第15話 困惑令嬢の災難
イナベラはエリオットとの婚約式を終えて平穏な日を送っていた。
婚約しても結婚できないことがある。理由の一つに醜聞があった。
イナベラは悩んでいた。
教室で自分にいじめられたと泣く伯爵令嬢に。今まで高圧的な態度だった令嬢によわよわしく泣かれても気持ちが悪かった。
イナベラはノートを破いてないし落書きもしてない。彼女の課題を勝手に捨てたりもしていない。エリオットの婚約者になったら醜聞はいけない。でも対処方法がわからなかったので気にしないことにした。
イナベラのクラスの良識的な生徒はエリオットの報復を恐れて傍観である。ただ愚かな者もいた。
伯爵令嬢を慰めイナベラを罵る令嬢がいてもイナベラは気にしなかった。イナベラは罵られることに慣れていた。そして今まで一番怖かったエリオットはイナベラの味方になった。それならイナベラにとって怖いものはなかった。
「イナベラ様、ひどいです、いくらなんでも」
「エリオット様の婚約者だからって」
「こんな横暴許されません」
イナベラは気にせず、スケッチを続けていた。移動したくても、もう少しで授業が始まるので無理だった。
イナベラはお金を稼ぎたかった。そのため新しいデザインを考案していた。教師が来たので令嬢達が席に着いたことに長いため息をついた。
イナベラは放っておくと余計に人はイライラすることを知らなかった。
「ないです。私のハンカチが」
伯爵令嬢がハンカチがないと叫んだ。
イナベラは気にしなかった。
「イナベラ様、貴方の机を見せなさい」
イナベラは荷物を全て持ち帰るので机の中は空っぽである。
中をのぞくとハンカチが出てきた。イナベラは首を傾げた。教室で商品の刺繍をすることはなかった。
「イナベラ様、人の物を盗むのはいけません。エリオット様の婚約者でも許されません」
「どうぞ」
イナベラは机からハンカチを出して差し出した。
「なんて!?」
「見つかったからって、返せばすむなんて」
イナベラは令嬢達が言葉が通じないことは知っていた。令嬢達が騒いでいる理由がわからなかった。
「どうした?」
男子生徒に呼ばれたエリオットがイナベラに声をかけた。エリオットはイナベラになにかあれば呼ぶように命じていた。イナベラは困惑した顔を浮かべてエリオットを見た。令嬢が騒いで、エリオットがいるのは嫌な予感しかしなかった。
「エリオット様」
エリオットは自分の腕にすがりつく令嬢をそっと引きはがした。
「イナベラ様が私のことを嫌いだからって意地悪するんです。私のハンカチを盗んだんです」
エリオットは男子生徒に事情を聞いていた。そしてイナベラの顔を見て状況を理解していないこともわかった。伯爵令嬢の思惑を壊すことにした。
エリオットはポケットからイナベラの刺繍したハンカチを取り出して見せた。ハンカチは一面に伯爵邸や馬など風景が刺繍してあった。
「これ、イナベラが刺繍して贈ってくれた。その程度の刺繍なら自分でできるよ。そのハンカチと同じ素材の生地も持っているよ。わざわざ、君のハンカチを欲しがる理由はない」
「それは本当にイナベラ様が?」
「俺の部屋で隣で刺繍していた。信用できないなら見せようか?イナベラ、道具ある?」
イナベラは鞄から道具と布を取り出した。ベンのために刺繍していた。
「エリオット様、花を刺繍したいんですが布がありません」
「誰か、花の刺繍をいれて欲しい者はいないか?」
エリオットと目が合った令嬢が白いハンカチを差し出した。
「ありがとう。」
エリオットに差し出されたハンカチにイナベラは刺繍を進めていた。イナベラは混乱したり現実逃避するときは刺繍に逃げた。5つ花を刺繍したところで、エリオットが肩を叩いてやめさせた。
エリオットはハンカチを広げて刺繍を見せた。
「わかった?なにか誤解があったかな?」
伯爵令嬢は引くことにした。
「申しわけありません。間違えでした」
「そうか。次はないから。」
エリオットが令嬢にハンカチを返すと、繊細な刺繍入りのハンカチに令嬢は感動していた。金貨で取引されるハンカチは買えなかった。見事な刺繍は令嬢の持っている者の中で一番すばらしかった。
「イナベラ様、ありがとうございます。大事にします」
令嬢に笑顔でお礼を言われたイナベラは困惑しながら頷いた。クラスメイトに悪意のない笑顔を向けられるのは初めてだった。
「エリオット様、なにが」
「誤解が解けたようだ。災難だったな。僕はもう戻るよ。」
「ええ。お気をつけて」
イナベラは気にしないことにした。イナベラの学園生活の平穏には気にしないことが一番大事だった。
***
伯爵令嬢はイナベラへの鬱憤が貯まっていた。全然うまくいかなかった。前は自分の味方をしていたエリオットはイナベラの味方になっていた。
今日は乗馬の授業だった。イナベラは馬が得意ではなかった。そのため慎重に馬を歩かせていた。令嬢はイナベラにそっと近づき歩いている馬の尻尾を思いっきり引っ張った。馬が暴れ出し、イナベラは落馬した。教師が駆けつけ、意識のないイナベラは保健室に運びこまれた。
知らせを聞いたエリオットは保健室に駆けつけた。授業を抜け出すことに躊躇いはなかった。
馬から落ちて蹴られたイナベラは傷だらけだった。
エリオットはイナベラの様子を静かに見ながら、今後のことを考えていた。
イナベラは目を開け、起き上がると体中が痛かった。
落馬したことを思い出した。
「大丈夫か?」
心配そうなエリオットに、微笑んだ。
「はい。馬は難しいです。これは補習授業ですね」
イナベラは自分の右腕が包帯で巻かれているのを見て固まった。
「治るまで一月はかかるって」
「え?もう一度お願いします」
「治るまで最低一月」
イナベラは絶望した。一月右手が使えない生活など耐えられなかった。
エリオットは落ち込んでいるイナベラの頭を撫でた。
「結婚しようか」
とんでもない言葉が聞こえてイナベラは顔をあげた。
「へ?」
「16歳なら結婚できるだろ?学園卒業後って話だったけど、」
見上げたエリオットの顔は本気だった。冷たい空気が怖くても引いてはいけないことはわかっていた。
「落ち着いてください」
「僕はずっと一緒にいたいし、博士もライアン様もうちに招けばいい」
訳がわからなかった。微笑まれても冷たい空気は消えなかった。
「はい?」
「一緒に卒業試験を受けてくれないか?」
「エリオット様?」
「こんな危険な学園はさっさと卒業しよう。式は後で籍だけいれよう」
恩義のあるエリオットが望むなら学園卒業までなら頷いても良かった。ただその後の言葉は決して受け入れてはいけなかった。
「駄目です」
「どうして?」
「義兄様のご結婚されるまで待つべきです。結婚すれば子供を求められます。義兄様より先に子供を産むわけにはいきません」
「成人するまで手をださないよ」
「婚姻して手を出されなければ困ります。子供を産めない妻として世間にみられます。嫌なら無理にとは言いませんが。」
「僕は君が許してくれるならいつでもいいよ。今でも」
頬に添えられた手にイナベラは首を横にふった。目の前のエリオットは怖いけど、おかしい。エリオットが不思議な人だと思っていてもここまで、おかしい人ではなかった。エリオットが喜ぶなら自分の身を差し出した。でも醜聞になるような行動はエリオットのためにならないので受け入れられなかった。
「駄目です。婚姻してからです」
「兄上の婚姻なんて待ってられない。」
「まだ4年あります。どうか定例通りでお願いします。」
「出かけて来る。また会いにくるから保健室で休んでて」
「エリオット様!?」
エリオットはイナベラの戸惑う声を気にせずに、立ち去った。
イナベラはきっとエリオットは授業に戻ったのだと思うことにした。今の訳のわからないエリオットをどうすべきかわからなかった。
エリオットは伯爵邸に帰り兄のオリオンの執務室を訪ねた。
オリオンは弟の訪問に呆れた顔で一応兄として大事なことを確認することにした。
「お前、授業は?」
「さぼった。兄上、誰でもいいから今すぐ結婚して」
弟が授業をよくさぼることは知っていた。真顔の弟の言葉に正気を疑いたくなった。
「は?」
「妻を何人もとうが構わないよ。一人でいいから今すぐ結婚して」
オリオンは当分は婚姻する気はなかった。独り身生活を謳歌していた。
妻を持てば自分の生活が制限されるのは嫌だった。伯爵を継ぐときに利のある令嬢と婚姻すればいいかと考えていた。無関心な弟が自分の結婚に口を出すのは初めてだった。
「嫌だよ。なんで?」
「イナベラが兄上が結婚しないなら僕と結婚できないって」
二人の婚姻は成人後と両当主が決めていた。オリオンが婚姻しなくても変わらない事実だった。
「イナベラの成人後の予定だろう?」
「僕は今すぐ結婚したい。だからさっさと結婚して」
「抱きたくなったのか?」
「それはもちろん」
「婚約してるんだから手を出せばいい」
「イナベラは真面目だ。婚姻しないと許してくれない。兄上が結婚すれば済む話だよ。」
本格的に兄弟喧嘩がはじまりそうな勢いに使用人が慌てだした。
エリオットは使用人を睨んだ。
「イナベラを呼びに行ったら覚悟して。今、休んでいるから」
「なにかあったのか?」
「落馬。傷だらけで利き腕は全治1か月以上」
「落馬にしては派手だな」
「暴れた馬に蹴られた。突然馬が暴れ出しイナベラは制御できなかったって。後で絶対に殺処分してやる」
オリオンは弟が冷静でないことがよくわかった。結婚と騒ぐ理由も察した。
エリオットがイナベラを学園に通わせたくないために結婚と騒いでいることを。
イナベラの性格なら理由をつけて学園を卒業してほしいと言えば頷く。ただ結婚と言い出した弟の言葉で拒んだことも。
弟の気付いてないことを教えることにした。
「それ本当に自然か?学園の馬は気性が穏やかなものが集められている」
「まさか。それはあとででいいよ。兄上」
弟が自分が結婚するまでは引かないことに気付いた。
オリオンもさすがに面倒になった。弟の愉快は初恋は楽しくても、自分に干渉されるのは不愉快だった。部屋の空気が冷たくなった。
ノックの音がして、オリオンが入室許可を出すと、ベンがいた。
伯爵夫人とお茶を飲み、帰ろうとするとベンは使用人に相談され、オリオンの執務室に案内された。
ベンは二人の冷たい空気は気にせずに礼をして静かに見つめた。
「失礼します。何してるんですか。使用人が怯えてますよ」
「ベン、なんでいるんだ?」
「お借りした服を返しに来ました。エリオット様、姉上は自宅療養させますのでご心配なく」
「は?」
「完治するまでうちに連れて帰ります。姉上なら授業を受けなくても支障はありません。成人してから婚姻するというお話です。時期を早めるなんてことはさせません。これ以上、喧嘩をするなら姉上に伝えますよ。姉上がまた怯えますね。僕はこれで失礼します。」
ベンは礼をして立ち去った。
エリオットはベンの言葉に固まった。オリオンは笑っていた。部屋の張り詰めた空気が霧散した。ベンは使用人に感謝され、お礼にもらったお菓子に無邪気な笑みをみせて帰った。
伯爵邸の使用人は男爵姉弟を崇拝したくなった。
「誰かさんそっくりだな。どうする?」
「学園に戻ります」
エリオットは学園に戻り、保健室の光景に絶句していた。
ベンがイナベラに抱きしめられていた。
「父上に聞いて心配で。ぼく姉上にもしものことがあったら」
イナベラは男爵邸から駆けつけてきた弟の頭を優しく撫でた。
「大丈夫よ。心配かけてごめんね」
「父上から自宅療養と伝言が」
「そんな重症ではないわ」
「学園での生活に困るだろうって。うちは使用人が雇えないから母上が世話するって。姉上、今年の誕生日はなにもいらない。だから治るまで僕と一緒にお家にいて」
「剣が欲しいんでしょう?」
「姉上がいてくれるならいらない。剣は来年でいい。僕、姉上が心配で。」
「せっかくのお誕生日なのに」
「またお話を聞かせて。僕、姉上の話してくれる冒険物語が一番好きだけど、他のお話も好き」
可愛い弟の言葉にイナベラは頷いた。
利き腕を怪我したため、確かに一人で生活できないため大人しく療養することにした。
「イナベラ、侍女を貸すよ」
イナベラはエリオットの声に初めて、気付いた。
「エリオット様、お気持ちだけで充分です。私は男爵邸に帰ります。しばらくお食事を用意できないのは申しわけありません」
「それは構わないけど、療養ならうちですればいい。うちなら人も」
「お気遣いありがとうございます。母もいますし、いざとなればベンがいるから大丈夫です。ベン、お手伝いしてくれる?」
「うん。僕、姉上のお世話がんばるよ。それに守ってあげる」
「いつの間にか立派になって。ありがとう。腕が治ったら、好きなものなんでも作ってあげるからね」
「楽しみ!!姉上、荷物はどうする?」
「まとめてくるわ。夕方には帰るわ」
「僕、待ってる。姉上が心配だから」
部外者のベンを寮に入れていいのかイナベラは悩んでいた。
「姉上が準備している間はエリオット様といるよ。エリオット様は僕にお話してくれるって前に言ってたんだよ」
「貴方はエリオット様の前だとお利口だものね。でもエリオット様も授業があるのよ」
「そっか。僕・・」
悲しそうな顔をする弟に優しく微笑みかけた。自分を心配して駆けつけた弟を叱るつもりもなく邪魔に思う気持ちもなかった。
「私の秘密の場所に連れてくわ。博士と一緒に大人しく、その前にベン、かわりにお手紙書いてくれる?」
「うん」
「荷物を取りに行ってくるわ。」
「イナベラ、薬草園だろ?鞄は持っていくよ。侍女を貸すから荷造りに使って」
「ありがとうございます」
イナベラはベンと一緒に薬草園に向かった。博士に事情を説明し、ライアンへの手紙をベンに代筆させた。手続きは父がすませてくれるので、荷物をまとめて帰宅した。
***
エリオットはイナベラを見送り、落馬の件を調べた。
イナベラの落馬が人為的な物のため報復した。伯爵令嬢は婚姻が決まり退学した。エリオットは以前、イナベラに勧められた子爵の後妻との縁談を整えた。エリオットの怒りを買った伯爵家は従うしかなかった。伯爵夫妻は娘がエリオットを慕っていたことは知っていた。ただ婚約者を意図的に傷つけようとするほどとは思わなかった。これ以上、怒りを買えば家が取りつぶしになることがわかり、嫌がる娘を説得して嫁がせた。
友人はイナベラが療養してから冷たい空気を醸し出すエリオットに困っていた。
「バカが多すぎる。」
「その空気をやめてくれないか」
「なんとか学園をやめさせたい。」
「卒業しないと彼女が困るから。」
「こんな危険な場所に置いておけない」
「学園は安全なはずだけど。せめて同じクラスに友人でもいればいいんだけどな」
「必要ない」
「いざって時に助けてくれるだろう?味方だって欲しいだろう。お前だって常に駆けつけられるわけじゃないんだし」
「イナベラが僕以外を頼りにするのは不愉快」
「あんまり頼りにされてないだろう。もう少し普通の人間関係作らせてやれよ」
友人の提案にエリオットは眉を顰めた。
「送り込むべきか・・・」
「送り込む・・。友人を作る機会をつくってやれよ」
「僕との時間が」
「友人も交えて一緒にいれば減らないだろうが」
「イナベラに会いたい」
「会いに行けばいいじゃないか」
「は?」
「婚約者の見舞い。男爵におもてなしはいらないから顔を見に行っていいか聞けば?」
「迷惑には」
友人は笑った。イナベラに関しては駄目なやつだった。
「暇つぶしに本でも貸してやれよ。あと弟へもな」
「ベンが喜ぶものがわからない。イナベラの話と違いすぎる」
「お前とそっくりなら扱い方わかるだろう?イナベラ嬢の前で土産を渡して構えばいい。本人は嫌がってもイナベラ嬢の好感はあがる。それに弟が喜ぶ姿にまた来てくださいっておねだりされるかもよ?お前の話を聞く限り、相当可愛がってるだろ?」
姉弟は仲が良かった。エリオットがいても二人の世界である。
「それにベンが邪魔なら、剣術指南の日に行けばいい。その間は二人になれるだろう」
ニヤリと笑う友人が頼もしかった。
「イナベラに贈り物を用意してもいいかな」
「高価なものはやめろ。普通に菓子なら喜ぶかもな。大量には持っていくなよ。家族の分と余剰でいくつかでいい」
「え?」
「お前、感覚おかしいから。男爵家の財政知ってるんだろう?金銭感覚が違いすぎるんだよ」
エリオットは友人の意見を頼りに訪問することにした。
男爵夫妻からは何もおもてなしはできませんがいつでもどうぞと手紙が来た。イナベラと違って男爵夫妻はエリオットの訪問に慣れていた。




