1-2
空野翼、十六歳。
日本で生まれ、九歳まで日本で過ごすが父親の仕事の都合でドイツへ移住。
ブルームレース場の近所であったため、レース場に入り浸り他の客と勝者の予測をする遊びを覚えたり、子供を対象とした箒機イベントには毎回参加したりする内に、レース場ではすっかり常連客としてほとんど顔パスとなる。
転機は十三歳の時にやってきた。
たまたまレース場にやってきた元ブルームフォーミュラ選手に地元選手情報を教え、賭予測の指南を行うと、これを見事に的中させた。
そのことで気に入られ、レース用箒機をプレゼントしてもらい、さらには飛行指南まで受けた。
その後は武者修行の如くヨーロッパを中心に様々なレースに出場し、実戦の中で技を磨きつつ、元ブルームフォーミュラ選手の伝手を使い、ドイツのガーランド社を母体としたレーシングチームを立ち上げる。
「その元ブルームフォーミュラ選手ってのがミシェールさん」
箒機の整備も可能な大型トレーラーの中で翼は紅茶を片手に語った。
あの後翼によって駐車場に停まっていたこのトレーラーに拉致された昴は、何故かトレーラー内に停められていた翼の愛機、GW-01スカイウィングに乗せられていた。
「なんだよその強運。そんなんありか!」
まだ一般販売モデルが設計すらされておらず、売り出されるかどうかすら不明であるにもかかわらず、既に予約が殺到していると噂される箒機に乗っている感動などなく、昴はただただ翼のエピソードが羨ましくて妬ましかった。
「いーなー、僕もミシェールさんに手取り足取り飛び方教わりたかったなー」
「いやぁ~、あれは地獄だったわよ……」
当時のハードスケジュールを思い出して翼は渇いた笑いを浮かべた。
なにせ最低でも五日に一度レースがあったのだ。
BF3以上なら一年に11戦あるのだが、それ以外のレースでは月に一度でも多いくらいだ。
五日に一度というのは異常と言うより他ない。
「準備できたよ」
箒機の側で機材を弄っていた二十代後半と思われる整備士が言う。
「ありがとうロブ」
整備士ロブに礼を言い、翼は手元のコンソールでなにやら操作を行う。
昴は彼を知っていた。
ミシェール・スミスが現役時代に専属メカニックとして、所属チームが変わる時も一緒に居た人物だ。
女王の戦歴に彼の貢献が少なからずあった事は想像に難くない。
ミシェール崇拝者の昴にとっては尊敬に値する人物の一人といえよう。
「それじゃあ始めましょうか」
「よし、その前に説明してもらおうか。僕はまだここに連れてこられた理由も話してもらってない。それとミシェールさんに会いたいです紹介してくださいお願いします」
箒機から降りて地に額を擦り付けての懇願だった。
ロブは初めて見るジャパニーズドゲザに感動するが、翼はドン引きしていた。
「言ってなかったのかい?」
「ちゃんと言ったわよ、特訓って」
ロブは仕方ないとばかりにため息を吐いた。
翼の悪い癖だ。
一を言えば相手が十を知ると思っている。
「あー、アマミ・コウ君?」
「コウでいいですよ」
「じゃあコウ。簡単に言えば、今から君にはシュミレータで飛んでもらう。箒機の設定はGB-4000に合わせてある。もちろん初期モデルだ」
それはなんとなく昴にもわかっていた。
専用の機材を使えば箒機はシュミレーションマシンとしても使える。
かなり大がかりな作業なので個人ではなかなかできる事ではないが、プロのチームならこの程度は問題ない。
「スカイウィング使っていいんですか?」
「そいつは予備パーツで組んだ練習用だよ。天素機関もレース用じゃない」
つまり見た目だけのハリボテだ。
しかし、こんな贅沢なシミュレータはそうそう使えるものではない。
「GB-4000とハンドルの位置やボタンの配置なんかは大きく違わないと思うけど、問題は?」
「大丈夫です」
スカイウィングとGB-4000は同じガーランド社製箒機。
設計思想も似ているので、操作系統に大きな違いは無い。
細部は恐らく翼の身長に合わせて調整されているのだろうが、それも同じくらいの身長の昴には問題なかった。
「上下左右の稼働範囲は45度までだけど、ロールは360度可能だよ」
シュミレータとしては破格の稼働範囲だ。
サーキットで借りれるシュミレータは台座に固定されているので、上下左右が30度で、ロールは15度しかできない。
「それじゃあメットの同期チェックするよ」
昴は頷き、専用のヘルメットを被って箒機に跨がり、箒機を起動させて1メートルほど浮かぶ。
バイザーを下ろすとシュミレーション開始プロセスが起動し、頭上にVRで表示された空が広がる。
昴の目には跨がっている箒機もスカイウィングではなく、見慣れたGB-4000となって見えている。
昴は操作感と映像にズレが無いかチェックを行う。
上昇、下降、旋回、ロール、基本動作を確認すると、いくつかのターンマニューバを行う。
「映像に問題はありまさん。ただ箒機の反応が全体的に少し反応が遅いですね。とりあえずコンマ三秒上げてください」
「わかった。それと話し方はもっと砕けていいよ」
「なら遠慮なく。失速域で機体が安定しすぎているから、もっと暴れさせて」
「普段どんな暴れ馬に乗ってるんだい?」
ロブが呆れながら調整を行う。
おそらく無改造のGB-4000に合わせてあったのだろう。
昴の愛機はあちこち弄っているので、飛ぶ感覚にかなり違いがある。
「他に不満はあるかい?」
「細かいこと言ったらキリが無いから、これでやるよ」
本当はきっちり実機と合わせた方が良いのだが、それをやると最悪朝までかかってしまう。
「それじゃあ今度こそ始めるわよ。コースを出すから三周飛んでね。風と天素濃度は全域一定で変動なし。単純なタイムアタックよ」
翼がコンソールのキーを叩くと、昴の視界に見慣れたサーキットと同じ景色とリングが現れた。
昴はスタートグリッドまで箒機を飛ばし、そこで止まる。
そして箒機を降ろしてバイザーを上げた。
「どうしたの?」
「いや、遅くなるって家に電話したいんだけと」
「ああ、なるほど。それじゃあついでに今日は帰らないって伝えると良いわ」
「わかった……は?」
翼の言葉にロブが頭を抱えた。
「ツバサ、まさか徹夜で飛ばせるつもりだったのかい?」
「まさか。シュミレータで何度も飛ばして変な癖がついても意味ないじゃない」
シュミレータで飛ぶのはシュミレーションでしかない。
どれだけ再現度が高くても、実機で飛ぶのとはやはり違う。
特にGが掛からないというのは大きな違いだ。
その練習に体が慣れてしまったら、実機で飛ぶ際に無茶をやって最悪飛行中に気を失って墜落する可能性もある。
「せいぜい夜明けまでしかやらせないわ」
「それを徹夜って言うんだよ!」
「あはは、変なことを言わないでよロブ。朝にサーキットが開かれるまでは睡眠時間にするんだから徹夜じゃないわよ」
「ああ、ミシェール。君の弟子は似なくて良い所ばっかり似てしまったよ。本当にご両親に申し訳ない」
その後ロブの説得もあり、泊まり込みは免れた。
10代の少女のくせにトレーラーで雑魚寝させるつもりだった事に色んな意味で驚いた昴であったが、資金の少ないレースチームにはよくある事だと知っていた。
現BF1チャンピオンも無名時代に遠方のレースに参加する時に、箒機を載せたトラックで現地へ向かい、レースが終わるまでその中で整備士と生活していたというのは有名な話である。
三周のタイムアタックを三回行った所で休憩となった。
一回ごとに反省点を上げられ、三回目の最後の周ではベストタイムを出すことに成功した。
悔しいが翼のアドバイスは正確であり、プロフライヤーとの差を見せつけられる気分だった。
「もっとターンはスプリットSを多用するために高度を常に意識するべきね。それと低速コーナーでよく4速に落としてるけど、思いきって3速まで落とした方が立ち上がりの加速が上がるはずよ」
このアドバイスはあくまで風と天素濃度が一定で変動しないという状況下でのことだが、実際に飛ぶ際にも活用できる。
「失速域でのコントロールは言うことないわね。悔しいけど私より上手いかも。君レーサーよりアクロバットの方が向いてるんじゃないの?」
「やめろよ、自分でも少し思ってるんだから」
失速域でのコントロール技術が身に付いたのはGB-4000に乗り続けたらからだろう。
なにせ宙返りの最中などに気を抜くと天素機関が止まりかねないような箒機だ。
操作を誤って天素機関が完全に止まり、慣性だけで飛んだ経験も何度かある。
「別の箒機に乗ろうとは思わなかったの?」
「お金がない」
「三回くらい優勝すればマイナーレースの賞金でも新品のレーシング箒機は買えるじゃない」
「………」
組んで飛べばもっと確実だ。
賞金を分けるので実入りは少なくなるが、それでもレーシングマシンを購入する資金を貯める事は可能だ。
「何か思い入れでもあるんだろうけど、あの箒機で飛び続けるのは止めた方が良いわよ」
それは言われなくてもわかっている事だった。
だが昴は箒機を変える気にはなれなかった。
「君はまっとうな箒機に乗れば普通に勝てるだけの実力はあるわよ。それこそBF3で通用するくらいの」
BF3を飛ぶ現役フライヤーからのお墨付きを頂いたのは素直に嬉しかった。
だが、
「まっとうな箒機だと切り札が封印される」
「切り札?」
昴が箒機を変えたがらない理由は複数あるが、主な理由はそれだった。
バランスの悪いGB-4000という箒機でなくてはならない理由がある。
昴はヘルメットを被り、再びスカイウィングに跨がった。
「少し見せてやるよ」
箒機を起動させバイザーを下ろす。
愛機とは違うが、同じGB-4000の設定がされた箒機ならできる。
「天素濃度を上げて」
翼は言われた通りにコンソールを操作して天素濃度を上げる。
高い場所から徐々に天素濃度が上がるのを昴は視界を切り替えて確認する。
今からやる技は天素濃度が濃くないとできない。
「ちょっとした自慢だけど、これができる人間はたぶん世界中探しても片手で数えるくらいしかいない」
箒機を加速させ、天素濃度の高い場所へ昇る。
そして、
「嘘だろう……」
見たものを信じられない様子のロブ。
もう一人の目撃者である翼は、声もなく笑っていた。
電子音のメロディに睡眠を妨害され、昴は諸悪の元凶である目覚まし時計に手刀を叩き込んで黙らせた。
目を開ければ見慣れた自室の天井が見えた。
天井に貼られたミシェール・スミスのポスターに朝の黙祷を捧げ、ベッドから起きると神棚に飾ってある自作ミシェール写真集と自作ミシェール全集に二礼二拍手一礼を行う。
天見昴の毎日欠かさない朝の儀式である。
儀式を終えて頭がスッキリした所で、昴は昨日の事を思い出した。
昨夜は22時に解放され自宅に帰還した。
最後まで駄々をこねる翼を振り払うのは苦労したが、最終的にロブが翼を拘束している間に帰った。
いつもより遅い帰宅となり母に心配されたが、女の子に引き留められたと言っても絶対に信じてもらえないので、箒機乗り仲間と話が盛り上がったと説明した。
嘘は言っていない。
「おはよう」
学校の制服に着替えて食堂へ入りつつ、母に挨拶をする。
「あら、おはよう」
「やっと起きたのね、おはよう。あ、お母さんおかわり」
返ってきた挨拶は二つ。
ありえない現象だった。
現在この家に住んでいるのは昴と母親だけである。
だから挨拶は一つしか返ってこないはずだった。
しかし、食堂には母親の他にもう一人居た。
「ふふ、たくさん食べてくれて嬉しいわ。昴はあんまり食べてくれないから」
「私食べても太らない体質なのよ。きっと飛んでカロリー消費してるのね。鳥みたいに」
「まあ、うらやましい」
朝から信じられない事が起きていた。
昴はまだ夢の中に居るのかと錯覚したが、儀式を行い覚醒したので、それはない。
間違いなく現実だ。
「おいこら、なんでお前がここに居るんだ空野翼」
翼であった。
なぜか翼が昴の家で、昴の母と談笑しながら、なぜか朝御飯を食べていた。
おかわりまでして。
「来ちゃった、えへ♪」
なかなか可愛らしい笑顔であったが、激しくイラっとした。
「来ちゃったって彼女かよ! お前僕の彼女かよ! 勘弁してくれ、僕の女性遍歴が汚されたじゃないか」
「朝から酷いわね、傷つくわ」
「昴、今のは酷いわ。翼ちゃんにも選ぶ権利はあるのよ」
「母親に酷いこと言われた!」
朝から傷つきながら食卓につく。
本日のメニューは、皿に盛られたサラダ、お茶碗に盛られたサラダ、お椀に盛られたサラダ、小鉢に盛られたサラダ。
「……なぜサラダ尽くし?」
減量中とはいえ、ここまでする必要はない。
それに朝は毎日普通に食べている。
いったい何が起きたのか。
「昴の分は翼ちゃんが食べたわよ」
「ごちそうさま」
「他人の家でやりたい放題だなお前」
無くなったものが出てくるわけではないし、出されても困るので、昴は諦めてサラダを食べる。
普段はノンオイルのドレッシングだが、今日はマヨネーズを使っても良いだろう。
「それで、朝から来た理由は?」
「君に会いたかったの」
「鼻にマヨネーズ突っ込まれたいか?」
「いや冗談じゃなく本当に君に会いに来たのよ」
両手で鼻を隠す仕草が不覚にもちょっと可愛いと思ってしまった昴は、そんな気の迷いを晴らすためにサラダを口の中に詰め込む。
「10:00にサーキットが解放されるまで暇なのよ。ロブもそれまで起きないし」
「つまり暇潰しで僕の朝御飯を奪ったのか」
「これも特訓代だと思って諦めて。やっぱり日本の家庭料理って良いわね。私も日本人なんだなって実感するわ」
悪びれもせずに翼は言い、お茶を飲む。
昴はタダより高いものはないという教訓を得た。
「よく僕の家がわかったな」
「え? ……ああ、うん。君のお爺ちゃんを知っていたのよ」
なにやら翼が微妙な表情をしているので、昴はもう祖父が亡くなっている事を知っているのだろうと察した。
祖父が亡くなったのは去年の事なので、気を使ってくれているのかもしれない。
「小さい頃にお爺ちゃんのチビッコ箒機教室で箒機に乗せてもらった事があるのよ」
祖父は箒機レース黎明期の選手なので、普及に熱心だった。
特に若い世代に箒機の楽しさを伝える為に、度々イベントを開催していた。
チビッコ箒機教室もその一つで、よく人手が足りない時は昴も手伝わされた。
「元気な爺ちゃんだったよ。箒機に乗りながら、ワシそろそろ死ぬかもしれん、とか冗談みたいな事言ったら、次の日にポックリでさ」
「お爺ちゃんらしいわね」
「うん。悲しむより納得したよ」
周りの人を楽しませる天才だった。
遺影として用意されていた写真もイエーイとばかりにピースした写真で、葬式に集まった一同が笑いを堪えなくてはならなかった。
今もその写真は床の間に飾られている。
「ところで、もしかして翼ってこの辺に住んでたの?」
チビッコ箒機教室をやっていたのは地元サーキットだけだ。
よほど好きな子供でなければ遠方からは来ない。
「近くってわけじゃないけど、車で30分くらいかな?」
「ふーん。なら、もしかしたらどこかですれ違った事くらいあるかもな」
「……だったら私達運命の再開ね。赤い糸で結ばれてるのかも」
「勘弁してください」
赤い糸と照れたように言う翼に、昴は全力で頭を下げた。
「君はもう少し私に興味を持ってくれていいのよ?」
「僕は一人の女性に全ての愛を捧げている」
「まぁ昴ったら」
「母さんじゃないから黙っててね」
母の発言に少しイラっとした昴であったが、母の方は気にした様子もなく空いた食器を片付ける。
「今日ミシェールさん来るわよ」
「翼ってよく見たら可愛いな! 母さん、学校休んでもいいかな!?」
「駄目よ。レース以外の日はちゃんと学校に行くって約束でしょう」
母の無慈悲な言葉に昴はこの世の終わりのような顔をした。
成績は悪くなければ良いが、学校生活を疎かにしないというのが母が課した箒機に乗る条件だ。
学業と両立できないなら箒機からは下ろす。
母の保護者として譲歩できる妥協点である。
「あのね昴、学校に通うって勉強をするためじゃないの。若い内にそこでしか得られないものを得る為なの。勉強をするだけなら通信教育でも充分なんだから」
「お母さん、私もコウ君ともう少し一緒に居たい」
「いいわよ、学校なんて休んじゃいなさい」
「おい、今良いこと言ってただろ!?」
Vスラッシュ並みの急速反転であった。
「今だから言うけど、実は娘が欲しかったのよ」
「その台詞まるで始めて言うみたいだけど、小学生の時から何度か聞いてるからな」
「翼ちゃんみたいな可愛い娘のお願いなら叶えてあげたくなるのが親心というものよ」
「わーい、お母さん大好き!」
いつから翼が天見家の娘になったのだろうか。
傍若無人な妹など願い下げなのだが、もはや昴が何を言っても無駄であろう。
それに昴にとっても都合が良いので、黙って好きにさせる事にした。
(ついにミシェール・スミスに会える!)
憧れ続けた存在に会える。
それもレースやイベントのように遠くからではなく、近くで話ができるかもしれない。
それを想像しただけで胸が高鳴る。
「出掛ける前にシャワー浴びて、服はどうしよう。フライトスーツで失礼にならないかな。ある程度フォーマルな格好の方がいいかな。ああ、こんなことなら花屋で花束を用意してもらっとけば良かった。開店前の朝一で飛び込みなんて、絶対に相手してもらえないし。あっ、お土産どうしよう。何か気の利いたもので、遠慮されないように重くないもの……そうだ入浴剤が良い。たしか近くのコンビニで取り扱っていたはず。あとは……」
「いや本気すぎて怖いんだけど……」
ガチ過ぎる昴に翼はドン引きするのだった。
シャワーを浴び、念入りに体を洗ったた昴は、散々悩んだ結果、着ていく服はミシェール・スミスの現役時代のチームジャケットのレプリカモデルにした。
それもBF2シーズン優勝した時ではなく、その前に所属していたチームのものだ。
もちろん昔からのファンであるというアピールである。
有名なチームではないし、当時のミシェール・スミスもまだ有名ではなかったので、日本では販売されていないのだが、苦労して昴は当時のモデルを入手していた。
サイン色紙、準備良し。
サインペン、準備良し。
色紙ラッピング用具一式、準備良し。
カメラ、準備良し。
予備カメラ、準備良し。
予備メモリーカード、準備良し。
予備バッテリー、準備良し。
一つ一つを指差し確認してキャリーバッグの中へ。
あとはついでにフライトスーツを押し込んだリュックサックを背負い、箒機ライセンスの入ったパスケースを首から下げる。
そしてコンビニにダッシュで買ってきた入浴剤三点セットを手にすれば、全ての準備は完了である。
「さあ行こうか、可愛い翼さん」
「本当に怖いわ。あとその呼び方やめて」
家の前まで出て見送ってくれる母に翼は手を振り、昴とバス停まで歩く。
サーキットはバスで十分くらいで着く。
すでに朝のラッシュ時間は過ぎているので、二人はバスの席に楽に座る事ができた。
「今さらだけど、ここに居るってことはBF2に上がったんだよな?」
「本当に今さらね」
今はシーズン真っ最中であり、今回のBF3のグランプリの開催地はイギリスである。
そしてBF2は日本が会場でサーキットは昴の地元である富士岡スカイフィールドだ。
日程は昴が出場するレースの日と同じ。
昴が出場するレースは言ってしまえば翼の出場するBF2の前座なのだ。
「BF3シーズン優勝を捨てて、BF2の経験を積むってところか」
「ええ、私達の目的はBF1だからね」
翼はBF3でポイント首位を独走していた。
すでにシーズンは後半に入っており、順調に勝ち続ければBF3制覇となっていた。
だがそれを捨ててでも上のクラスでの経験を優先した。
今からBF2に参戦しても残り全レースで優勝したところで、優勝争いには加われない。
BF1以外は眼中に無い。
翼はそう言っているに等しい。
そしてそれはガーランドウィングのチームとしての目的だと。
「本気でBF1を目指しているんだな」
世界最高の箒機レース。
そこを飛べるのは一握りの者だけ。
「さすがミシェール・スミスだ!」
「あれれ、私の話してたよね?」
「翼って構ってちゃんだよな。一人っ子だろう」
「失礼ね。まあ一人っ子だけどさ」
昴は窓の外の景色を見て、もう少しで到着する事を確認し、乗り過ごさないように意識した。
「ところでスカイウィングって何で英語名なんだ?」
ガーランド社はドイツの会社なので、箒機もドイツ語であるはずなのだが、思いっきり英語である。
ちなみにチーム名に関しては、箒機に限らずドイツのレースチーム名に英語が入るのは伝統のようなところがあるので、特に不思議なところはない。
「ガーランドウィングはガーランドアメリカ支社のチームだからよ。ドイツ本社はBF1にチームを既に出しているから、リソースを割いて新しいチーム作る気は無かったのよ。それでもミシェールさんのネームバリューを活かしたいから、手が空いてて資金もあるアメリカ支社でチームを立ち上げて、私用の箒機を設計したのよ」
「予想通りの面白味の無い理由だったよ」
「聞いといて酷いわね」
実際面白くない大人の事情の話なので翼は苦笑を返す。
「空野翼って本名?」
「よくレーサーネームだと思われるけど、本名よ。だから箒機のほうが私の名前に合わせたの。スカイウィングってね」
フライヤーと箒機の名前を合わせて話題性を確保。
ストレートに隠す気もなく、商売気がありありと見える実にアメリカらしい売り出し方だと言えよう。
「やっぱり僕はお前の事好きになれないな」
「えー、どうしてよ?」
バスが目的地に到着し、停車する。
昴は荷物を手に降車し、翼もそれに続く。
「ただの僻みだよ。恵まれ過ぎている奴に対しての」
飛ぶことが宿命のような名前はともかく、、有名なレーサーと偶然出会い、目をかけられてチームまで作ってもらい、自分の名前を冠した自分のためだけに設計された箒機に乗って飛ぶ。
どこの世界にそんな人間が居るというのだろうか。
羨むなというのが無理な話だ。
「私も色々と大変なんだけどね」
「そうだろうと思うよ。だから言っただろう、ただの僻みだって」
「格好いい」
「うるさいよ」
格好悪いという自覚はある。
翼が大変じゃないわけがない。
掛けられている期待は大きいなんて言葉では表すことができないだろう。
それに常に応え続けなくてはならない立場であることも、想像する事くらいならできる。
自分ならどうだ。
プレッシャーに圧し潰されないでいられる自信はない。
だがそれに潰されずに翼はBF3で連戦連勝し、BF2の空に上がった。
凄い奴だ。
本心からそう思う。
みみっちいプライドから口には絶対に出さないが、空野翼というフライヤーの事はデビューした時から認めている。
他でもないミシェール・スミスが認めた存在なのだから当然だ。
好きにはなれない。
しかし、嫌いではない。
こんなにも本気でBF1の空を目指して飛ぶ箒機乗りを嫌いになれるわけがない。
「絶対に追い付いてやる」
「え、何? 今なんて言ったの?」
「なんでもない、独り言だよ」
一方的なライバル認定。
天見昴にとって空野翼は誰よりも強く勝ちたいと思う相手となった。
今はまだ違う空を飛ぶ者同士。
二人が同じ空を飛ぶことになるかどうかは、誰にもわからない。
だが、昴はいつか必ず翼と戦うと決めた。
「あ、そうだ。今日は実機で私と飛んでもらうからね」
決意した瞬間に一緒に飛ぶことになって拍子抜けしそうになるが、これは望んだ対決ではない。
練習だ。
あくまで練習である。
だからノーカンだ。
「例のサンドバックか」
「うん。午前中なら人も少ないし、お互いに攻め込んでいけると思うのよ」
それなりに本気を出す。
翼はそう言っている。
それに昴は胸が高鳴るのを抑えなかった。
練習とはいえBF3で敵無しのフライヤーと飛べる事に喜びを感じなければ、レーサーとしては終わっている。
「一つ確認なんだけど」
「何かしら?」
「別に僕が勝っても良いんだよな?」
挑戦的かつ挑発的なその言葉に翼は目を大きく開き、笑みを浮かべた。
「知ってるわよ、それ日本では負けフラグって言うんでしょう」
「よし上等だ。絶対にぶっちぎってやる!」
冷静に考えればそれは不可能だとわかる。
同じガーランド社の箒機で、旧式と最新鋭。
その性能差は天と地。
最高速も加速力も上昇性能も旋回性能も全てが上。
よほど乗り手が下手でなければ一対一で勝ち目はないのだが、相手は空野翼である。
「うーん、君に負けるようなら引退しないといけないかな」
「言ったな、言いやがったな!」
しかし悲しいかな、レーサーとは沸点の低い生き物。
特にフライヤーは高度と共に沸点が下がる。
「勝負だ空野翼! 僕が負けたら何でも言うこと聞いてやる!」
「あらいいの?」
翼はまるで獲物を前にした猫のような顔で笑った。
「吐いた唾飲むような男になった覚えは無い!」
「それなら私も本気でやらないとね」
少しの間、一秒に満たない間だけ翼は考えると、ニヤニヤと笑いながら口を開く。
「私が負けたら、デートしてあげても良いわよ」
動揺を誘うレース外での攻撃を翼は仕掛けた。
宣言通り本気で勝ちにいっている。
その言葉に昴は、
「あ、そういうの要らない」
完全に冷静になり、真顔で返した。
「なんでよーー!!!」