夕凪魚のスープ・幻界の心を添えて (3/4)
さて夕凪魚の調理法はいかなるものか。鍋に湯を沸かすと言われた時点で想像していた通り、スープにするのだと言う。しかも一抱えある塊全部を。
串に刺して焼くとか、持って帰って油で揚げるとか、他にもいろんな料理ができそうなものだが。ジェットがそう指摘すると、テールは苦笑いして答えた。
「焼いて食べるにはちょっと脆くて水っぽいし、骨からいいダシが出るから、スープにするのが一番なんだ。足もはやいから、持ち帰るのもできない。それに、夕凪魚は釣ったこの場で食べないとだめなんだ」
「それもしきたりなのか?」
テールは妙にもったいぶる感じで話を切り上げると、いそいそと料理に取り掛かった。
白身の夕凪魚は骨ごとぶつ切りにし、大鍋の湯に入れてしっかり煮立たせる。するとドロリとした灰汁が浮かんでくるから、レードルで丁寧にすくって捨てていく。
やがて灰汁がほとんどでなくなった。その頃には火の十分に通った白い身が、湯の対流によってホロホロと崩れ始めていた。テールが特に鍋をかき混ぜたというわけではない。なるほど串焼きにするのを渋られたわけだ、これでは焼いている間に火の中へ落ちてしまいかねない。
こうなった段階でテールが一度味見をした。どれくらいダシが出たのか、それを確認するためにだ。最初は真剣にとがらせていた表情が、スープをそっとすすった瞬間にぱっと明るく代わり、ついでに耳もピンとたった。
そしてジェットにも味見をしろとすすめてきた。レードルを受け取って、同じく味見をする。
素直においしいと思った。スープはほぼ透明で魚の身も淡泊な見かけであるが、思いがけず濃厚な魚の旨味が口の中に広がった。かといってくどさはなく、むしろ物足りないくらいにさっぱりしている。惜しむらくは塩気がないことか。塩をひとつまみ溶かしたら、ぼやけた感じの味が一層引き締まるだろう。
味見を終えてレードルをテールに返そうとした。しかしそれとほぼ同時に、テールがはっとして立ち上がり、離れたところにある土手目指して走り出してしまった。
急になんだ。ジェットはぽかんとして見守っていた。テールは土手に生えている細長い野草を数本根元から切って摘み、そうしてまた駆け戻ってくる。短い毛におおわれた顔は満面の笑み、尾っぽも嬉しそうに振られている。
たき火のもとへ帰りつくなり、テールは収穫物の束をジェットに見せびらかせてきた。
「これこれ、これがあったの忘れてた。ネギの仲間の野草だ、最後に刻んで散らすと、すごくおいしい」
「ネギねぇ」
ジェットには聞き馴染みのない名前だった。しかし、切り口から漂ってくる独特の刺激的な香りがオニオンのそれに似ているし、外観もオニオンの葉をもっと細くした風であるから、きっとオニオンの仲間なのだろうなと見当がついた。
ひとまずネギは横に置いておかれ、先にジェットが掃除していた藻が鍋にひとつかみ入れられた。暗緑色だった藻は熱湯に通ることで明るく鮮やかな緑へと変じた。テールが彩によいと言ったことが頷ける。
藻はさっと煮るだけにとどめて、テールは鍋を火からどかした。
それからとある調味料が入った容器を取りだした。ぱかんと蓋を開けた時、先に声を出したのはジェットの方であった。
「ミソ! そんなもの持って来てたのか」
「そうだよ。ちょっと重かったけど、やっぱり味噌のスープがいいと思ったから」
味噌。ジェットが幻界で出会った食べ物の中で、一、二を争う衝撃を与えてくれた。
はじめ味噌のスープを見た時は、泥水かと眉をひそめたものだ。それから味噌本体を見せてもらって、やはり泥やなんかじゃあないかと唖然としたものだ。塩と豆や米などで作られたペースト状の調味料、幻界ではみんな普通に食べている。そんな説明をしつこくされた上で、恐る恐る口にした。そしていい意味で衝撃を受けた。単なる塩と穀物を混ぜたペーストなんかじゃない、他に類を見ない味と香りだったのだ。自分の世界に近いものがあるだろうか、ジェットの知る限り無いと断言できる。
しかもこの味噌、なににでも合うのだ。スープはもちろん、炒め物にも焼いた肉にも、生の野菜にちょっとつけるだけでも驚くほどおいしい。その点がなによりの衝撃だった。
だし汁を味見した時にひとつまみでも塩気が欲しいと思った。単にそれが叶っただけでなく、味噌という塩以上の調味料が加わった。これがおいしくないはずがない。テールが味噌を溶かしている様子を眺めているジェットの目が輝き、喉もごくりと音を立てた。
最後にネギをはさみで刻んで鍋に散らし、完成だ。テールがさっそくとばかりに椀を取り、スープをよそってくれた。
「はいジェット、夕凪魚の味噌スープだよ。冷めないうちにどうぞ」
「待ってました!」
ジェットは両手で椀を受け取って、もうもうと立つ湯気を吸いこみ、ほうと一息。魚と味噌の調和がとれた芳香に、ネギのつんとした匂いがほどよいアクセントを利かせている。胃袋をくすぐる匂いだ、もう我慢ができない。
いただきます、そう言い終わるより先にジェットは持参した匙を片手にスープへがっついた。熱さに舌を焼きながら、夕凪魚のスープを賞味する。
想像通りのおいしさだ。夕凪魚の白身は脆く、口に入れると噛まずともほろほろと崩れるのだが、その崩れたところから魚の旨味が凝縮された汁が口内に広がる。味噌の風味との相乗効果がたまらない。ネギや藻の存在も、口を飽きさせないためにいい仕事をしている。
「どう。おいしいでしょ、夕凪魚」
「おう」
「よかった。まだまだあるから、たくさん食べてね」
そう言ってテールはジェットの隣に座り、自分も食事に入った。湖の方を向いて、黙々と。つられてジェットも体の向きを変えた。
夕凪魚に舌鼓を打ち、じっくり味わうように食す。ああ、うまい。
しかし食べ進める内に、ジェットはうっすらと難しい顔をし始めた。
確かに夕凪魚のスープは美味だ、その点は嘘でない。が、絶品だなんだと大騒ぎするほどのものでもないと感じられるのだ。苦労して釣り上げた珍しい食材だという部分を無視すると、カンの町で普通に食べられる味噌スープと大差ない。考えようによっては、具だくさんだったり他の料理と一緒だったりする分、町で食事をした方がましだ。
これを言ってもいいものかどうか。迷ううちに、うーむと唸る声が漏れてしまった。テールの人間よりも大きな耳がピクリと反応する。
「どうかした? ジェット。骨が喉に刺さったとか」
「あ、いや……なんだ。夕凪魚さ、おいしいんだけど、言うほど特別なもんかなって。いやちゃんとおいしいし、俺は満足なんだけど」
「まだ、これからだよ」
「えっ?」
「とりあえずその一杯を食べきってよ。それでも気が変わらなかったら、その時はぼくのこと怒っていいよ」
まるで意味がわからない。聞き出そうにもテールは言ったきり、湖へと向き直ってスープを食べることに集中している。ジェットは黙って従うより他がなかった。
食べ終わったときなにかが起こるのだろうか。それとも、食べ進めていくうちになにかが変わっていくのだろうか。想像もつかないまま、ジェットは黙々とスープを飲む。これだけもったいぶられて、それでなにも起きなかったら......。
――本当に怒りたくなりそうだなあ。
できればそんな展開は避けたい。だから、なにか特別なことが起こってほしいものだ。そう思いながらジェットはひたすらにスープを食べ進めた。
そして。ジェットの器は魚の骨だけを残して空となった。最後までおいしい味噌スープだった。だが、それ以上のこともなにも起こらず、最後までただの味噌スープだった。
地面にあぐらをかいた格好のまま、湖に向かって深く長い吐息を漏らした。まったく反応に困る結末だ。怒ってもよいと言われたし、とんだ徒労をかけさせてと怒りたくなってもしかたない状況ではあるが、さすがに本気で癇癪を起す気は沸いて来なかった。それどころか苛立ち一つすらも。少しぐらいイラっとした心情や、ぶーぶー文句を言いたくなる気持ちが現れてもよさそうなものなのに。呆れて物が言えない、というのとも少し違う。
ジェットは不思議な気分に陥っていた。今の精神の状態を言うなれば、疲労困憊でひたすら眠く余計なことをなにも考えられない時に似ている。ただ違うのは、脳はしっかり冴えわたっていて、思考しようとすれば好きなだけ考えられることだ。とにかく心だけが動かないのである。
悪いものではない、ひどく穏やかで安らいだ気持ちだ。まるで、凪いだ海原のように。
――そうか。夕凪魚の「凪」って、こういうことだったのか。
ぼんやりと湖面を見つめるジェットの心を読んだかのように、テールがふっと口を開いた。彼もまた静かで穏やかな表情をしている。
「夕凪魚を食べるとね、心が凪ぐんだ。良くも悪くも心が揺さぶられなくなるし、雑念が湧いて来なくなって、考えごとをするにもちょうどいいんだよ。静かに自分と向き合えるし、だんだんいろんなことがどうでもよくなってきて、悩みもさっぱり晴れるから」
「だから俺に夕凪魚を食べさせたかったのか?」
「それもあるけど、それだけじゃあない。ジェットにも、幻界の本当の姿を見てもらいたかったんだ」
どういうことなのだろうか、いまいちつかみどころがない。ジェットは首を傾げた。
するとテールが指示をした。静かに、なにも考えず湖を眺めているように、と。
自分の心の声を消し湖を見つめる。水面はそよ風に撫でられてさざめき、揺られた末に湖岸へ静かに波を打つ。風にざわめくのは草地もまた同じ。通りすがりの鳥や虫の声も時折加わる。それらの音が、凪いだ心にはっきりと響いてくる。
そうした環境音に混じって、誰かが話す声が聞こえた。かすかな囁き声ではっきりとしない、でも一人二人ではなく、もっと大勢がそこかしこに居るようだ。
えっ、と思ってジェットは周りを見渡した。付近に人はいないはず、そう思った通り誰も居なかった。囁き声の出どころを探ろうにも、そちらに意識を向けたとたんにぱたりと聞こえなくなってしまう。
テールからも、意識をしてはダメだと指摘が入った。
「ぼくたちは普段、色々なことを考えすぎているんだ。自分の心の声に集中するあまり、周りにたくさん居る精霊の声が聞こえない」
「あれは精霊の声なのか」
「うん、そうだよ。精霊は幻界の化身みたいなもの、どこにでもあたりまえに居るんだ。妖精と違って実体のない存在だから、普段のぼくたちには見たり聞いたりできないだけ」
「でも夕凪魚の力で雑念を全部消せば、かすかな存在を感じられる、ということか」
「その通り。さあ、ジェット。幻界の真の姿、幻界の心を感じてよ。本当に素敵なところだって思えるはずだから。運がよかったら精霊と会話できるかもしれないよ」
口を閉ざし、心を沈め、全身で大自然の息吹を受け止める。変に聞こう見ようと意識はせず、自分も自然の一部として溶け込むように。
そうすると世界が一変した。より明るく、より鮮やかに。水は青く清らかで、天から降り注ぐ光に宝石のごとくきらめいている。草木は一つ一つが違った緑をしていて、かつ瑞々しく活き活きと輝いている。吹き抜ける風にすら爽やかな色がついている気がする。
高低さまざまな囁きも止まるを知らない。数多の声が折り重なり、今では歌のように聞こえている。非常に耳心地の良いメロディーだ。
周りのすべてから活気、いや生命とエネルギーが立ちのぼり、大気を巡っているのも感じられた。目にはっきりと見えはしない、だが確かに存在していることがわかるのだ。あるいはこれが不可視の存在たる精霊の息吹なのか。
――ああ。
ジェットは感動に浸っていた。いつもより世界が雄大に、かつ美しく感じられる。世界の中で個がいかに小さな存在であるか、それをひしひしと思い知らされ、個人の悩みや迷いなど吹けば飛んでしまう塵芥、意に介する必要もないと言われている気がしてくる。
この感覚こそが夕凪魚の味、他と一線を画する絶品たるゆえん。ジェットは確かに噛みしめた。
しかし。なぜだろうか、幻界の真髄に触れるほどに、ひどい寂寥感が湧いてくる。見えない壁が自分の周りを囲んでいて楽園から隔離されている、あるいは閉鎖的な村に一人で放りだされた、そんな感覚に近い。自覚するなり幻界の声も、景色すらもジェットのもとから遠ざかってしまう。
――そうか。ここは、この世界は、俺の居場所じゃないから。
ジェットは悟った。
「そう。キミはこの世界のものじゃない。キミは、どうしてここに居るの?」
不意に聞こえた柔和な声は、囁きとは違うはっきりとしたものだった。ただ、耳で聞いたのではなく、頭の中に直接響いた。
ジェットは特に動揺しもせず、あたりまえのように心で声と会話した。
「わからない。なぜ幻界に来たのかも、なんのために幻界に居るのかも」
「だったらキミはこんなところに居てはいけないよ。どうして自分の世界に帰らないの?」
「帰りたいよ。でも、どうしていいかわからないんだ」
「教えてほしい?」
「教えてくれ」
「素直な子だね」
ふふっと声は笑った。男とも女ともつかない不思議な音色だった。
「青嵐の丘を越え、審判の森を飛び越え、かえらずの山。そこに魔女が住んでいる。ミス・ドーリン、精霊王が認めた異端だ。彼女を頼りなさい。人間の足には遠く辛い道のりだけれど、風に導かれた、そう運び屋に伝えれば、彼らがキミを案内してくれるだろう。ここに来たときのように」
それではよい旅を。最後に続けられた言葉は、ほとんど消えかけでジェットに聞こえた。
入れ替わりに普段の世界が戻ってきた。色彩も音もいつも通り、もう精霊の息遣いはどこにもなかった。
ジェットは変な汗をかいていた。心臓も全力で走った後のようになっている。今しがた起こったことが信じられない、今話していた相手は。
「テール……俺も、精霊と話せたよ」
「ほんと!? すごいや、ぼくたちでもなかなか話しかけてもらえないのに。よかったね」
「でも。俺は、ここに居てはいけないって言われた」
真顔でそれを伝えると、テールもふっと笑顔を消した。嬉しそうに立っていた尾っぽもみるみる萎れる。その後に続く言葉を聞きたくない、そんな風に目を背ける。
それでも構わずジェットは自分の決意を告げた。
「だから、俺は自分の世界に帰るよ。その方法も教えてくれた。風の運び屋が案内してくれるはずだって」
「……魔女に、会いに行くんだね」
えっ、とジェットは目を点にした。魔女のことはまだ伝えていないのに、どうして。
Notes
【ネギの仲間】
犬にネギの仲間は厳禁、中毒する。
テールは幻界人であって犬ではないのでセーフ。
【審判の森・かえらずの山】
精霊王の意に背き、異端者の烙印を押された幻界人が追放される山。
一度異端とされた者が再び降りることはない「帰らず」の山であると同時に、精霊たちから見放された地であるがために、死せた魂が自然に「還らず」の山でもある。
審判の森はその山裾に広がる樹海を指す。異端者認定された者が外に向かって通り抜けることができない、不思議な力がはたらいている。




