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夕凪魚のスープ・幻界の心を添えて (2/4)


 湖岸で風の運び屋に降ろしてもらったら、ジェットとテールはさっそく釣りの支度を始めた。


 難しいことはなにもない。釣り竿に糸を通し、浮きと針をつけ、餌を仕掛ける。異世界だからといって不思議道具で行うわけではなかったから、ジェットとしては安心感があった。


 餌は米粉とヨモギで作った団子である。カンの町では人用のお菓子として扱われているのだが、なぜかこれが、今日目当てとする魚の食いつきがよい餌になるのだとか。理由はよくわかっていない。


「そういや、なんていう魚なんだ?」

「夕凪魚だよ」

「夕凪……?」


 ジェットは思わず空を見上げた。


 青い空に綿雲がぷかぷか浮かんでいる。太陽は時折それに身を隠しながら、南の天辺付近で輝いている。


「夕方の風が無い時に釣れるから夕凪魚っていうわけじゃないのか」

「違うよ。夕暮れのような色をしているんだ。だから」


 テールはふくふくと笑って、一足先に湖に釣り糸を垂らした。水面は風でざわついている。それをぼーっと眺めている。


 待ちの姿勢。スープ屋の店主は、テールは狩りを生業としていると言っていた。それを踏まえて犬の横顔を改めて眺めると、途端に天性の狩人がそこに居るように思えてくる。普段のほほんとした顔が心なし引き締まったような。


 なんとなく、声をかけるのがはばかられた。


 ――じゃあ、凪ってなんなんだよ。


 そんな疑問は心の中だけで音読し、ジェットもまた釣り糸を水面に投げたのだった。



 海ほど大きくではないが、湖も波を打ち寄せる。そんな静かな水の囁きにジェットは郷愁に近い気持ちを覚えながら、ぼんやりと釣り竿の先を眺めていた。


「ねえジェット。植物館にある虹色の薔薇はもう見た?」

「ああ。この前スープ屋で会った赤毛の婆さんに教えてもらって行ってきた。あれはすごいと思ったよ。花を見て感動したのは初めてだ」

「あれはカンの町の宝物なんだ。昔、フェオル様っていう精霊のお姫様が魔法の力で授けてくれたんだって」

「へぇ」


 そんなような他愛のない会話を時折織り交ぜながら、ゆっくりと時間が流れていく。


 なかなか目的の魚は釣れなかった。たまに手ごたえを感じて釣りあげても、テール曰く「どこにでもいる魚」や流される内にひかかった藻の塊などであった。


 外道でバケツが一杯になる様に、テールがうーんとうなって耳を萎れさせた。


「夕凪魚以外も食べられるし、風の運び屋に運賃としてもらってもらえる。この藻はスープの具にすると、彩がよくなるからいいんだけどねぇ」

「やっぱり夕凪魚じゃなきゃダメだよな」

「ダメだよ。あれをジェットに食べてもらいたくってここまで来たんだもの」


 強い口調で言いながら、テールは再び耳をしゃっきりとさせて湖面に睨みを利かせた。


 ジェットも気持ちとしては同じ。ここまで薦められる逸品、食べずにいられるものか。そう自分を激励し竿を握り直す。


 まだまだ今日は長い、待つ時間はたっぷりとある。



 それからさらに時間が経つ。この場に柱時計が建っていたなら、一周と少し回ったものだと二人は思っただろう。


 釣果を信じ根気よく待つのが釣りの醍醐味とはいえ、さすがに疲れてきた。


 おまけに狙い外のものさえ釣れなくなってきている。魚ながらになにか察知するものがあったのかもしれない。


 暇に耐えかねあくびをしながら、ジェットは思う。


 ――これは場所を変えた方がいいかもな。


 善は急げ。隣でまたも萎びかけているテールの方へ振り向いた。


「なあ、テール――」


 言いかけた時だった。ジェットの腕が勢いよく湖の方へ引っ張られたのは。


 反射的に竿を握る力を強め、がばっと糸の先へと視線を戻す。


 浮きが沈み、繋がる糸が大暴れしている。しかも今までかかった魚とは激しさが段違いだ。油断すると湖に振り落とされてしまいそう。


 波紋で乱れる水面の向こうに目を凝らす。うねる水の中に、ちらりとオレンジ色が見えた気がした。これはもしや。


「ジェット、それ、夕凪魚だ! 絶対に離しちゃだめだよ!」

「おうっ!」


 ジェットは足の踏ん張りをきかせ、魚をつり上げようと格闘する。だがなかなか結果が出ず、代わりに汗が全身に吹き出してきた。


 元の世界に居た時に比べると腕力が落ちているのを実感して、ジェットは心の中で嘆いた。幻界に来て以来、まともに仕事をしていなかった自分が恨めしい。


 テールの手助けも入る。肉球のある手が、半ばジェットの手にかぶさるようにして竿を掴んだ。


 その手は見た目以上に力強い。二人で息を合わせて竿を引けば、暴れ回っている夕凪魚が少しずつ岸の方へ寄ってくる。


「もうちょっと! せーのっ!」


 足に踏ん張りをきかせ、全身の力を竿に乗せる。


 すると、とうとう魚が水面から飛び出した。太陽の光を浴びてきらめく飛沫の中、鮮烈なオレンジが目に眩しい。


 それに。


「でっけぇぇ! なんだこれ――おっ、おおっ……うあっ!」


 興奮に喚きたてながら、ジェットは激しく尻餅をついた。続けて倒れた背中は、温かく柔らかいものの上に乗っかる。同じく後ろに転んだテールの体だ。


 じんじん痛む尻を擦りながら、ジェットは飛び起きた。――魚はどうなった? 今の衝撃で逃がしてしまったのでは?


 一瞬、嫌な想像をしてしまった。足の生えた魚が、あっかんべーをしながら湖に逃げ帰っていく、などと。そんなことが起こっても幻界なら不思議でない。


 だが杞憂だった。


 夕凪魚は草のはびこる岸にてのたうっていた。針をしっかり飲みこんでいたようだ。魚が跳ねるのに合わせて、糸もびよんびよんと暴れ回っているが、外れる様子は無い。ほっと安心した。


 改めて獲物の姿をまじまじと見る。


 全身の姿はよくある魚の形と違って長細い――といっても比率の話で、全長は人間の大人に匹敵する長さで、太さも人の首とか腿ぐらいある。それがうねうねと動き回っていると、魚というよりもはや大蛇を見ているような気分になってくる。


 一方で鱗は細やかだ。大きな魚になると鱗も相応に大きく頑丈であるのが一般的だが、夕凪魚は違うらしい。この緻密に並んだ鱗のおかげで、外見に美しい光沢がある。


 また夕日のようなオレンジ色も単色ではない。腹から背に向かって、赤みの強弱がグラデーションになっている。まさに黄昏の水平線を切り取ったよう。


 ジェットも魚は色々と見てきたが、ここまで色彩鮮やかで美しいものは初めてだった。しゃがみこんでまじまじと見る、その程に恍惚とし感のこもった溜息も幾度となくこぼれる。


 そんな彼の隣、夕凪魚の頭がある側にテールがしゃがみこんだ。


「外見はもう十分堪能したかい?」

「ああ。すごい綺麗だ、こんな魚、初めて見たよ」

「喜んでもらえてよかった。じゃあ、そろそろいいよね」


 そう言ってテールはマチェットをちらつかせた。柄の部分がすり減っている、普段から藪を刈ったり枝を払ったりするのに愛用しているのだろう。


 だが今の用途は違う。魚をさばくために取りだした。確かに、これだけ大きく太い魚となると、普通のナイフでちまちまと調理加工するのはナンセンスに思える。


 当然ながらジェットは夕凪魚のさばき方を知らない。だから「あとはよろしくお願いします」と言って一歩下がり、采配をテールに委ねた。


 代わりにジェットはたき火を起こす。といっても、幻界での火起こしは驚くほど簡単だ。その名も「火種」と呼ばれる植物の種子があって、これに着火剤になる粉をまぶしてハンマーでたたき割ると発火するのである。枯れ枝や枯草などを集め、その縁で火種を割れば、あっという間にたき火の完成だ。


 火の番をしながらテールの様子を伺う。すると、解体が順調に進んでいるのが見えた。頭が切り落とされているし、はらわたも抜き終わっている。今は皮をはぎ落しているところだった。鱗の細かさからは意外なほどに分厚い皮だ。生臭ささえどうにかなれば、鮮やかな色味の鞄やアクセサリーなんかに加工できそうなものである。


 それをテールひとりでひっぱり、なかなか剥がれないところはマチェットの刃でそぎ落とし、としている様はとても重労働に見えた。慌ててジェットは立ち上がった。


「手伝うよ。引っ張ればいいんだな」

「いや、こっちはいい。ジェットは調理の準備をしておいてよ。鍋にたっぷりのお湯を沸かして、それと、さっき採った藻もゴミをとって一緒に料理できるようにしておいて」

「ああ、わかった」


 回れ右して言われた通りにジェットは動く。持参した大鍋に水を汲んで火にかけた。そのままたき火と鍋の番をする傍らで、バケツに入れておいた緑の藻をちまちまと掃除していた。ついでに大きなものは手で引きちぎって、料理に使いやすいようにしておく。


 そして鍋がふつふつし始めたころ、テールから「やっと終わったあ」という気の抜けた声が上がった。ちょうどジェットも手持ちぶさたになってきたところであった。


「ねえジェット、手伝ってくれる?」

「今度はなにをすればいいんだ」

「夕凪魚を湖に返す」

「……どういうことだよ、それ」

「昔からのしきたりなんだ。夕凪魚は湖の一部、食べる分だけ頂いたら、残りは全部湖に返してあげる。そうすれば次に釣りに来た時も、湖はぼくたちに恵みを与えてくれるから、ってね」

「なるほどなぁ」

 

 こんな大物何日分何人分の食糧になるか、捨ててしまうなんてもったいないし、逆に魚に申し訳ない。内心そう思ったものの、これは幻界の信仰で、異世界人であるジェットが四の五の言う幕ではない。だからジェットは大人しくテールのいうことを聞いた。


 どうやって返すのかと思えば、とても単純、解体した各部位をそのまま湖に戻すだけという。ただ、岸に打ち上げられてしまうといけないから、なるべく沖の方へ投げ込むようにという注意があった。


 自分たちが食べる一抱えの塊を残し、全部を返し終わったころには、ジェットもテールもへとへとになって息を切らせていた。いかんせん魚が大きすぎた。


「じゃあ、そろそろ、ごはんにしようか」

「ああ……やっと、だな」


 夕凪魚にありつける、ここまでなんと長かったことか。やたらと疲れたし、お腹もすいた。今ならどんなゲテモノでもおいしく食べられるだろう。


 ――絶品って、まさかそんな意味じゃないだろうな。


 一瞬よぎった不安の雲を首を振ってかき消した。きちんと苦労に見合う価値があるはずだ、と。

Notes

【釣り竿】

見た目は同じでも、幻界の釣り竿はうんと丈夫。やっぱり不思議道具だったのだ。

たとえば糸の先に大人が十人ぶら下がっても大丈夫、折れない。

ただしそこまで負荷がかかると、使う人の腕がもたないから、あまり意味はないのだが……


【藻】

海藻ならぬ湖藻。ワカメやコンブよりは海苔に近い。

磯の匂いはしないが、少しだけ泥臭い。


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