第10話 困惑令嬢と怖い出来事
イナベラは熱が下がり登校した日、図書室の本のお詫びに行くと教師に災難だったわねと慰められ、罰則を受けないことにほっと息をついた。エリオットが動いてくれたことに心の中で感謝を告げた。
イナベラはエリオットにも感謝をこめておやつを用意した。エリオットとライアンは甘さ控えめで博士には甘めのお菓子を。エリオットにお菓子を渡すと嬉しそうに笑う様子がイナベラは嬉しかった。最近はエリオットの時間が苦痛でも嫌でもなくなった。ライアンや博士のようにおやつに細かい注文をつけないから不安だったが、いつも嬉しそうに受け取る姿に気に入ってくれていると思うことにした。
エリオットは毎日差し入れをくれ、怯えなくなったイナベラに喜んでいた。
職人の味には敵わないがイナベラが作ってくれただけでも満足だった。「ライアンや博士は細かい注文をつけるのにエリオット様は何も言いませんね」と笑う姿に複雑でも、イナベラが二人を大事に想っているので嫉妬を抑えて微笑んだ。イナベラは仕事を貰えることに感謝してるのも知っていたので、できるだけ暖かく見守る努力をした。怯えられないために。
***
イナベラはエリオットに青い宝石の飾られた見事な髪飾りにネックレス、イヤリングを贈られ恐縮していた。エリオットには、お礼なら夜会で常に身につけて欲しいと言われ、伯爵夫人にもお金は有り余ってるから気にしなくていいわと言われ、イナベラは断れず身に付けた。伯爵だけが自分の瞳の色と同じ装飾品を一式贈った息子の独占欲に引き曖昧な笑みを浮かべていた。
イナベラは父やベンのお世話になっている貴族達に挨拶に回り、何人かとダンスを踊り、一息つこうとするとグラスを差し出された。昔からの経験もあり気付くと隣にいる相手に驚くのはやめお礼を言って受け取る。
「身に付けてくれていて、嬉しいよ」
「こんな貴重な物を壊したらと思うと緊張します」
「そしたらまた贈るよ。財は有り余っているからね」
イナベラは上機嫌なエリオットに曖昧に微笑んだ。さすが上位貴族の名門伯爵家。イナベラには一生縁のない言葉である。そしてエリオットが側に来てから令嬢達の視線が突き刺さり、イナベラは勇気を出して口を開いた。
「エリオット様、ご挨拶は終わりましたの?」
「ああ」
「でしたら、ご令嬢の下に戻ってくださいませ。先ほどからダンスに誘われたいご令嬢の視線が痛いです」
エリオットは空になったグラスを自然な動作でイナベラの手をから取り給仕に渡す。曖昧に微笑むイナベラに手を出して笑みを浮かべる。
「僕と踊っていただけませんか」
男爵令嬢に許された答えは一つだけ。イナベラは傍を離れないエリオットの誘いを諦めて受けた。
エリオットにリードされダンスを踊る。嫉妬の視線は痛くても、怖くないエリオットと踊るのは楽しかった。自然な笑みを浮かべるイナベラにエリオットの笑みが甘くなる。イナベラはエリオットの変化に気付かず苦痛な時間が楽しい時間になるとは思わなかったとしみじみと思いながらステップを踏んでいた。
***
イナベラは薬草園に向かう途中に転んでいる女生徒を見つけ足を止める。
怖がられるので声をかけようか迷ったが、立ち上がらない姿に不安になり、そっと近づきしゃがみこんだ。
「大丈夫ですか?」
「叩かないで」
女生徒の怯える様子に目を丸くする。
「叩きませんよ。傷の手当てをしましょう」
「怖い」
イナベラは怯える女生徒の前におやつを差し出した。
「おやつ食べませんか?」
「え?」
先ほどから女生徒のお腹の音が聞こえていた。
女生徒は顔をあげ、イナベラがクッキーを1枚渡すと恐る恐る口にいれた。
「おいしい」
「よかったです。虫は平気ですか?虫が出ますが優しい場所がありますの。よければ一緒にお茶をしましょう」
イナベラはボロボロの少女に親近感を覚え頷く後輩の手を引いて薬草園に足を進めた。
博士から薬草をわけてもらい、ダリアという後輩の治療をはじめるとダリアは無言だった。
手当も終わったのでイナベラはお茶に誘った。
今日はライアンはいなかった。お互いに打ち合わせがなければ約束をすることはなかった。
ダリアが手を止めることなくお菓子をずっと食べている姿にイナベラは心配になった。
「ご飯、食べてますか?」
ダリアは首を横に振った。
「どうして?」
「食堂怖い」
「貴方、食事は?」
「水」
イナベラは言葉を失った。イナベラは食事では意地悪されなかった。
「もしよければ、明日の朝ここに来てください。一緒に朝ごはんを食べましょう。用意します」
「なんで?」
「食事は大切です。私と一緒にいるのを見られると、貴方がいじめられるかもしれません。ですから内緒にしてください」
「いじめ?」
「もう長年のことなので気にしないでください。明日、来てくれますか?」
ダリアは頷いたのでイナベラはほっとしていた。
イナベラは博士にお願いして当分場所を借りることにした。博士はダリアのことを知っていたが何も言わなかった。
イナベラは刺繍はせずに、厨房に向かい大量のお菓子作りを始めた。そして明日から早朝に厨房を借りることと材料を分けてもらえないかお願いをした。料理人は快く受け入れてくれた。イナベラにはエリオットのように料理人に弁当を用意してもらうという発想はなかった。
イナベラは朝からダリアの食事を作り始めた。あまりの量に手の空いた料理人がイナベラに声を掛けてくれたので、イナベラはありがたく手を借りることにした。三食分の大量の食事を作るのは中々大変だった。
料理を終えたイナベラは料理人に感謝を告げて薬草園に向かった。恐縮するダリアに食事は大事と言い聞かせ共に食事を食べた。孤児院を手伝っている気分のイナベラはダリアにお昼のお弁当を渡すと困惑した顔を向けられた。
「こんなにいらない」
「え?」
「一つでいい。でも取られるかも」
「なら、ここに置いておくから食べにきてくれる?ここは虫が出るからほとんど生徒は近寄らないわ」
「わかった」
「また放課後会いましょう」
イナベラは昨日のダリアの食欲を思い出して、ダリアがたくさん食べると思いお昼のお弁当を3つ用意していた。
夜の食事は厨房の冷蔵庫に保管していた。
お弁当の一つは博士に押し付け、もう一つを誰に押し付けようか悩んでいた。ライアンのクラスは知らない。ぼんやり歩いていたイナベラは肩を叩かれて、顔をあげるとエリオットがいた。慌てて頭をさげふと思い付く。
「エリオット様、お弁当を渡したら受け取ってくださるお友達はいますか?」
「え?」
「今朝、作りすぎてしまいまして」
「欲しい」
「ありがとうございます。粗末なものなので、あまり気にしない方に渡してくださいませ」
イナベラは残りのお弁当の押し付け先が見つかったことに安心した。エリオットは自分と違って友人がたくさんいるのでさすがと感心していた。
庭園で食事をしているとエリオットが自分の渡したお弁当を食べていることに目を丸くした。
「エリオット様。それはあなたが召し上がるものでは」
「美味しいよ」
「伯爵家の方に食べさせるものでは」
「僕、イナベラの料理が好きだよ。余りでも嬉しい。余ったらでいいからまた欲しい」
上機嫌で食べているエリオットにイナベラは困惑した。それでも自分の料理を喜んでもらえるのは嬉しかった。
「粗末な食事でよければ明日も作りますよ」
「本当?」
「はい」
ベンのように無邪気に喜ぶエリオットにイナベラは弟を思いだし笑う。最近のエリオットはイナベラにとって優しいけど不思議な人だった。
***
放課後、イナベラは薬草園で刺繍をしているとダリアが来たので商売道具を片付けた。
貴重な物なのでライアンと博士以外の前では作業をしないことにしていた。
イナベラがお茶の用意をはじめるとダリアに弁当箱を返されて、中身が空のことに安堵した。
イナベラはダリアから事情を聞くつもりはなく、食事さえしてくれればよかった。
ダリアはイナベラのお菓子を無言で凄い勢いで食べていた。博士とライアンの分は別にしてあるので完食されても構わず、女の子なのによく食べると感心しながらダリアを眺めお茶を飲んでいた。
ライアンは薬草園にダリアの姿を見つけて踵を返し、しばらく立ち寄らないことを決めた。
ライアンはダリアと関わりたくなかった。イナベラが心配になったが博士がいるなら問題ないと思うことにした。ライアンは厄介事には関わりたくない。
ダリアがお菓子を完食したので、イナベラは夜の分の弁当を渡した。また明日の朝ねと手を振ったがダリアが立ち上がる様子はなかった。イナベラは気にせずいつもの場所に座りベンのためのハンカチに刺繍を始めた。ダリアはイナベラをぼんやりと見ていた。
イナベラがダリアに食事を用意する日が続いていたが二人の間に会話はなかった。
イナベラはダリアとのお茶が終わると、お気に入りの木陰でベンのための刺繍をする。刺繍をしているイナベラは突然肩を押され、バランスを崩して倒れ込む。自分の上に股がっているダリアに困惑してながら口を開く。
「どいてくれますか?」
イナベラが起き上がろうとすると強い力で肩を抑えられて動けなかった。
綺麗な顔で見降ろされて恐怖に襲われイナベラは声を上げた。
「博士、博士、」
エリオットはライアンに時々薬草園に様子を見に行くように頼まれていた。
ライアンは念の為保険をかけた。
エリオットは悲鳴が聞こえて駆けつけるとイナベラが押し倒され、上に乗っている女生徒の顔を、殴ろうとしたが避けられた。
エリオットは呆然としているイナベラを起こし、無意識に自分の腕に抱きつくイナベラに口元が緩みそうになったが目の前の存在を見ると一瞬で霧散し不愉快な気持ちが起こった。
「何をしようとした」
エリオットはダリアを鋭い目つきで睨むと、ダリアは目を細めて笑う。
「お礼をしようとした。女の子の喜ぶこと」
エリオットはダリアをさらに鋭い目で睨んだ。
「明らかに怯えていただろうが」
「最初だけだよ」
エリオットはイナベラがいなければ胸ぐらを掴んで殴っていた。剣があれば切り落としていた。ただ自分の腕に抱きついてるイナベラの前で手荒なことはできなかった。
「ふざけんな」
「女の子は喜ぶよ」
「お前に好意のある女はな。良識のある女は絶対に受け入れない。遊びたいなら他にしろ」
「彼女も僕に好意がある」
二人の会話にイナベラは混乱していた。エリオットの視線に顔を横に振った。親近感を持っても好意はない。できればもう関わりたくなかった。エリオットとのやりとりを見て、親近感を持ったことが間違いだと気づいていた。ただただ恐怖に襲われていた。
エリオットは優しい声をなんとか絞り出した。
「イナベラ、混乱しているところ悪いけど説明できる?」
イナベラはいじめられて食事もできない後輩を餓死させるわけにはいかないので食事を与えていたことをたどたどしく説明した。
「こいつはいじめられてない。いつもボロボロなのは、人の女に手を出して報復されただけ。使用人も持っているから餓死する心配はない」
「え?まって、女?」
「こいつ、男だよ」
イナベラは呆然とした。目の前にいるのは美少女だった。
さらに恐怖が助長されとうとう震えだした。エリオットは真っ青な顔で震えるイナベラを優しく抱き寄せた。イナベラはダリアを見ることさえも怖くなりエリオットの胸に顔を埋めた。
エリオットはそっとイナベラの耳を塞いだ。
イナベラが自分の胸に顔を埋めているので、ダリアを冷たい目で睨みつけた。
「イナベラにも、ここにも近づくなよ。命令だ」
「僕、お礼してない。それに彼女の食事はうまい」
「必要ない。誰がやるか。近づいたら次は息の根止めてやるよ」
「せっかく玩具を見つけたのに。まぁ怖い番犬がいるならいいや。次の玩具を探しに行くよ」
エリオットはダリアを絞めるのは後にした。
最優先はイナベラだった。
ダリアが去ってしばらくするとイナベラがようやく顔をあげた。
「エリオット様、私、なにがなんだか」
「忘れていいから、もう近づかないで。何かされたら僕のところに来るんだよ」
イナベラは静かに頷くしかなかった。上位貴族はほとんど知らなかった。夜会で顔見知りになっても、私的に会うことはなかった。イナベラは自分の常識が違うのかと不安になった。
「エリオット様も女性の制服を着るんですか」
怯えた顔で自分を見るイナベラに優しい笑みを浮かべた。一歩間違えると自分も怯えられるので、慎重に言葉を選ばないといけなかった。
「着ないよ。あれはあいつだけだよ。一応教えるけど、あれは僕の同級生だ」
「私の目は節穴でした。助けていただきありがとうございました。申しわけありませんが、もう少しだけ傍にいていただけませんか」
「もちろんいいよ。帰りは送るよ」
イナベラはエリオットの言葉に静かに頷いた。もう学園では博士とライアン以外と関わるのはやめようとイナベラは思った瞬間だった。昔のエリオットよりも怖いものがあるとは知らなかった。
ダリアは学園内でも有名な遊び人。綺麗な容姿で令嬢を虜にする愉快犯であり婚約者に手を出した男と殴り合うのは日常茶飯事だった。
面倒な男に目をつけられて、女装をして逃れていた時にイナベラに出会った。愉快な遊びを思いつき、せっかくなので楽しむことにした。イナベラは自分に無関心そうに見せて、優しく世話をやくので素直に慣れないタイプだと思っていた。
ただエリオットのお気に入りと知り、もう手を出すことはやめた。男色家の生徒と閉じ込められ、大柄な男に追いかけ回される。恐ろしい学園生活に嫌気がさして、ほとぼりがさめるまでダリアは領地に逃げていた。
エリオットはダリアの髪色の生徒を見ると怯えるイナベラを慰める日を続けていた。好きな少女に頼りにされるのは気分が良かった。そしてダリアが休んでいることを伝えて安心させることは思い付かなかった。




