第11話 空回り令息の幸運
イナベラは手紙を見て茫然とした。男爵家宛の借金の請求書だった。高額な数字に倒れたくなったが請求書には続きがあった。自分が嫁げば借金を払ってくれると綴られていた。
自分がどんなに稼いでも払えない額である。それを帳消しにしてもらえるならどんな相手でも構わなかった。イナベラは弱小とはいえ男爵令嬢である。家族や領のためを思えばどんなことも耐える決意をしていた。学園は卒業したかったがそんな我儘を言える状況ではなかった。
手紙の主は親切に相手の家に了承をとってくれていた。後妻とはいえ、借金を肩代わりしてくれるなら不満はなかった。ただ承諾するには了承をとらなければいけない相手がいた。
イナベラはエリオットの小間使いだった。
イナベラがの作ったお弁当を上機嫌で食べるエリオットとの食事もこれで最後と思いながら箸をすすめていた。食事が終わったので、イナベラはエリオットに向き直った。エリオットは上の空で食事をしていたイナベラが真剣な顔をして自分に向き合ったので、不思議に思っていた。
「エリオット様、私は一生貴方の小間使いでも構わなかったんですが、事情がかわりました。私のかわりにベンを小間使いにしてください」
真剣に言われる言葉にエリオットは戸惑っていた。
「僕は一度も小間使いと思ったことないけど」
「私は学園からいなくなります。ベンは当分入学しません。学園での小間使いは」
エリオットはイナベラが小間使いと思っていることは置いておくことにした。嫌な予感がした。イナベラが決意を固める時は危ないことを知っていた。
「イナベラ、どこに行くの?」
「私はエリオット様へのご恩が返せたら、嫁ごうと思っております」
「嫁ぐ?どこに」
「好条件をいただきました。私などでよければ喜んで身を差し出します。」
エリオットはイナベラに縁談がこないように手を回していた。男爵夫妻にも縁談の話がきたら教えてほしいと頼んでいた。そんな話題は一つもなかった。
「好条件って?」
「すぐに嫁げばうちの借金を肩代わりしていただけると」
男爵家に借金がないことをエリオットは知っていた。エリオットはイナベラと婚姻するため心象をよくしようと男爵家の領地経営も手伝っていた。
「イナベラ、男爵家に借金なんてないよ」
「え?」
「送られてきた手紙と請求書を見せてくれる?」
イナベラは鞄の中から取り出してエリオットに渡した。
エリオットは冷笑を浮かべた。
イナベラは冷たい空気に寒気がした。
「これは偽物だ。縁談は当主同士が話し合いをして決めるから、相手に返事をする前に男爵に相談しないといけないよ。」
「こんな請求書を見たらお父様は倒れてしまいます」
「当主はお金の管理もしているよ。当主が知らない借金があれば不正が行われている。イナベラに手紙がくること自体おかしいんだ」
「お父様のお手紙が私に間違ってきたということですか」
「この手紙は悪戯だよ」
「え?」
「たちの悪い悪戯だ。嫁ぐ必要はない」
イナベラは何度か瞬きをした。
「私はまだここで過ごせるのでしょうか…。」
「え?」
「これからもエリオット様とお昼を食べたり、博士やライアンとお茶をしていいのでしょうか」
エリオットはイナベラが茫然と零した言葉に心が浮き立った。
「ベンや両親と過ごせるのでしょうか」
「もちろんだよ。」
イナベラはエリオットの言葉に全身の力が抜けた。覚悟は決めても、今の幸せな時間を手放すのが寂しくて仕方なかった。
「私は駄目な男爵令嬢です」
「どうして?」
「嫁ぐ覚悟を決めたんです。でも今の幸せを手放さなくてすむことに、心底安心しているんです」
「幸せなの?」
「はい」
幸せそうに笑うイナベラの様子にエリオットは無意識に零した。
「僕と婚約してほしい」
「え?」
「あ、え、」
自分の言葉に慌てているエリオットにイナベラは笑った。
「うちとしては、ありがたいお話ですが、伯爵家に利がありません」
初めての肯定の言葉にエリオットはイナベラの顔を見つめた。冗談と思っているのはわかった。
「ある。両家に利はあるよ。男爵家への支援も約束する。イナベラの好きに過ごしてくれていい。男爵領に家を建ててもいい。社交もフォローする。だから将来僕の妻になってくれないか」
イナベラを見るエリオットの顔は真剣だった。
ずっとエリオットに助けてもらっていた。一緒に過ごす時間も楽しくなった。男爵家へ支援をしてもらえるなら好条件である。
ただ引っかかることがあった。
「本当に支援していただけますか?」
「約束するよ」
エリオットの真剣な顔に嘘は見られず、イナベラは頭を下げた。
「なんの取り柄もない私などでよければ、よろしくお願いいたします」
エリオットはイナベラを抱きしめた。イナベラは戸惑いながらもエリオットの背にゆっくりと手を回した。
「エリオット様なら他にも選択肢がありますのに」
「いらない。イナベラだけがいい。他の女なんて必要ない」
「その言葉を聞かれたら、嫉妬で殺されてしまいそうです」
「そんなことさせない。何があっても絶対守るから」
「お役に立てるように精一杯頑張ります」
「傍にいるだけでいい。」
「エリオット様は不思議な方ですね」
「先生には謝るから、一緒にサボってくれない?」
「私、エリオット様の所為にしますわ」
ふざけて返したイナベラにエリオットが笑った。
「構わないよ」
子供のようなエリオットがおかしくてイナベラは笑っていた。エリオットの隣は怖くても守ってもらえるのはわかっていた。エリオットへの警戒心がなくなったイナベラは自分の苦労がエリオットの所為ということは抜け落ちていた。
エリオットは泣きそうな自分の顔を見られたくなくて、落ち着くまで抱きしめていた。
自分の腕の中で穏やかな顔をしているイナベラがいることが嬉しくてたまらなかった。
「エリオット様、私、これはどうすればいいのですか?」
「僕に任せて。得意分野だから。」
「お任せしてもよろしいのでしょうか」
「僕は婚約者だからね。イナベラの同意さえもらえれば両当主には婚約許可はもらっているから」
「え?」
「僕の婚約者になってくれてありがとう。全力で幸せにするから安心して。」
イナベラはこれからも令嬢に意地悪されるだろうことを思い出した。
きっとエリオットの傍なら大丈夫だと思うことにした。イナベラの想像とは正反対な日が待っているとは思わなかった。
***
翌朝、エリオットが持ってきた書類に二人でサインをして、昼過ぎには婚約が整っていた。
昼休みに渡された伯爵からの手紙にイナベラは驚いていた。
半日ですむものではなかった。
婚約披露のパーティは翌月だった。物事が早く進みすぎてイナベラはついていけなかった。
食事を終えて教室に戻ったイナベラはエリオットが教壇に立って婚約証明書を掲げたことに目を丸くした。
「イナベラと婚約した。今後、手を出したら相応の処置をとるから覚えておいて。今までのような甘いことはしないから」
クラス中の視線が集まっていた。二人は婚約者と思っている生徒ばかりだった。驚愕、嫉妬、同情など、思いは様々でも、目立っていた。イナベラは崩れ落ちたくなった。
「エリオット様、やめてください」
「なにも心配しなくていいから」
「私は大丈夫です。お願いだから」
自分に優しい笑みを浮かべる男が本当に優しい人物なのかイナベラは不安になった。
好条件でも婚約は間違いだったかもしれないと後悔しても遅かった。
それから周りの態度は豹変した。
イナベラに意地悪を言っていた令嬢の取り巻きがイナベラに話しかけるようになった。
「イナベラ様、今まで申しわけありませんでした。私、怖くて」
「私も。伯爵令嬢に逆らえませんでした」
「気にしないでくださいませ」
「まぁ、なんてお優しいのかしら」
自分に楽しそうな顔で意地悪をしていた令嬢の豹変に耐えられなかった。
授業があるのはわかっていた。それでもイナベラは荷物を抱えて、薬草園に駆けだした。
イナベラは木陰にうずくまっていた。博士は放っておくことにした。授業をサボって困るのはイナベラである。イナベラはしばらくすると現実逃避に刺繍をはじめた。ぼんやり刺繍をしていたら一枚のハンカチが花だらけになっていた。エリオットから金貨で取引されると聞いた言葉を思い出した。これを見たらライアンにいくら請求されるかと思うと恐怖だった。
放課後に現れたライアンは真っ青な顔のイナベラに首を傾げた。
「ライアン、私、失敗して、しまった、ので、これは、いくらで買い取ればいいのでしょうか」
怯えた顔でたどたどしく話す内容にライアンは噴き出した。
ライアンは失敗しても代金を請求する気はなかった。むしろ見事な刺繍だった。
「銀貨4枚あげるよ」
「銀貨4枚なら私も払えます」
心底安心しているイナベラの頭を軽く叩いた。
「逆だよ。売れる。俺の言葉を聞き逃すなよ」
「ごめんなさい。ありがとう。よろしくお願いします」
「イナベラ、もうお前金いらないだろ」
「いりますよ。男爵領は貧乏なことは代りません。私に利用価値があるうちは今後も雇ってください」
「俺としてはありがたいけどな。」
「私、ライアンとスケッチするの好きなんです」
ライアンはイナベラにスケッチブックを渡した。
「婚約祝い」
「こんな高価なものをいただけません」
「お前のスケッチも売れそうだから、これに描いてよ。」
「失敗したらお幾らですか?」
「金をとったりしないよ」
「ありがたくいただきます。全部描けたらお渡ししますね」
スケッチブックを嬉しそうに胸に抱いたイナベラにライアンは色鉛筆を差し出した。
「これは商売道具だからやるよ」
イナベラの目が輝いた。
「色がたくさんあります。初めて見ました」
ライアンは世間知らずなイナベラが貴族の中で生きていけるか不安に思ったが、気が向けば助けてやることにした。イナベラが興奮していると、エリオットが薬草園に駆けてきた。
ライアンは気付いても色鉛筆に夢中なイナベラは気付かなかった。
「イナベラ、教室から飛び出したって聞いたんだけど」
イナベラはエリオットの声に顔をあげ、頭を下げた。
「申しわけありません。心の問題です。」
「何があった?」
「私、もう気分が悪くて耐えきれずに」
「何か言われたのか?」
「皆様に謝罪や賞賛されるのが耐えきれずに」
エリオットは気まずそうなイナベラの顔を見て事情を察した。婚約が決まってからイナベラへの嫌がらせをクラスの男子全員に思いつく限り全て報告書にまとめさせていた。あまりの酷さに報復を考えている所だった。
突然、態度を変えられたら怯えるのは当然だった。
イナベラは学園を卒業すれば下位貴族ばかりのクラスメイトと関わる必要はない。
うまくやれなくても問題はないのでエリオットは手を回すことにした。
「いや、元気ならいいよ。俺はこれで」
「はい。ご心配をおかけしました」
エリオットは薬草園での時間を邪魔するつもりはなかった。
やることはたくさんあったので、立ち去った。
イナベラはお茶の準備をはじめた。ライアンはイナベラが自分の生家を知ったら驚くだろうと思いながらお茶を飲んでいた。




