閑話 困惑令嬢の災難な日々
イナベラの過去の話です。
イナベラの社交界デビューは無事に終わった。
イナベラの憧れとは全然違い、煌びやかな世界は恐ろしい場所だった。イナベラは両親には楽しかったと精一杯微笑んだ。せっかくドレスを用意してもらったのに、本当のことは言えなかった。目が赤く泣いたことが見つかってしまい感動して泣いたと笑ってごまかし、疲れたことを理由に部屋に逃げた。鏡に映るドレスも髪飾りも綺麗に見え、何を言われても大好きだと思った。自分が赤毛でなければ違ったのかと嫌われた髪をほどき指で弄んでいた。
イナベラにとって社交界は怖い場所だった。
男爵はイナベラが楽しんでいるのかと思い、夜会の招待状を渡した。
イナベラは怖くても男爵令嬢らしくなろうと決めたので、微笑んで招待状を受け取った。着飾った自分を両親も領民も褒めてくれた。イナベラは鏡に向かって、笑顔の練習をした。笑えない時は大好きな人を思い浮かべれば笑顔を作れると気付いてからは上手に笑顔が作れるようになった。
***
勇気を出して参加した二度目の夜会は男爵家のパーティ。
年上の少年に手を差し伸べられて、一緒にダンスを踊ると、髪飾りを褒められたのが嬉しくて、自然に微笑みが浮かんだ。明るい話し上手な少年との会話もダンスも楽しく、その後も何人かとダンスを躍る。イナベラにとって社交界デビューと違って楽しい時間だった。差し伸べられる手を取り顔を上げるとエリオットがいた。社交界デビューの記憶がよみがえるも、平静を装い微笑む。毎日、笑顔の練習をしたおかげで、イナベラは平然と微笑んだ自分に安堵した。
「変わらないな」
エリオットの言葉を聞けば聞くほど、イナベラの心はどんどん冷えていく。
「ありがとうございます」
エリオットの言葉に沈む心を見せないように必死に微笑みを浮かべた。誰と躍らよりも長く感じたダンスが終わり、心の底から安堵して礼をして立ち去った。イナベラは庭園に逃げ、散歩していると声を駆けられ足を止めた。一緒にダンスを踊った少年だった。
「ご一緒してもよろしいですか?」
イナベラは笑顔で差し出される手に微笑んで手を重ねた。
社交界の褒め言葉は嘘とエリオットに言われた。でもエリオットの言葉より嘘でも少年の言葉は心地よく沈んだ気持ちが浮上した。庭園を案内してくれる少年の話も楽しかった。
「またお誘いしてもいいでしょうか?」
「はい。楽しい時間をありがとうございました」
少年のおかげで、次の夜会が楽しみになり、自然な笑顔でお礼を言えた。
イナベラは自分達の様子をエリオットが冷たい視線で見ていたことに気付かなかった。
夜会を重ねるごとにイナベラをダンスに誘う者はいなくなり時々怯えた視線を向けられるようになる。
強引にエリオットに手を取られてダンスすることも慣れたイナベラの中で楽しかった夜会の記憶は薄れていき、夜会は怖いものになった。
それでも男爵令嬢として、両親や領民の前では怖い気持ちは隠して笑顔で招待状を受け取り夜会に参加した。イナベラの味方はドレスと領民からもらった花で作ったコサージュと髪飾りだけだった。領に帰れば大好きな両親と領民がいるので、大好きな皆を思い浮かべて笑顔で夜会を乗り切っていた。
***
イナベラにとって大好きな男爵領でも嫌な時間はあった。
定期的にエリオットが訪ね、父に命じられお茶を出す時間が苦行だった。
「イナベラはお茶会に興味はある?」
「ありません」
「母がお茶会を開くんだけど、良かったら来ないか?」
「伯爵家など恐れ多くて」
「なにも遠慮はいらないよ。服も贈るよ」
「お気持ちだけいただきます。お父様が遅いですね。呼んできます。お待たせして申しわけありません」
イナベラは速足で父の執務室に逃げ、母と談笑していた父にエリオットが呼んでるから急いでと手を引っ張って部屋の前まで連れて行き自室に逃げた。弟を見つけたので無言で抱きしめた。お茶会など恐怖でしかなかった。昔はエリオットとの会話を楽しんでいたが社交界デビューしてからは恐怖でしかなかった。自分に笑顔を浮かべる相手が自分のことを嫌っているのはよくわかっていた。穏やかな顔で笑顔を浮かべるエリオットの本音を聞いたときから、エリオットとの時間が苦痛になった。
ただイナベラの恐怖はまだ始まっていなかった。
12歳になり学園に通わなければいけなかった。
父にエリオットと違う学園に通いたいとお願いしても敵わず、学年が違うから会うことはないと前向きに考えた。
イナベラはある事情で必死に入学試験勉強をしたおかけで、入学式まではエリオットのことは忘れられた。また勉強のために社交を減らしてくれた両親のおかけで一時的に平穏な生活を送れていた。
***
イナベラは入学式のオリエンテーションをおえて、教室で荷物整理をしているとエリオットが目の前にいた。嫌な予感しかなかった。
「入学おめでとう」
「ありがとうございます」
「イナベラの髪は特別だから講堂からもよくわかったよ」
イナベラはエリオットの久しぶりの意地悪を静かに聞いていると、エリオットを見つけた令嬢達が集まってきた。
「まぁ!?エリオット様どうされましたの?」
「入学おめでとう。僕のイナベラにお祝いを言いたくて。よろしく頼むよ」
「こちらこそよろしくお願いします」
「そろそろ授業が始まるね。またね」
笑顔で手を振り立ち去るエリオットに令嬢達は頬を染めていた。
「貴方の汚い赤毛は目立つものね」
教師が来たので、令嬢は立ち去り、かイナベラは耳元で囁かれた言葉に悲しくなった。
昼休みになるとエリオットに強引に手を引かれて食堂に連れていかれた。放課後もエリオットに付き纏われて入学一日目にしてイナベラは心が折れそうだった。
***
翌日登校すると、目を吊り上げた令嬢に睨みつけられ、イナベラは怖かった。
「イナベラ様、いい加減になさって」
「僕のイナベラが粗相を?」
「エリオット様」
「僕が謝るから許してくれないか。」
「エリオット様がおっしゃるなら」
「君の優しさに感謝するよ。行くよ」
イナベラは恐怖に飲まれていた。強引に腕を引かれて庭園に連れて行かれ、強引に抱きしめられて頭を撫でられて困惑していた。
「もう大丈夫だ。僕がいるから何も心配しないで」
意味がわからなかった。イナベラが胸から顔をあげると微笑みかけられた。
「私は一人で大丈夫です」
「無理しないで。僕がいるから。いつでも僕のクラスにおいで」
エリオットに言葉は届かない。イナベラは両親を思い浮かべて微笑みを浮かべた。
「ありがとうございます」
「お礼はいらないよ。寮まで送るよ」
手を引かれて寮の自室に帰り、力が抜けてベッドに倒れこんだ。
翌日からさらに恐怖の日がはじまった。
「イナベラ様、エリオット様の婚約者だからといって許されることではありません」
イナベラは強い瞳で睨みつける令嬢は怖かった。でも言わなければいけない言葉があった。
「私に婚約者はいません」
「まぁ!?」
「なら恋人とでもおっしゃりたいの!?」
目の前の令嬢の形相が怖かった。怖いのを我慢して穏やかな顔を必死に作った。
「違います。何も関係はありません」
「そんな嘘は通じませんわ」
「お持ちになって。貧乏男爵家が伯爵家の婚約者なんて名乗れませんのよ」
「どんな汚い取引をしたのかしら」
「貧乏は手段を選ばないと聞きますわよ」
「男爵も汚い方よね。娘がこれじゃ」
睨みつけられ、蔑む視線も怖かった。
ただ蔑む言葉は許せなかった。イナベラ自身のことなら良かった。
「・・・恐れながら父も領民も立派です。貧乏ですが汚いことなどしません」
「男爵家が口答えなんて」
「下賤よ」
「どうした?」
令嬢達は穏やかな顔をして現れたエリオットに頬を染めた。つりあがった眉もさがり、うっとりとエリオットを見つめる令嬢をイナベラは静かに見ていた。いつものイナベラなら令嬢の豹変に引いた。ただ今のイナベラは大事な男爵領への言葉に怒っていた。
「エリオット様」
「イナベラ様が私達を・・」
「僕のイナベラがすまない。」
イナベラはエリオットをじっと見つめると微笑みかけられ頭を撫でられた。
「僕が謝罪するから許してくれないか」
「エリオット様がおっしゃるなら」
エリオットが令嬢達と親しく話す様子にイナベラの心は冷えていった。イナベラは何も悪いことはしていない。貶められたのは父と領民だ。エリオットに腕を引かれたが動かなかった。肩を抱かれた時点で諦め足を動かす。力では敵わないことは知っていた。人気のない場所に移動し、エリオットに肩に手を置かれて、見つめられた。
「大丈夫?」
「私が悪いのですか?」
「気にしないで」
イナベラはエリオットの言葉を遮った。
「私がいけなかったんですか?」
「大丈夫だよ。」
悲しくてたまらなかった。気にするなというのは同意に思えた。エリオットは父の知り合いである。あの令嬢の言葉を肯定した。父はエリオットを好意的に見ており、父を思うと涙が溢れた。
「イナベラ、もう大丈夫だから泣かないで。」
目の前にエリオットがいることを思い出し慌てて涙を拭った。ぼやけた視界に嬉しそうな顔のエリオットが見えた。自分が泣けば喜ぶのか。そんなに嫌いなら放っておいてほしいとさらに思いながらも必死に笑顔を作ってお礼を言った。お礼を言えばエリオットが自分を解放してくれるのは学んでいた。
***
イナベラは休みの日に男爵領に帰ってきた。
両親には学園生活は楽しいと笑顔で答えた。膝の上に乗せた弟を抱きしめている時間が一番イナベラには心が休まる時間だった。幼い弟は学園の話は聞かなかった。情けなくても、心が壊れそうになれば男爵領に帰り弟を抱きしめるのがイナベラの至福の時間だった。学園では弟を思い浮かべて、穏やかな顔と笑顔を浮かべ苦行に耐えていた。
***
エリオットファンの令嬢達はイナベラをエリオットの婚約者と思っていた。
何度否定の言葉を口にしても信じてもらえなかった。エリオットはよくイナベラの前に現れた。寮にいても、呼び出される。イナベラは誰にも見つからないように逃げることにした。放課後とぼとぼと歩いていると薬草園を見つけたので覗いた。
「虫が凄いから、入ってくるな」
「虫を気にしないなら、入って良いですか?」
「好きにしろ」
イナベラは薬草園に入ると白衣のおじいさんが薬草の世話をしていた。他に人はいなかったので木陰にぼんやり座り込んだ。
平穏な時間は久しぶりだった。
時々訪ねても気にされず、イナベラはおじいさんを博士と呼んだ。
時々、声をかけると返事が返ってくるのが嬉しかった。学園で言葉を聞いてくれる初めての人だった。
学園で薬草園という憩いの場所ができた。薬草の匂いが臭くても、虫が凄くてもイナベラにとっては学園で唯一好きな場所だった。
***
イナベラは教師に呼ばれていた。
「何か不満があるのか?」
「ありません。いつもよくしていただいております。」
「授業態度も真面目で成績も申し分ない。課題を提出しないのはどうしてだ?」
「え?」
イナベラはいつも課題を提出していた。イナベラの驚く顔に教師はため息をこぼした。
「いつも提出していたのか?」
「はい。昨日の課題も提出しました」
「いつも君の課題だけないんだよ」
イナベラは目を丸くした。成績を落とすわけにはいかなかった。成績が良ければ学費が免除になった。イナベラがこの学園に通ってる一番の理由は学費が免除だったからである。この話を聞いて、泣く泣く入学することを決めたのである。
「先生、課題をもう一度いただけませんか。私、過去の課題も全部やります。もう一度機会をいただけませんか」
頭を下げるイナベラに教師は苦笑した。どう見てもとぼけている顔ではなかった。
「調べようか?」
「お気遣いありがとうございます。見逃してください。私は家に知られたくないので、忘れていただければ幸いです」
教師はイナベラの必死な様子に苦笑した。ただクラスでも家格の低いイナベラが対処できると思わなかった。
「次回からは課題は直接教師に渡しにくるように」
「ありがとうございます。先生、過去の課題をいただけますか?」
教師は手元の問題用紙を1枚渡した。
「これだけでいい。」
「ありがとうございます」
笑顔で感謝を述べたイナベラが立ち去り、他の教師に課題について謝罪に回っているので教師はフォローに回ることにした。特別扱いはいけないとわかっていても、教室で孤立しているイナベラを気にかけ始めた。
***
イナベラは令嬢に意地悪を言われるのは慣れた。
次の授業のノートを開くと真っ黒だった。ページを捲ると酷い言葉が綴られ最後のページまで埋まっていた。
「お絵かきですか?」
「あらあら、ノートが真っ黒ね」
令嬢達はイナベラのノートを見てあざ笑っていた。イナベラにとって、ノートは高級品である。貴重なノートなので大事に使っていた。大事なことだけ記録してあとは必死に頭に覚え無駄使いをしないようにしていた。
呆然としているイナベラに令嬢の言葉は聞こえなかった。
「イナベラ?」
イナベラにとって恐ろしい声が聞こえ顔をあげるとエリオットがいた。いつの間にかノートが机の上に置かれていた。
「エリオット様、私はお諫めしただけですわ」
「授業中にお絵かきしてるんだもの」
「すまない。あとは僕が引き受けるよ」
「クラスメイトとして当然ですわ」
「事を荒立てない君たちに感謝するよ」
「エリオット様はお優しいですわ」
「失礼します」
イナベラはノートと鞄と荷物を抱えて速足で立ち去る。荷物を教室に置いていくことはできなかった。
歩きながら荷物を鞄にしまって薬草園に辿り着いた。
午後の授業は頭になかった。鞄の中身を取り出し、他に使えないものがないか確認すると駄目になったのは歴史の教科書とノートが1冊。
イナベラにとっては高価な物である。歴史の教科書は読み終えていたので頭に入っていたからまだ良かった。問題なのはノートである。ノートは提出を求められる。このノートの代金で買える物を想像したら悲しかった。このノートは男爵家の貴重なお金で買ったものだ。イナベラの入学祝いに両親が用意してくれたので余計に申しわけなかった。
博士は2時間も木陰にうずくまっているイナベラがさすがに心配だった。
「イナベラ、茶にする。付き合え」
博士の声は聞こえてなかった。博士はイナベラの膝の上の真っ黒なノートを見て、古びたノートをイナベラの膝の上に置いた。しばらくするとイナベラは顔をあげた。
「やる。使わん。」
「いいんですか?」
「汚れてしまってな、使いもんにならん」
「ありがとうございます。」
イナベラは博士からもらったノートを泣きそうな顔で抱きしめた。
「礼を言うなら茶をいれろ」
「はい」
イナベラは感動して泣きたくなるのを我慢してお茶の用意をはじめた。博士は元気の出たイナベラに小さく笑った。
***
博士のおかげでイナベラは持ち直した。
翌日の放課後イナベラは授業をさぼったことを教師に謝罪していた。課題を出されたが、許してもらえることに感謝していた。
「これを捨ててほしいんだけど」
イナベラは渡された歴史の教科書に首を傾げた。
「上級生の忘れ物。落し物は期限が過ぎたら捨てるでしょう?」
捨てる教科書があるなら欲しかった。
「先生、もしこの本をいただきたいとお願いしたら許されますか?」
「捨てるから、欲しいなら構わないわよ。」
「あとで盗んだとは」
「そしたら言いに来なさい」
「先生、ありがとうございます」
「ゴミだから」
「どうもありがとうございました」
イナベラは深く礼をして立ち去った。教科書を抱いて満面の笑みを浮かべて立ち去っていく姿は周囲の教師たちの視線を集めていた。
「イナベラはどうしたんだ?」
教師は苛立ちを隠すために、深く息を吐いた。
古い教科書を抱いて感謝を捧げたイナベラの事情に聞き耳を立てている他の教師には気づかないフリを。
「真面目なイナベラが歴史の授業で教科書を開かないの。忘れ物をして減点は嫌だったんでしょうね。ノートが変わっていたから覗いたら今までの内容がまとめなおしてあったわ。きっと前のノートと教科書は駄目になったのよ。」
イナベラがいじめられてるのは教師の間でも有名だった。課題を捨てられることを恐れて、直接教師に提出しにくる生徒。提出されてないことを知り、教師全員に頭を下げ、過去の課題をやり直すので許してほしいと懇願する生徒はある意味有名だった。
「婚約者に言えば喜んで譲ってくれただろうに」
「事情があるんでしょう。必死に学ぶ生徒を応援したいじゃない」
「そうだな。男爵令嬢が入学試験で高得点を出したのは前代未聞だったしな」
イナベラはクラスメイトに嫌われていても、教師に好かれていることは気付いていなかった。
教室を目指して歩いているイナベラはエリオットが令嬢に囲まれている姿に足を止めた。教室の前なので通過しないといけなかった。足を止めたイナベラにエリオットが令嬢達から離れ、目の前で立ち止まった。イナベラの胸に抱える古びた教科書に視線を向けた。イナベラは諦めて礼をした。
「ごきげんよう。エリオット様」
「それはなに?」
イナベラはエリオットの視線に怯えながらも、取り上げられたくないので必死に向き合った。
「先生にいただきました。疑うなら先生が証言してくださいます。」
「え?教科書ないのか?」
「あります」
「わざわざそんな古びたものを」
「私には貴重な物です。授業の準備があるので失礼します」
イナベラは礼をして教室に入っていく。教科書をとりあげられないことに安心した。
支給された教科書を読み終わったイナベラは時間を潰すために図書室に通いはじめた。図書室は蔵書がたくさんあり、エリオットもいない。イナベラは図書室が安全と気付いてからは、昼休みになると急ぎ足で図書室に向かった。
本を借りて生徒達が食器を片付けはじめる時間に食堂に行き、急いで食事をすませる。エリオットに会わないことが幸運だった。エリオットさえいなければ、イナベラが食堂で視線を集めることはなく平穏だった。
イナベラは本をとるために必死で手を伸ばしていた。
「取ってあげるよ」
イナベラは差し出された本に驚いた。自分に親切にしてくれる男子生徒は初めてだった。
「これでいい?」
「あ、ありがとうございます」
「他にもあるならとるよ」
イナベラはいくつかお願いすると快く本を取ってくれる男子生徒に感動した。
「ありがとうございます」
満面の笑みを浮かべたイナベラに男子生徒は分厚い本を差し出した。
「危ないから、次からは誰かに頼みなよ。俺はこれで!!」
突然怯えた目を向けられたイナベラは悲しくなった。生徒の視線は自分の頭にあり、自分の髪が嫌われていることを思い出し、イナベラはため息をついて、貸出手続きをして食堂に向かった。
その頃親切な男子生徒は自分を冷たい目で睨みつけるエリオットに怯えていた。
「本を取っただけだ。手を出してない」
「見惚れてたよな?」
「可愛いとは思ったけど、お前のものに手を出すつもりはない。なんでいるんだよ」
「窓から見えた。ここにいるとは盲点だったよ」
男子生徒はエリオットの目の良さに引いていた。エリオットが赤毛の一年生に近づく男に容赦がないことは有名だった。
イナベラは急いで食事をしていた。食後のデザートのケーキを堪能し顔をあげるとエリオットがいた。
強引にお盆を片付けられて、教室まで手を引かれた。無言のエリオットが怖かったが、何も言われないことに安堵し授業の準備に取り掛かった。
翌日、イナベラは昼休みに図書室でエリオットを見つけた。
怖かったので、気付かないフリをして貸出手続きをおえて、通り過ぎようとすると手を引かれた。
「食事は?」
「これからです」
食堂に連行され、一緒に食事をした。
翌日はエリオットに教室まで迎えに来られてしまった。イナベラのお昼休みはエリオットから逃げられないことがわかり悲しんでいた。そしてデザートを堪能する心の余裕はなくなった。
***
イナベラは休憩時間に令嬢に意地悪を言われても気にせず、本を読んで過ごしていた。本を読んで男爵領に帰ると弟や領民の子供に物語を話してあげる楽しみができていた。それに物語ではなくても学ぶことはおもしろかった。
「イナベラ、繕い物を頼めないか?」
恐怖の声に現実に引き戻された。エリオットに渡された服はところどころ切れていた。エリオットが自分に頼む理由はわからなかったが、興味もないので、早く終わらせて帰ってもらうことにした。しがない貧乏男爵令嬢には断る選択肢はない。
「かしこまりました」
服を受け取り、鞄から道具を出して縫いはじめ、エリオットの話は適当に相槌を打って聞き流した。できることは終わったので畳んで返し、自分の前から立ち去っていったエリオットに安堵の息を吐いていた。
イナベラは令嬢達やエリオットの意地悪に耐えながら、休みの日を楽しみに思い学園生活を送っていた。
***
イナベラにとってエリオットの突拍子のない質問はいつものこと。期待する目で見られて嫌な予感がした。イナベラにとってエリオットのこの目は警戒するものだった。
「ダンスパーティーがあるの知ってる?」
「はい」
「今回も出ないのか?」
「はい」
「エスコートするよ」
「お気持ちだけで十分です」
「遠慮しないで」
「申し訳ありません。私、課題が終わっていませんので」
「手伝うよ」
「いえ、お気持ちだけで十分です」
「遠慮しないでいいよ。男爵にも君のこと頼まれてるから」
イナベラは冷めた視線でエリオットの話を聞いていた。
最初は動揺したが、もう慣れていた。上機嫌のエリオットは自分の父を嫌っている。イナベラの父はエリオットの父と比べれば優秀ではない。でもイナベラにとっては尊敬できる大事な父である。イナベラはベンを思い出して苦行を乗り切ることにした。課題は終わってもダンスパーティには参加しない。翌日、機嫌の悪いエリオットに苦言を言われたので、謝罪した。理不尽なことでも自分より身分の高い者には逆らえない。嫉妬の視線を向ける令嬢達に代わってほしいと思いながらエリオットの話に付き合う。早く卒業したいと思いながら、苦行ばかりの学園生活を送っていく。
イナベラは掲示板の交換留学生の募集に足を止めた。半年間他国の学校に通えるという内容に目を輝かせた。半年でもエリオットから解放されるのは夢のような日々だと思った。教師に話を聞きにいくとお金もかからない。教師は選考があるけど、イナベラなら試験さえ乗り切れば選ばられるだろうと背中を押してくれた。両親も快く賛成し、イナベラは試験に向けて勉強をはじめた。イナベラは休み時間も勉強をした。絡んでくる令嬢も付きまとうエリオットも気にしない。
ただ試験の日に教室に見慣れた金髪を見つけて息を飲んだ。エリオットが試験を受けて落ちるとは思わなかった。イナベラは自分の夢が終わったことを察した。他国で半年も一緒にいるなんて耐えられないイナベラは解答用紙の回答欄を全部ズラして書き込む。結果発表され選考に落ちたことに安堵の息をついていた。来月からエリオットが留学に行くのを楽しみに、イナベラは苦行な日々を耐えることにした。ただイナベラの夢は儚く散る。登校するといるはずのないエリオットに茫然とした。
「エリオット様、どうして」
「断ったよ」
「はい?」
「行く理由がなくなった。僕がいないとイナベラは駄目だろう?」
イナベラは回答欄をずらしたことを後悔した。まさか辞退するなんて予想もしていなかった。悲しい気持ちを隠して、エリオットの言葉を聞き流した。自分の運のなさをはじめて本気で恨んだ日だった。必要ないので消えてほしいと言えたらどんなに楽だろうとエリオットに引かれる手を見て考えていた。




