第1話中編 困惑令嬢の生活
教室にいると面倒に襲われるのはイナベラの常識である。
いつも放課後は授業が終わればすぐに教室を飛び出した。
今日は教師に話しかけられ教室を出るのが遅くなった。急いで帰り支度を整えていると、イナベラは令嬢達に囲まれた。
イナベラは足早に教室を出られなかったことに後悔し、目の前の面倒事にため息を飲み込んだ。
自分の時間は弟のために刺繍をしたかった。令嬢達に言っても無駄なので諦めて静かに令嬢達に視線を向けた。
「イナベラ様、エリオット様を解放してください」
「エリオット様にイナベラ様はふさわしくありません。婚約を破棄すべきです」
「そうですわ」
二人は婚約者ではない。睨むエリオットファンの令嬢達にイナベラは静かに答えた。
「私とエリオット様はそのような関係ではありません」
「なんですって!?」
イナベラは最初は令嬢達に睨まれるのが怖かった。
入学して半年経った頃には慣れた。
エリオットに特別扱いを受けるイナベラの言葉に令嬢は目を釣り上げた。エリオットが誘うのはイナベラだけだった。
「イナベラ様、いいかげんにしてください」
「婚約者だからって、図々しい。身の程をわきまえなさい」
「高級な糸を貢がせて!!エリオット様の優しさに甘えて」
詳細は違ってもいつも同じやり取りを繰り返していた。
イナベラにとってエリオットは優しくない意地悪な男である。
イナベラは静かにいつもと同じ言葉を繰り返した。
「そのようなことは一度も覚えはありません。それにエリオット様は私のことが嫌いです」
「いつもエリオット様に庇われてるのに、なんて」
「エリオット様を騙して!!」
「男爵家に糸を買う財力がないのは知ってますわ」
イナベラがエリオットに庇われてると勘違いする令嬢達を理解できなかった。
言葉を聞けば、イナベラが責められているのは一目瞭然である。イナベラにとっては嫌な言葉ばかりだった。
令嬢達の言葉は聞き慣れたので、半年もすれば傷つくことなくなった。ただ不愉快なことには変わりなかった。
エリオットとの誤解を解くのは入学して3ヶ月で諦めた。
それでもいつも大事なことだけは伝えていた。
エリオットファンの令嬢達はイナベラの言葉が許せなかった。
特別扱いされてるのに、エリオットへの感謝もない。
時々迷惑そうにさえしているのも、気に入らなかった、
エリオットに、大事にされて優越感に浸っているように見えていた。
「この糸は私が自分で染めました。」
「まさか、そんなことが、」
「うちはお金がありません。元は安い白い糸です。」
「エリオット様からの贈り物ではありませんの?」
「はい。違います」
令嬢はイナベラがエリオットのために刺繍をしていると思っていた。エリオットからの贈り物でなければ、何をしても許された。隣の机にあるインク瓶が目に入った。
令嬢は艶やかな笑みを浮かべて黒いインクをイナベラの刺繍のうえにかけた。イナベラが呆然としている間に糸を取り上げた。
「でしたらその糸は私がいただきますわ。男爵家が伯爵家の願いに逆らうなんて」
「何してるの」
「エリオット様」
「いえ、なんでもありませんわ」
イナベラは呆然とした。
2週間も必死に刺繍した布が真っ黒に染まっていた。
「僕のイナベラが粗相をした?」
イナベラは大嫌いな男の声に我に返った。
イナベラの糸がいつの間にか令嬢の手にあった。
令嬢達がイナベラを気に入らない理由はよくわかっていた。
全部目の前の男の所為である。目の前の男はいつもイナベラが悪いと言った。もう嫌だった。
それでも男爵家が伯爵家に逆らえないとわかっていた。
「イナベラ様が私の糸を欲しいと」
「イナベラが?」
自分の糸は返ってこない。
自分を見つめるエリオットの先の言葉は、聞かなくてもわかっていた。イナベラの心は限界だった。我慢の糸がプツンと切れる音がした。
「エリオット様、恐れながらお願いがあります」
「まぁ!?」
イナベラには令嬢達の非難の声など、どうでもよかった。期待した目を向けるエリオットをじっと見つめた。泣きたい気持ちを必死で我慢した。目の前の男を喜ばせるために涙は見せたくなかった。
「なに?」
「どうか私に関わらないでくださいませ。私も貴方の視界に入らないように精一杯努めます。声を交わすのもこれで最後にしてくださいませ。失礼します」
イナベラは礼をして荷物を持って立ち去った。
全てが嫌だった。引き留める声も、自分への非難の声も聞きたくなかった。全て聞こえないフリをして憩いの場所に駆け込んだ。
イナベラは薬草園のお気に入りの木陰で膝を抱えた。
イナベラが薬草園に着いてしばらくするとライアンが現れた。
ライアンは毎日楽しそうに、刺繍をしていたイナベラを知っていた。1枚目の刺繍をおえて幸せそうに笑っていた。
次はもっと高度なものに挑戦すると意気込んでいたのを知っていた。自分に見向きもしない少女の隣は居心地が良かった。
そんなイナベラの豹変に目を見張り声をかけた。
「どうした?」
イナベラは自己嫌悪に飲み込まれていた。感情に任せ行動した自分に後悔していた。伯爵家から男爵家への抗議を想像して頭を抱えていた。刺繍や糸のことは物凄く悲しかった。それでも我慢しないといけなかった。冷静になれば報復されるほうが恐怖だった。
「やはり首を差し出すしかないのでしょうか」
「え?話してみなよ。その持ってる鋏を一度放そうか」
ライアンはイナベラの持つ鋏を取り上げた。
鋏で首は切れない。ただ虚ろな瞳の後輩が持つのは怖かった。
「私、自分より高位な方に無礼な態度をとりました。もともと嫌われていたのですが。うちに報復が・・。大事な家族や領民のためなら私の首など安いものです。遺書を書いて、おけば」
「学園の生徒同士の口喧嘩で家は動かないから、安心しなよ」
「私のうちは名ばかりの男爵家です。上位伯爵家に逆らいました。でも、お詫びにいくのも怖くて」
「俺が口添えしようか?」
「いえ、私の問題です。人様に迷惑はかけられません。私は荷物をまとめて参ります」
立ち上がろうとするイナベラの肩をライアンはおさえた。
放っておいたら死にそうだった。イナベラの視線が鋏から離れないのが余計に怖かった。
「落ち着こうか。大丈夫だよ。今日は刺繍はしないの?」
「糸、なくなってしまいました。それに・・」
ライアンはイナベラの手元の黒い塊に目を向けた。
よく見ると、刺繍の跡が見えた。
「博士、黒いインクを落とせる何かない?」
博士が出て来て、イナベラの刺繍を手に取った。
「イナベラ、最後まで完成させんか。死ぬのはいつでもできる」
「だって、もう糸も、それに今からじゃ間に合わない」
「インクは儂が落としてやる」
「糸は俺に任せてよ」
「ご迷惑はかけられません」
「気にしないで。いつものおやつのお礼だから。明日も放課後ここで。俺はこれで」
イナベラは二人の優しさに涙が溢れそうだった。立ち去っていくライアンを見つめてまた膝を抱えて丸まった。
博士にインクを落とすから見るか?と誘われゆっくりと立ち上がった。二人の優しさに甘え最後の思い出作りをすることにした。
***
エリオットは衝撃を受けていた。
いつも静かに傍にいたイナベラからの初めての拒絶だった。歳を重ねるにつれて恥じらいを持ったイナベラの口数が少なくなったのは寂しかったが、大事なことには変わりなかった。男爵領で屈託ない笑みを見せて駆けまわっていた少女は可憐だった。他の男が近づかないように手を回し、精一杯大事にしてきた。どうして拒絶されたかわからなかった。
あの後、場をおさめて追いかけてもイナベラは見つからなかった。
翌日も教室に探しに行ってもいなかった。令嬢達はイナベラは授業が終わるとすぐにいなくなると教えてくれたが、いっこうに見つからなかった。
ライアンはイナベラのことを調べた。エリオットの御執心の令嬢とは知らなかった。
学園内ではイナベラが糸を盗んで、伯爵家に無礼を働いたと噂になっていた。普段は干渉しないが、今にも死にそうなイナベラに不安を覚えて事実確認だけはすることにした。
ライアンはエリオットの教室を訪ねた。
「エリオット、久しぶりだな」
「ライアン様、お久しぶりです」
「噂は聞いたよ。家として動くのか?」
「まさかライアン様の耳に入るとは。耳を汚して申しわけありません。家として動くつもりはありません」
ライアンは子供の喧嘩で伯爵家が動くと思っていなかった。ただイナベラの怯え方が異常だった。
「このまま捨て置くのか」
「それは・・」
いつも流暢に話すエリオットが沈黙していた。
「彼女は遺書を書いて、首を差し出すと言っていたよ」
「は!?」
「伯爵家の報復を恐れて、家と領民のためと虚ろな瞳で呟いていたよ」
「申しわけありません。急用ゆえ失礼します」
エリオットが飛び出していくのをライアンは静かに見送った。
イナベラは陰口は気にせず課題をしていた。もうすぐ授業が始まるので、我慢するだけだった。
「イナベラ!!」
イナベラは教室に駆けこんできたエリオットを不快そうに見つめた。
視界に入らないように気をつけても授業直前の教室は無理である。
そしてな真顔で近づいてくるエリオットが怖かった。
「話がある」
「申しわけありません。授業がはじまります」
「昼休みに」
「かしこまりました。エリオット様の教室に伺えばよろしいでしょうか?」
「庭園」
「かしこまりました」
エリオットから報復の話があると覚悟していた。
遺書は昨晩書き終えた。
令嬢達の視線は気にしなかった。
自分が糸を盗み、伯爵家に無礼を働いたと話題にされても聞こえないふりをしていた。教師から呼び出しもなかったので噂自体は気にしなかった。それにイナベラにとっては伯爵家の報復以上に恐れるものはなかった。
荷物を持って、立ち上がると令嬢に囲まれた。
「あれだけ無礼を働いて行くんですか?」
「エリオット様には逆らえません」
「でしたら、私がかわりに行ってさしあげますわ」
「わかりました。よろしくお願い致します」
イナベラにはありがたい申し出だった。
行きたくなかった。目の前でえらそうにしている令嬢が代わってくれるなら、願ってもなかった。
「貴方より、私のほうが相応しいわ」
「はい。私も同意いたします」
「では、エリオット様の隣は私のものでよろしくて?」
「はい。是非。私のことは気にせずお二人の幸せを応援致します」
イナベラは令嬢にエリオットが夢中になり、自分の無礼を忘れてくれるように願った。
イナベラの言葉に満足した令嬢は立ち去った。
イナベラは裏庭の隅で食事をすることにした。エリオットに会わずにすみ喜んだ。人生で初めてエリオットファンの令嬢に感謝した。