1-3
二機の箒機が空に軌跡を描く。
昴のGB-4000と翼のGW-01スカイウィングはまるで踊るように飛んでいた。
先行するのは翼。
低速カーブで距離が詰まる。
しかしカーブを抜けた瞬間に離される。
昴は歯痒い思いをしながら前を飛ぶ翼の背中を追いかける。
箒機の性能の違いから、この勝負にはハンデが附けられている。
翼は5速と6速を封印。
昴はバッテリーを最も軽いショートバッテリーを使用し、翼は最も重いラージバッテリーを使用。
そして翼は瞬間加速システムを使用不可能。。
これだけハンデが付いていても追い付けない
その事が昴に焦りを生む。
それを自覚して焦るなと自分に言い聞かせているのだが、既に三周勝負の二週目が終わりに近づいている。
そろそろ仕掛けなくては、このまま終わってしまうだろう。
もっと飛んでいたい。
終わりが近づく事が不満でならない。
この望んでいた至福の戦いをもっと味わいたい。
不思議とそんな気持ちを抱いた事に昴は驚いていた。
しかし驚きなどという雑念はすぐに捨てた。
この戦いに楽しさ以外のものは余計だ。
楽しくて楽しくて堪らない。
こんな気持ちにさせるフライヤーがいたことが嬉しい。
こんな気持ちにさせるフライヤーに出会えたのが嬉しい。
ずっと先行を許しているのに楽しい。
追い付けないのが楽しい。
きっと抜いたらもっと楽しい。
そして抜き返されたらもっともっと楽しいだろう。
こんな空があった事を知らなかった。
「そんなに私のお尻は魅力的かしら?」
無線で翼が挑発してくる。
昴は舌戦に応えるべく、右手の親指で無線のボタンを押した。
「お前、屁こくなよ。卑怯だぞ」
「こ、こいてないわよ!」
こうかはばつぐんだ。
翼の挙動が若干乱れた隙に昴は有利な位置へ移動する。
今までは翼のブロックを受けて上手く取れなかったが、これで次のカーブで内側を取れる。
「卑怯者!」
「先に仕掛けたのはそっちだ」
通常のレースでは同じチーム所属ではないフライヤー同士の無線のやり取りはできないが、今回は特別に昴と翼の無線は繋がれている。
本来は実機で飛びながら互いに気づいた点を指摘し合うために、ロブが繋いでくれたものである。
二機がコーナーに突入する。
速度の乗っていた翼は外に膨らみ、その内側を昴が追い付く。
二機が並んでリングを通過した。
翼のヘルメット側面に描かれた『空飛ぶ猫又』のパーソナルマークを視界に捉えた時、それが笑ったような気がした。
次の瞬間、翼が機首を下に向け下降する。
次のリングには必要ないアクションだ。
翼の意図を落下加速だと思い、昴は一瞬遅れて同じく下降。
落下加速を得た翼は再び昴の前に出る。
次のリングはギリギリ通過できる高度である。
昴もその高度で機体を立て直すが、落下加速を得るのが遅れた分だけ翼に先行を許してしまったが、それは問題ではなかった。
挽回できないほど前に出られたわけではない。
だが、翼の狙いはその先にあった。
「やられた!」
翼に釣られて下降した事を昴は後悔した。
次のリングは問題ない。
だがその次のリングは高い位置にある。
ハンデ付きでもスカイウィングの方が上昇性能は高い。
上昇勝負では勝ち目がないのだ。
今のは翼にリードされても高度を維持するべき局面だったのだ。
口での駆け引きでは昴に分があったが、レースの駆け引きでは翼の勝ちだった。
「くそ! くそくそくそくそ! やりやがった!」
終わってしまう。
せっかく最高の時間だったのに、自分のミスで終わる。
その事が悔しかった。
結局このミスを取り返せず、昴は負けた。
ピットに戻り昴は先に降りていた翼のドヤ顔に迎えられた。
実に憎たらしいドヤ顔だが、これは甘んじて受けなくてはならない。
完全にレースを作られた。
ハンデによって箒機の性能は近づいていた。
その上で最も差があった上昇性能を活かせる勝負に持っていった翼の作戦勝ちだ。
「さーて、何でも言うこと聞いてもらう約束だったわよね。何をしてもらおうかしら」
両手をワキワキと動かしながら翼は言う。
何をさせる気なのだろうか。
しかし昴は翼に何かを要求させる気など、最初から無かった。
「勘違いしているぞ」
「ふえ?」
リスクの高い勝負を行う時は絶対に勝てると確信した時だけ。
それが昴が今日までのレース経験で学んだことだ。
どれほど頭がヒートアップしていても、昴は賭けるものを間違えない。
「何でも言うこと聞いてやる」
昴はそう言った。
それを賭け金としてBETした。
「僕はこれから翼の言うことを、どんなくだらない事でも何でも耳を塞がずにちゃんと聞く。あーあ、我ながら損な勝負しちゃったよ」
あくまで言葉を聞くだけ。
願いを叶えるわけではない。
「な、な、な……」
レースの駆け引きでは翼の勝ちだった。
しかし口での駆け引きでは、昴が最初から勝っていたのだ。
「悪党だねコウ。それって何も賭けてないのと同じだよ」
PCでレースの分析を行いながらロブが言う。
「確認しない方が悪いのさ。ロブ、飛行ログ出せる?」
「ちょっと待って……はい、いいよ」
ロブの差し出したタブレットのモニターに白と青の矢印が現れると、昴はそれを覗き、翼も頬を膨らませながら昴の隣で注目する。
白い矢印は昴を、青い矢印は翼の飛んだ軌跡を描いてモニター上をグングン伸びる。
それを見ている内に翼の不機嫌そうに吊り上がっていた目は元に戻り、頬から空気も抜けていった。
「翼、ここ」
「うん、飛んでるときも少し気になったわ」
「この時期のこの時間帯は僕の飛んだルートだと追い風を得る」
「覚えておくわ。あ、今のは惜しかったわ。もう少し過重を丁寧にしてたら抜かれてたと思う」
「やっぱりか。少し慎重になりすぎた」
「それからここなんだけど」
「ミスしたよな」
「う、バレてたか」
「5速のつもりだったか?」
「その通りでございます」
「このラインは……」
「その場合は……」
飛行ログを洗い互いの意見を交換する二人から邪魔にならないように、ロブはそっと席を立ち、二人の箒機の整備に向かった。
「いいコンビだよ」
本当は少し心配していた。
わざわざBF3チャンピオンを蹴ってBF2に上がった最初の一戦だというのに、格下のフライヤーの相手をする翼が調子を崩すのではないかと。
しかしそれは杞憂だったようだ。
互いに刺激を与え合い、良い方向へと影響を受けている。
翼は明るく社交的な性格をしているが、相手がフライヤーの場合は倒すべき敵として意識する。
それが昴相手にはない。
負けたくないという気持ちは間違いなくある。
だが同時に共に飛ぶ事が楽しくて堪らないというのが伝わってくる。
それは敵いうよりむしろ……
「これは、ミシェールに良い報告ができそうだね」
ロブが計器を手に箒機の点検をしているとピットに近づいて来る一団がいた。
全員で三人。そのいずれも歴戦のフライヤーだとロブは感じていた。
特に先頭の男はただ者ではないと、整備士として数多のレース経験を積んだ勘が告げていた。
「あー、えっと天見昴はいますか?」
その先頭の男は、三十台を半ば過ぎたくらいだろう、がっしりした体格と鋭い目付きに似合わず遠慮がちに声をかけてきた。
残り二人はスカイウィングに興味津々といった様子だ。
「ちょっと待ってね。コウ、お客さんだよ」
呼ばれてモニターから顔を上げると、昴は相手を見てやって来た。
「どうも橋本さん、おはようございます」
昴の挨拶に橋本と呼ばれた男は軽く片手を上げて返す。
橋本は地元フライヤーの顔役のような人間であり、今回のレースに出場する選手の一人だ。
昴も少なからず世話になっており、レーサー間だけに存在するルールに無いルールを教わった相手である。
それはもうお世話になった。
搦め手や嵌め手で散々お世話になった。。
最近になってようやく恩返しができるようになったくらいだ。
とはいえ関係は良好であり、組んで飛んだ事も何度かある。
「あー、なんだ、その……どういう状況だ?」
その橋本にしてみれば、今の状況は意味不明だった。
顔見知りの若手フライヤーが今をときめく空野翼と一緒に同じピットに居て、先程まで一緒に飛んでいたのだ。
「もしかしてガーランドウィングと契約したのか?」
「まさか。練習に付き合わされてるだけですよ」
気がつけば周りには聞き耳を立てる者が多数存在していた。
堂々と耳に手を当てる者、興味なさそうなふりをしながらチラチラと見ている者、近くまで来てわざとらしく靴紐を結んだりする者、急に立ちくらみでその場に座り込む者と、実に様々だ。
恐るべしは空野翼の人気といったところだろう。
「今回のレースに出場する歳の近い地元フライヤーは僕しかいませんからね。たぶんそれで白羽の矢が立ったんだと思いますよ。そうだろう?」
昴の言葉にロブは苦笑で答えた。
「翼、ちょっとこっち来いよ」
昴が手招きすると翼は既にタブレットを置いており、呼ばれるのを待っていたかのようにやって来た。
「こちらは橋本さん。この辺のフライヤーのまとめ役みたいな人だ。オープンレースに出る機会があれば手を貸してくれるかもしれない」
「空野翼です。拠点が日本じゃないから日本のオープンレースに出るかわからないけど、その時はよろしくお願いします」
多くのファンにとって知られざるフライヤー同士の裏の交流である。
横の繋がりはこうして紹介によって作られて、レースで互いの利益が合えば組んで飛ぶようになる。
「こちらこそ、一緒に飛ぶ時はよろしくな。会えて嬉しいよ。勝手な期待だが、お前さんは日本人フライヤーの希望の星だからな」
日本人でBF2を制したフライヤーはいない。
BF3では何人かいるが、BF2では最高でシーズン四位。BF1になると表彰台に上がった回数すら片手で数えられる。
BF3で連戦連勝した翼に日本人が期待を抱くのは無理のない話であった。
「小さい頃に海外に出てるから、あんまり日本人代表みたいな意識はないだろうけどな」
「いえいえ、日本の空は私の原点です。日本人フライヤーにそんなふうに思ってもらえるのは嬉しいです」
周りの勝手に集まった人々も口々に翼を応援し、それに翼は律儀に手をふって感謝の言葉を返す。
(アイドルかよ)
若干引きながら昴はその様子を見ていた。
そして翼を応援するファンの中に隣に立っている昴へ殺意のこもった目を向ける者がいる事に気付いて、本気で勘弁してもらいたかった。
「それで坊主、仕上がりはどんな感じだ?」
橋本は昴を坊主と呼ぶ。
昴としてはそろそろ坊主呼びを勘弁してもらいたいのだが、オシメをしている頃からの付き合いなので、半ば諦めている。
「悪くないです。少なくとも新参者に大きな顔はさせませんよ」
「それを聞いて安心したぜ」
ニヤリと二人は悪い顔で笑いあった。
「情報交換しようぜ」
「こっちは出せるもの少ないですよ」
「構わねえよ。こっちも又聞きだ」
橋本は持っていたタブレットを昴に見せる。
そこに映っていたのは、あのツバクラメ3だった。
「名前は白鳥清史郎」
「ぶふぅ!」
名前を聞いて吹いた。
「白鳥? あの体格で白鳥? しかも清史郎?」
「おいおい失礼だぞ。気持ちはわかるけど」
翼も横で肩を震わせていた。
「名前も知らないってエントリー表は見てないのか?」
「予選が終わるまで見てもあんまり意味ないので」
「まあそうだな」
本番前日に行われるタイムアタックが予選であり、上位12名が本戦のレースに出場できる。
実力者でも体調不良やマシントラブルで本戦に出場できなくなるというのは、それほど珍しいことではないので、現在発表されている出場者をいちいち気にしても仕方ないという昴の考えは一理あった。
「続けるぞ。箒機レースの経験は無し。元々は公道で車の非公式レースをやっていた、いわゆる走り屋って奴だ」
「陸者ですか。ますます気に入らないな」
「ああ、空の厳しさを教えてやらんとな。」
我が物顔で領空侵犯してきた陸の人間をフライヤーは歓迎する。
それはもう大歓迎する。
大人げないという言葉はフライヤーには適用されない。
空を飛ぶなどという子供の空想を現実として行っている大きなガキ、それがフライヤーという生き物なのだから。
「チームも一緒に車いじってた仲間らしい」
「つまり全員素人ですね」
「ああ、だが速い」
ツバクラメ3のスペックが表示されたタブレットに目を落とす。
どうやって調べたのか、細かく数値が表記されていた。
全ての項目が高くて整っており、昴のGB-4000とは比較するのもバカらしくなるスペック差であった。
「実際に側で飛んでどうだった?」
「旋回性能はかなり高いですね。並の箒機なら同じ速度だとまず負けます。それから立ち上がりの加速力も要注意ですね」
「やっぱ抑えるにはそこが課題か」
「レース勘はあると思います。抜く嗅覚も」
「そこら辺は走り屋で鍛えたんだろうな」
「箒機の習熟も、少なくとも昨日今日ってわけではなさそうです」
「スペック通りには飛ばせるってわけか。厄介だな」
いつの間にか橋本と一緒に来ていた二人のフライヤーも話を聞いており、うんうん頷いていた。
この二人は今回橋本と組んで飛ぶのだろう。
この中の誰かを勝たせるために他の者が抑え役に回るというわけだ。
「状況によっては囲いに加わりますよ」
「おいおい良いのかよ、ロハになるぜ?」
橋本達が勝っても昴に賞金の山分けは出ない。
三人で分けるだけで精一杯なのだ。
「問題ないですよ。今回は僕も勝ちにいきますから」
挑発的な笑みを昴は浮かべた。
それに対して三人の男は、上等だと笑い返す。
「最低でも表彰台に上がらないとコーチの名前に泥を塗ってしまいますからね。実はそれが一番怖い」
「え、最低でも一位じゃないと怒るわよ?」
「ハードル高いな!」
笑いが取れたところでお開きとなり、集まっていた者達はそれぞれのピットへ帰っていく。
もちろん最後に翼に手を振るのを忘れない。
「で、本当に一位じゃないと駄目?」
「うん、駄目、絶対」
絶対とまで言われてしまった。
白鳥のツバクラメ3を抑え、その上で一位となる。
難しいというレベルではない。
無茶を要求されている。
白鳥を抑える。
これは最悪無視しても良い。
ベテラン二人の抑えがあるので、そうそう好きには飛べない。
一位になる。
問題はこっちだ。
橋本以外にもちらほらと知った顔が飛んでいる。
ベテラン地元フライヤーというのは、それだけで強敵たりえる。
その強敵達から勝利をもぎ取るには実力だけでは足りない。
「今から誰か組んでくれるかな?」
声をかければ組めるかもしれないが、誰でも良いというわけではない。
要求する水準の抑えのテクニックを持つ相手となると、限られてくる。
その限られた相手は、おそらく既に別の相手と組んでいるだろう。
「お困りのようね?」
「困らせてる張本人には言われたくないね」
「実は秘策があるんだけど」
嫌な予感がした。
「これ、なんだと思う?」
そう言って翼が見せたものは、細長いまるでまるで缶コーヒーのような筒だった。
「圧縮天素封入缶か」
それは瞬間加速システムの核とも言えるパーツである。
カートリッジ内の高濃度圧縮天素を一気に天素機関に流し込む事で、爆発的な加速を得る事ができる。
「まさか僕の箒機に取り付ける気じゃないだろうな?」
昴の箒機には瞬間加速システムが搭載されていない。
そもそも瞬間加速システムが誕生したのが20年前と比較的新しく、昴のGB-4000はそれ以前に製造された箒機なのだ。
「まさかも何も、今時ブースト無しでレースに勝つなんて無理な話じゃない」
瞬間加速システムの登場より箒機レース界では無ければ勝てないと言われるほど、瞬間加速システムの搭載はあたりまえとなっている。
「別に無くても勝ったことあるし」
「組まずに?」
「……組んで」
ふふん、と笑い翼はカートリッジを昴の顔の前で振る。
「今から取り付けてもレースに間に合わないだろう」
「改造自体は簡単だよ。一時間もあればできる。重量も一本150グラムを二本と70グラム程度のパーツだから、そこまで操作感が代わるわけじゃない」
「専門家はこう言ってるわよ」
ロブの言う通り瞬間加速システムを取り付けるのは簡単な改造を施すだけでいい。
箒機専門誌に改造法が写真付きで載った事も何度かあり、動画も出回っている。
必要な道具や工具もそこらのホームセンターで揃う。
「操作の慣熟に三日は短いだろう」
「基本的にストレートでしか使わない物に三日も必要ないわ」
単純に一時的に爆発的な加速を得るだけの代物である。
シュミレータで少し練習して、実機で感じを掴めば問題ない。
使いどころを考える戦術の組み立ては別問題だが、これもレースを飛んだ経験と観戦の経験でなんとかならなくはない。
「あとは君の気持ちだけよ」
翼の言葉に昴は歯ぎしりした。
「知ってて言ってるな?」
「うん、お母さんに聞いたわ」
一度目を伏せると、翼は再び昴を見る。
そしてそのまま視線を動かし、昴の箒を見る。
「君がお爺ちゃんの箒機に乗る理由は、瞬間加速システムが無いからよね」
GB-4000は祖父の愛機だった。
その愛機を昴は受け継いだ。
天見家は昴で三代続く箒機乗りの家系である、
祖父の娘である母は残念ながら高所恐怖症のため、箒機には乗らなかった。
しかし代わりに祖父の教え子である父が技術を継承した。
父はBF3でそれなりに活躍する選手だった。
早くはないが遅くもない、そんな中堅どころの選手。
勝ったり負けたり、そんなレース内容に家族で一喜一憂した。
そんな父の箒機ではなく、昴は祖父の箒機を受け継いだ。
その理由は、
「瞬間加速システムがお父さんを殺したと思ってるの?」
ブースト中の事故によって父はこの世を去ったからだ。
前方の箒機を回避するために機首を下げた瞬間バランスを大きく崩し、そのまま切りもみ落下。
下降限界高度には余裕があったにも関わらず、加速のついた箒機はフライトスーツのパラシュートが開く前に地面に激突した。
箒機はバラバラとなり、遺体も酷い状況だった。
「デリケートな話題に随分と踏み込んでくるな。温厚な僕じゃなかったらキレてるぞ」
この事故後にルールが見直され、下降限界高度の引き上げと、ブースト中の進路ブロックの禁止が追加された。
「気に触るとは考えたわ。でも謝らないし、踏み込むわ」
「ちょ、翼?」
「ロブは黙ってて」
「えー」
さすがにマズイと思ってブレーキを掛けようとしたロブを一蹴し、翼は続ける。
「君じゃなかったら踏み込まないわ。君だから踏み込むの。私ね、さっき君と飛んで凄く楽しかったの。初めて空を飛んだ時みたいにワクワクしてドキドキした。他の人には感じたことない特別な空を君と飛んで感じたの」
それは昴も同じだった。
空を飛ぶ楽しさは誰よりも知っていると自負している。
その上で楽しくて堪らなかった。嬉しくて堪らなかった。
負けて悔しかった。
だがそれ以上に終わって寂しかった。
「私はもっと君と飛びたい。もっと高く、遠く、広い空で」
同じ気持ちだった。
昴は気付いた。
天見昴にとって空野翼がライバルとなったのと同じように、空野翼にとって天見昴はライバルとなったのだと。
「だから君が地元だけのレーサーで終わるのは許せない。低い所をトロトロ飛んでいるのが我慢ならない。私が君と飛びたいのは世界一の空だから」
世界最高。
世界最速。
世界最強。
すなわちBF1。
「そのためなら君に嫌われてもいい。憎まれても恨まれても構わない」
翼はカートリッジを差し出した。
まるで昨夜昴に手を伸ばしたように。
「君に勝ってほしいの」
昨夜のような上からの言葉ではなく、願いだった。
昴が出場するのはタイトルすら無いただのマイナーレース。
しかしBF2の前座として行われるレースならば注目度は全然違う。
無論BF2に出場するチームの目もあり、そこで実力を見せれば傘下のチーム、あるいは伝手のあるチームにスカウトされる可能性がある。
実際そうやってBF3デビューを果たしたフライヤーは多い。
翼はこのレース何が何でも勝って、昴にチャンスを掴んでもらいたいと願いを口にした。
その願いを聞いた昴は、
「重いな」
翼の差し出したカートリッジを受け取ってそう言った。
「女の子の想いが軽いわけないでしょう」
そう言ってはにかむ翼を不覚にも可愛いと思ってしまい、瞬間加速システムというものに対する複雑な気持ちに心中をかなり乱されていると自覚した。
「ロブ、改造は一時間もあればできるんだよな?」
「取り付けるだけならね。微調整もあるから、実際は二時間くらいかな。なにせバランス感覚が特殊な箒機だから」
職人泣かせの箒機で申し訳ないという気持ちを無視して、昴はカートリッジをロブに渡した。
「二時間で終わるなら、ちょっと待ってて。実はまだ少し悩んでてさ」
「私にあんな赤裸々な告白させておいて酷い!」
「何が赤裸々な告白だ、ただのわがままじゃないか」
「コウに同感だね」
「ロブまで!」
むくれる翼を無視して昴は携帯電話を手にピットの裏へ向かった。
「ちょっと出てくる。何かあったら呼んで」
「じゃあその間に改造を」
「やったらさすがに怒るぞ」
「冗談よ」
昴には気持ちを整理する時間が必要だった。
翼に言われるまでもなく、瞬間加速システム無しで勝つことはできないと理解していた。
今まで何度も改造しようと考えた事もある。
最後の最後に直線で抜かれて負けた事が何度かある。
その度に瞬間加速システムの有効性を実感させられた。
それでも箒機に取り付ける気になれなかったのは、怖かったからだ。
「あー、もしもし母さん?」
サーキットのロビーの一角で、昴は電話を掛けた。
相手は母である。
「仕事中にごめん。今いいかな?」
「いいわよ仕事中で暇だから~」
「仕事中に暇でいいのかよ」
「医者が暇なのは良いことよ」
「すごく悲痛な叫びが後ろから聞こえてるぞ、獣医さん」
「私には聞こえないから大丈夫よ」
電話の向こうでキャインキャインという鳴き声が聞こえるが、獣医が聞こえないというのなら気のせいなのだろう。
「それでどうしたの? 翼ちゃんとは上手くいってるの? もうチューはした?」
「真面目な話したかったんだけど、切りたくなったよ」
「え、翼ちゃんと将来の約束したの?」
「してねーよ!」
本気で切りたくなってきた。
気のせいか後ろの鳴き声も弱々しくなってるような気がするので、恐ろしくて切りたい。
「あのさ、母さん」
「はいはい」
「箒機に、瞬間加速システム付けようと思うんだけど」
「……そう」
箒機に瞬間加速システムを載せるのを嫌な最大の理由、それは母にとって二人目になるかもしれないからだ。
そうなったら母は一人になってしまう。
一人にさせてしまうのが怖かった。
「いい、かな?」
「昴がそうしたいなら好きにすると良いわ」
父を喪った時の母は見てられないくらい沈んでいた。
毎日呆然と過ごしており、祖父が昴を全裸にして逆さ吊りで軒先に飾ってウェーイとやっても無反応だった。
「えっと、反対とかは……」
「私が一度でも箒機に関して反対した事があった?」
言われてみれば無かったような気がする。
夏休み最終日に宿題が残ってるのに箒機に乗ろうとした時はさすがに止められたが、昴の記憶で母に箒機を止められたのはそれくらいだった。
「昴が何を気にしてくれているのかは解るわ」
「……うん」
「そういう気持ちは嬉しいけど、それで子供の道を狭めてしまうのは親としては辛いの」
「いや、そういうのは気にしなくていいんだけど」
「気にするのが親よ。昴もいつか理解するわ。あ、意外と早くその時がくるかも。翼ちゃん似の孫娘希望ね」
「おーい真面目な話が台無しだぞ」
どれだけ翼の事が気に入ったのか、母はすっかりその気の様子で、冗談めかして言っているが、声のトーンが全く冗談になってなかった。
「だからね、私の事は気にしないで昴が飛びたいように飛びなさい」
「本当に、いいの?」
「私が誰の娘で、誰の妻で、誰の親だと思ってるの?」
箒機に乗らない人間が三世代に渡って箒機乗りの家で過ごした。
それがどういう事なのか昴には理解できない。
ただ一つ言えるのは、今日まで母を見誤っていたということだ。
昴が思うよりも母はずっとタフな人だった。
「でも一つだけ約束。ちゃんと無事にレースを終えること」
「うん」
それは大前提である。
勝つことより優先しなくてはならない。
「絶対に無事にレースを終えるよ」
「約束よ。今度のレース応援に行くからね……翼ちゃんの」
「息子の応援しろよ!」
今度こそ本当に電話を切った昴なのであった。
箒機と全然関係ない仕事をやっているが、箒機乗りの家に生まれ、箒機乗りと結婚しただけあり、母はかなりのブルームフォーミュラファンだったりする。
もちろん空野翼のことも応援するファンの一人である。
とはいえ、夫を失ってからサーキットへ直接観戦しに行くことは無くなっていた。
その母がサーキットに応援しに行くと言ったのは、翼が飛ぶからではないという事くらい昴にも察する事ができている。
(勝とう)
翼のわがまま、ロブの助力、そして母の想いを背負って飛ぶ。
無様な飛び方などできようはずもない。
必ず勝たなくてはならないレースだ。
改めて決意をした時、翼がきょろきょろしながら徘徊しているのを見つけた。
翼の方も昴を見つけたらしく、小走りで近づいてきた。
「トイレならあっちだぞ」
「違うわよ!」
どうやらトイレを探していたわけではなかったようだ。
「君を探しにきたのよ」
「何かあったのか?」
昴はもしかして白鳥がやってきて、デカイ図体でデカイ態度でも取っているのかと心配になった。
地上で他のフライヤーに絡んでトラブルを起こされるなど勘弁してもらいたい。
「ミシェールさんが来たわよ」
「おい、何やってるんだ、早く来いよ!」
既に昴はピットへ走り出していた。
「あの半分でも私に興味持ってくれないかな~」
昴を追いかけて翼は軽く走りながらぼやいた。
「急げよノロマ、ハリー! ハリー!」
ふり返って昴が急かしてくる。
陸の上でそんな事を言われた翼は……
「……あとでもう一回ぶっちぎってやる」