第5話後編 困惑令嬢の恐怖の出来事
事件が解決するまでイナベラとベンは伯爵邸で生活をしていた。男爵より「学園を休む手続きはしてあるから安心してお世話になりなさい」と手紙がきた。全然安心してお世話になれなかったがイナベラはベンを伯爵邸に残して学園に行くなど怖くてできなかった。ベンの件が無事に解決しても、伯爵家で不敬を働けば男爵家存亡の危機だった。イナベラにとって一難去ってまた一難な状況だった。
エリオットに屋敷内は自由を許されていたので、書庫で読書をしていた。イナベラは遊びに行きたいというベンを宥めて書庫に連れて来た。伯爵家は高価な物が多すぎて、出歩くのが怖かった。特にべンが一緒だと尚更恐ろしかった。自分から離れようとする弟の手を引きながら、平静を装い細心の注意を払って、時間が過ぎるのを待っていた。割れ物がない一番安全な書庫でイナベラは本の世界に入り込むことにした。
「姉上、姉上」
イナベラは弟に声をかけられて本から顔を上げた。
目の前にはエリオットがいるため、穏やかな表情を作った。
「不便はないか?」
「よくしていただいたおります」
「それはよかった。ずっと家の中だと息が詰まらないか?」
粗相を責められるのかと警戒していたイナベラはエリオットの言葉に首を傾げたいのを我慢した。
イナベラは不便はなかった。ただ弟は違うと思っていた。
「いえ。私は外に出られなくても構いませんが、弟が」
「姉上、僕は大丈夫です」
ベンの礼儀正しい態度にイナベラは微笑んで頭を撫でた。やんちゃな弟の成長が誇らしかった。
エリオットは二人を外に誘い、一緒に過ごそうとしたけど無邪気な笑顔のベンに邪魔をされた。
「エリオット様の前だときちんとしてえらいわ」
二人の攻防をイナベラだけがわかっていなかった。
エリオットはイナベラと過ごしたくても、ベンに邪魔をされうまくいかなかった。イナベラはベンが粗相をするのが怖く、側を離れなかった。離れるのは伯爵夫人に呼ばれた時だけだった。エリオットよりも伯爵夫人のほうがイナベラと過ごしていた。
「母上に付き合ってくれて礼を言う」
「いえ、私こそ楽しい時間を過ごさせていただいています」
「姉上、エリオット様の邪魔は駄目だよ。」
「そうね。お気遣いありがとうございます。」
「エリオット様、お仕事頑張ってください」
イナベラが弟の成長を喜んで頭を撫でる様子を見て、無邪気に見えるベンの言葉を無視することはエリオットにはできなかった。エリオットはベンの思惑通りに退散することにした。
***
伯爵邸でお世話になっているイナベラにはベンのこと以外でもう一つ悩みがあった。
イナベラはエリオットに何も命令されないことに不安を覚えていた。お世話になるだけで申しわけなく思っていた。ベンが粗相をしないように傍から離さないのは男爵家として必要なことだった。イナベラには伯爵夫人に呼ばれてお茶に付き合うことしかできなかった。
伯爵夫人がイナベラとのお茶を気に入り、機嫌が良いことに周りが感謝をしていることには気づいていなかった。
イナベラは伯爵夫人からエリオットにお茶を運んでほしいと頼まれ快く了承した。親切な侍女に教えてもらいながらお茶の用意をした。エリオットの部屋をノックするも声がなかったので、引き返そうとすると執事にどうぞと扉を開けられ戸惑いながらも足を運んだ。執事がいるなら、自分がお茶を淹れる必要性はわからなかったが引き受けたので、最後までこなすことにした。
冷たい空気を出して書類から目を離さないエリオットの邪魔にならないように、気配を消してお茶を置いて立ち去った。部屋から出たイナベラはエリオットの機嫌を損ねなかったことに安堵の息をこぼした。
エリオットはイナベラに気付かなかった。出されたお茶の味がいつもと違っても咎める時間を惜しんで目を瞑った。後に自分の母にイナベラにお茶を用意させた話を聞いて、貴重な機会を逃したことに唖然としていた。
母は息子の滑稽さに肩を震わせて笑っていた。
エリオットはそれからはノックの音を気に掛けることにした。
侍女はお茶を運ぶとエリオットの落胆と苛立ちの視線に耐えきれなかった。
イナベラはベンと書庫に向かう途中で侍女達が青い顔で話し合っている様子に足を止めた。
「何かお手伝いできることはありますか?」
「お茶をお運びしないと・・・」
イナベラが自分にもできそうなので笑顔を浮かべて申し出た。
「私でよろしければ、お手伝いしましょうか?」
「イナベラ様!?」
侍女はイナベラの声に顔をあげた。侍女にとっては救世主だった。伯爵邸ではイナベラがエリオットの想い人と知らない者はいなかった。
「よろしいのですか?」
侍女の縋る視線にイナベラは快く頷いた。
「はい。ベン、まっすぐ書庫に行って待っててくれる?絶対に他の物を触らず、壊さないで。大人しく待ってて」
「うん。気をつけるよ。約束通りに姉上を待ってる。」
「えらいわ。気をつけていってらっしゃい」
無邪気に手を振るベンを見送り、イナベラはお茶の用意を始めた。
気やすく優しい男爵姉弟は侍女達に人気だった。
曲者揃いの伯爵家に仕える者にとって、無害な二人は癒やしだった。美少女と美少年の仲睦まじい様子も目の保養だった。
イナベラはお茶を出す相手がエリオットとは思わなかった。了承してしまったので覚悟を決めた。イナベラは気配を消すのが得意なため、きっと気付かれないと自分に言い聞かせて、エリオットの部屋に向かった。親切な侍女にエリオットはノックをしても声がない時は入室を許されていると教えてもらった。
イナベラはノックをして、そっと中に入りお茶を運ぶと視線を向けられ逃げ出したくなった。睨まれる目は怖くても、イナベラは精一杯穏やかな笑みを浮かべた。
エリオットも最近はイナベラの社交の笑みは見分けられるようになっていた。落胆した顔をして怯えられるわけにはいかないので静かに微笑み返した。イナベラは困惑しても平静を装いお茶を淹れた。エリオットはイナベラが自分のためにお茶を淹れているのに気分が良くなった。ベンが一緒にいない幸運にも。
「休憩に付き合ってくれないか?」
「エリオット様?」
「話し相手になってよ」
「かしこまりました」
イナベラは視線で促され座った。エリオットが執事を呼び、イナベラの分のお茶とお菓子を用意した。
イナベラは自分がお茶を淹れた意味がやはりわからなかったけど、気にせずお茶に付き合うことにした。
エリオットは幸せそうにお菓子を食べるイナベラを見ていた。イナベラは甘い物が好きだった。伯爵家のお菓子は美味しかった。美味しいお茶とお菓子のおかげでイナベラの緊張がほどけていた。美味しいお菓子を食べおえて、イナベラは衝撃の事実を思い出した。
「エリオット様、ありがとうございました。この御恩にどのように報いればいいのでしょうか」
エリオットは幸せそうな顔をしていたイナベラが突然真剣な表情をしたのを残念に思いながらも穏やかな笑みを向けた。イナベラが懇願したときの恐ろしい言葉を思い出した。
「僕はやるべきことをしただけだから。お礼も首もいらない。」
「それでも私達が救われたのはエリオット様のおかげです。」
「その言葉だけで充分だよ」
「いえ、さすがに」
恐縮しているイナベラにエリオットは悩んだ。イナベラのためでなく自分のためにしているのでお礼はいらなかった。一緒に過ごせるのは役得でも。
ここで婚約してほしいと願うのは、よくないとわかっていた。ただ何もいらないと言っても、顔が曇るだけな気がした。恐縮した顔より喜ぶ顔が見たかった。エリオットはイナベラが喜びそうなことを思い浮かんだ。
「刺繍をしてくれないか?」
「刺繍ですか?」
「僕のために」
イナベラは悩んだ。刺繍をするのは問題ない。ただエリオットが身に付けるものは高価なものだった。
無言で考えこむイナベラにエリオットは不安になった。
ベンのために一生懸命刺繍をする様子が羨ましかった。悩ませるような願いを言う気はなかった。
「駄目かな?」
不服そうなエリオットの声にイナベラは慌てて顔をあげた。
恩人の機嫌を損ねるわけにはいかなかった。
「私はエリオット様にさしあげられる高価な素材がありません」
「素材?嫌ではないの?」
「とんでもありません。相応しい物があれば喜んで刺繍させていただきます」
エリオットは、イナベラが嫌がってないことに安堵の笑みをこぼした。
「用意する。糸も針も。本当に?」
豹変して突然嬉しそうな顔をするエリオットがイナベラは怖かった。
「はい。ただあまり難しいものはご勘弁ください。魔王は無理です」
心底申しわけない表情を浮かべて話すイナベラにエリオットは気が抜けた。魔王なんて思いつきもしなかった。イナベラの言葉はエリオットの予想を超えていた。
「魔王なんて頼まないよ。マントに紋章は?」
「そんなものでよければいくらでも刺繍します。ご希望いただければ紋章以外でも。」
「紋章だけでいいよ。」
「お任せください」
大きいマントに複雑な紋章を刺繍するのは大変である。男子生徒は恋人の刺繍に憧れていた。
イナベラはエリオットに渡されたマントと刺繍道具を受け取り立ち去るために腰をあげた。
「もし、良ければここで刺繍してくれないか?」
イナベラはエリオットの言葉に目を丸くした。
「お邪魔ではありませんか?」
「全然。それに自分のマントが刺繍されていくのも興味深い」
イナベラはエリオットが大事なマントにイナベラが粗相をしないか心配しているのだと思った。どこで刺繍しても問題はない。ただベンが心配だった。エリオットはイナベラが顔を顰めていたのでベンのことで悩んでいることがわかった。イナベラが自分の前で顔を顰めるのはいつもベンのことだと知っていた。
「ベンには遊び相手に執事をつけるよ。」
「あの子が粗相をしたら・・」
「ベンなら大丈夫だと思うけど子供に慣れてる執事をつけるから安心して。」
イナベラは申し出に甘えることにした。
「ありがとうごいます」
イナベラは椅子に座り、刺繍をはじめた。ベンの心配がなければエリオットの言葉に逆らう気はなかった。時々エリオットの視線が気になったが気にせず進めることにした。エリオットはイナベラのために用意していた刺繍道具で、自分のマントに刺繍する姿を上機嫌に眺めながら仕事に戻ることにした。
使用人にとってエリオットは気難しい主だった。だがイナベラが傍にいれば機嫌がよかった。お茶の淹れ方にも拘りがあり、差し出すタイミングを逃すと叱責を受けた。
最近はお茶に気づくと一緒にいるイナベラが笑顔を見せたので、エリオットが不快な顔をすることはなかった。
使用人は是非早く嫁に迎えて欲しいと節に願っていた。
でも使用人やエリオットにとって幸福な日は続かなかった。
事件の処理が終わりを迎えた。
「イナベラ、片付いたよ。ベンは無実だ。不自由な思いをさせてすまなかった」
「とんでもありません。このご恩は一生忘れません。助けていただきありがとうございます」
イナベラは礼をして、ベンと共に男爵家に帰っていった。馬車の中でベンが粗相もなく伯爵邸で過ごせたことを褒めた。イナベラは恐怖の伯爵邸での生活が終わり安堵していた。
男爵邸で両親と無事を喜び家族で食事をして学園に帰ることにした。
ワインをかけた伯爵家が取り潰しになったことは知らなかった。学園に戻りクラスメイトの伯爵令嬢が留学したと聞いても、イナベラはどうでも良かった。
放課後に薬草園に行くと博士から真っ白に染まったドレスを受け取った。イナベラはライアンと相談しながら、刺繍の図案を描いた。ライアンはイナベラに起こったことを知っていたが何も言わなかった。今回の件にはライアンも関係があったので、エリオットとの取引にのった。ベンに謂れのない罪を被せた伯爵家はライアンとエリオットに責められれば、逆らうことはできなかった。




