵した。弟のお祝いか終わるまでは、暗い話題はしたくなかった。
起きてきた弟のベンが姉に駆け寄った。
「姉上、お帰りなさい」
「ただいま。ベン。貴方に贈り物を用意したの。お誕生日おめでとう」
イナベラはベンの頭を撫でて、贈り物を渡した。
自分の好きな剣や龍が刺繍されたハンカチを見てベンは目を輝かせた。
「ありがとう!!部屋に飾る!!父上、額作って!!」
「ハンカチよ。」
「額にいれて飾る。格好良い!!」
ベンの様子にイナベラは感動した。想像よりもずっと喜んでくれた。イナベラはベンを抱きしめた。大好きな弟と会うのは最後かもしれなかった。
「喜んでもらえて嬉しい。ベン、姉上は貴方を愛してるわ」
「姉上?」
「貴方の好物をたくさん作ったのよ。今日はお祝いね」
悲しいことは後にしようと決めた。今日はイナベラにとって家族と過ごせる最後の日かもしれない。
イナベラはベンの手をつないで、誕生会の席に案内した。
自分の料理に喜ぶ弟も美味しそうに食べる両親もイナベラの胸を暖かくした。短い命でも自分は幸せだったと、目の前の幸せな光景を噛み締めていた。
ベンは姉の笑顔が時々翳るのに気付いていた。ただ本人が望まないので、何も言わなかった。
ベンの誕生日会が終わり、イナベラは両親の部屋に向かった。
イナベラの深刻な顔に両親はとうとう親離れの時期がきたかと心の準備をした。
「お父様、お母様、今まで育てていただいてありがとうございました。私はこの家に生まれて幸せでした。私、この家のために命を捧げます」
娘の言葉が予想と違い男爵夫妻は目を丸くした。
「イナベラ、なんの話だい?」
「私はエリオット様に不敬を働きました。家に罪が」
伯爵家から苦情の手紙はなかった。悲痛な顔をしているイナベラに男爵が優しく問いかけた。
「エリオット様との婚約の話ではないのか?」
「ありえません。私はエリオット様に嫁ぐなら首を吊ります。」
娘の言葉に男爵夫人は問いかけた。
「イナベラ、なんの覚悟を決めたの?」
「もう思い残すことはありません。私の命は明日で終わりです」
「エリオット様はお優しいから、貴方の不敬で家を潰すことはないと思うわ」
イナベラは両親もエリオットに騙されていることに衝撃を受けた。自分の味方は弟しかいないと悟った。
男爵は思い込みの激しい娘の訂正は諦め釘をさした。
「イナベラ、命をたつときは必ずうちに戻ってお父様の前でな。決して一人では駄目だよ」
「それを許していただけるなら…」
両親は悲壮感漂いながら学園に戻っていく娘を見送った。優しいエリオットが不敬で家を取り潰さないと知っていた。娘に幸多かれと祈るしかなかった。
***
翌日イナベラは遺書を持って登校した。
エリオットが教室の前の廊下で令嬢に囲まれていたので、気配を消してそっと通り過ぎようとした。
「イナベラ」
イナベラは諦めて礼をした。
「おはようございます。」
「話がある。」
「かしこまりました。」
イナベラはエリオットに手を引かれて歩いた。
イナベラは逃げ出したかった。
握られている手を見て諦めた。昨日の幸せを思い出して、大好きな家族に心の中で最後の挨拶をした。
エリオットは庭園の噴水の前で足を止めた。
イナベラは歩みがとまったので、頭をさげた。
「申し訳ありませんでした。」
エリオットはイナベラの謝罪に驚いた。
「え?」
「男爵家が伯爵家への不敬な態度を心より謝罪致します。どうか咎は私だけに。男爵家と領民はお許しくださいませ」
悲痛な声を上げるイナベラにエリオットは戸惑っていた。
「イナベラ?」
「もう身辺整理も終わっております。どうぞお納めください」
イナベラの差し出す遺書にエリオットは言葉を失った。
沈黙が続いた。イナベラは決して頭をあげなかった。
「それは受け取れない」
イナベラは絶望した。
やはり自分の命だけでは軽すぎるのか。男爵令嬢の命など、石ころのようなものなのか。足元の石を見て、むしろ石ころよりも軽いと思い直した。
「私の命では、軽すぎますか…。どうすればお許しいただけ」
「僕は不敬を咎めたりしない。それなら、あの言葉を取り消して欲しい」
イナベラは恐る恐る顔をあげた。不敬を咎めないと聞こえた気がした。
「取り消すとは?」
「関わらないでほしいなんて、」
イナベラは理解した。
エリオットに向けた不敬な言葉をなかったことにしてもらえることを。
イナベラはエリオットによく頼まれることを思い出した。まだ小間使いが必要なのかと納得した。
「かしこまりました。以後気をつけます。ご用の際はお声をおかけください」
イナベラは礼をして立ち去った。エリオットはイナベラが小間使いであるうちは、不敬を問わないと言っていた。
死なずにすんでも、エリオットから解放されないことに気が重くなりイナベラはとぼとぼと教室に戻って行った。