夕凪魚のスープ・幻界の心を添えて (1/4)
船乗りジェットが大渦に呑まれ、幻界なる異世界へ来てから十の昼夜が過ぎた。
はじめこそ戸惑っていたが、意外と早く心身が慣れた。動物の姿をしている幻界人も、中身は人間とそう変わらなかったし、生活習慣も大きく変えなければいけないことはなかった。
居候させてもらっている家主のテールが、とにかく親切にしてくれたのも要因の一つ。またここカンの町自体が、非常に平和で暮らしやすい環境だったのも大きい。おかげで余計なことを考えず、幻界の新生活を楽しむことができたのである。
そうして自他共に認めるほどジェットは幻界になじんでいた。
「ジェットちゃん、最近あんまり『帰りたい』って言わなくなったわよねん」
「……そうか?」
「ええそうよん。まっ、いいことよ。ジェットちゃんはもうカンの町の住民なんだもん」
「いや。俺はただの居候の身で」
「いいえ? だって、保護者のテールちゃんと一緒じゃなくても、こうやって町を歩きまわっていられるじゃないのん。十分一人前よん」
頬杖をついて笑う白いふかふかの犬は、スープ屋の店主である。カンの町に食事処はいくつもあるが、幻界で最初の食事がこの店だった縁もあり、ジェットは昼飯のほとんどをスープ屋で済ませていた。
なお代金は「新界人特別優待サービス」ということで無料にしてもらっている。ありがたいが申し訳ない、なので買い物の手伝いをしたり、店の掃除や簡単な大工仕事をしたりで埋め合わせているかたちだ。
「そろそろ幻界にも慣れてきたみたいだしぃ、ジェットちゃんもお仕事を探すといいかも」
「仕事、ねぇ……」
「あいにくこの町じゃ船乗りはできないけどん」
ころころと笑う店主に、ジェットは曖昧な表情を返した。
そもそも幻界にどんな職業があるのかよく知らない。飯屋や道具屋なんかはわかりやすいが、他も元いた世界と同じに考えてよいのだろうか。わけのわからない仕事があったりするんじゃないか
そういえば、とジェットは呟いた。
「テールは今日は仕事に行くって朝早くに出てったけど、あいつの仕事って?」
「あの子は町の外に狩りに行くのよん」
「狩猟!? 見かけによらないなぁ、あんなぷわんとした顔してるのに」
「そんなにハードなものじゃないわよん。メインの商材は水晶樹の酒とか氷の種とか、そういう植物系よん。せいぜい赤辛蜜を採りに行って蜂に刺されるくらい。心配いらないわん。あっ、ジェットちゃんはテールちゃんに弟子入りすればいいんじゃないかしらん? 採集品の売り先ならいくらでもあるわよん」
さも確定したように店主は話を進めていく。
ジェットは「また考えておくよ」とお茶を濁して、食べかけだった昼ご飯に戻った。
少し温くなったスープを頬張り、店主には明るい顔を見せている。
しかしその裏では憂悶していた。
船乗りの肩書を降ろし新しい仕事なんて始めてしまえば、いよいよこの町に定住するコースだ。いや、それ自体は悪くない。カンの町は住みやすく、平穏で、良い町だ。ジェットは切にそう思っている。
ただ。口に出していないだけで、元の世界へ帰りたいという気持ちはまったく変わっていないのである。だからいつかは居なくなるものとして、幻界生活を送りたいのだ。
ではどうして本音が言えなくなってしまったのか。
申し訳ないのだ。カンの町の人々、特にテールに。
テールは新界に憧れていたというだけあり、自分との暮らしを本当に楽しそうに過ごしている。居候で穀潰し、そう表現しても過言でないというに、邪険にするどころか、過剰なまでに世話を焼いてくれる。
またジェットが新界の思い出話をすれば、どんな内容のものでも、おとぎ話に夢中の子どものように前のめりで聞いてくれる。くるくると表情が変わるさまを見ていると、喋っているこちらも楽しくなってくる。
まるで長年の付き合いになる親友、それがテールに対する想いだった。
だからいっそう申し訳ない。帰りたいという発言は、幻界の魅力を教えてくれた親友への裏切りとも言える。そこまで思われずとも、悲しませてしまうことは確実だ。
日中に考えてしまったことを引きずり、夜、寝る前になってもジェットは晴れない心地だった。ベッドの上に寝っ転がり、天井を見つめるは真剣なまなざし。
そんな風だから同室の者にも異常は伝わった。
「どうしたの? どっか具合が悪い?」
自分のベッドに腰かけて読書にふけっていたテールが、心配そうにやってきた。三角形の耳がなんとなく萎れている。
「いや……」
なんでもない。ジェットはそう続けかけて、やめた。原因はわかりきっているのに取り除かないのでは、結局気は塞いだままでなんの解決にもならない。テールにも無駄な心配をかけるだけだ。
だから代わりの言葉を繋げた。
「最近、俺、船に乗ってないなあって」
「あぁ。ジェットは船乗りだもんね。それなら北の山に川下りに行くといいかも。楽しいよ」
「そうじゃないんだ。俺が好きなのは、川なんてちっぽけなものじゃない」
「海?」
「うん」
「幻界にも海はあるらしいよ。ずっと、ずーっと遠くにだから、明日にでも行こうって風には言えないけど。でも、ジェットと一緒なら旅行に――」
「違うんだテール、そうじゃないんだ。やっぱり俺は……」
結局、本心をさらけ出す勇気が持てなかった。「なんでもない」と言い直して、そそくさと布団を被った。それからテールに背中を向ける。壁から漂う木の香りが.鼻の奥をつついた。
しばしの沈黙。その後、テールの柔らかい足音が遠ざかっていった。
ぽふんとベッドに腰をかける音、ぱらりと本のページをめくる音。それらをジェットは背中で聞いていた。
そこに穏やかな声も続けてやってきた。
「ねえジェット。明日は暇?」
「まあ」
「じゃあ、釣りに行こうよ。海じゃなくて、湖だけど」
「湖……」
思い起こされるのは幻界に流れ着いたときに目覚めた、気味の悪い鮫頭の生き物が住んでいるあの湖。妖精の仲間と聞かされたものの、どうにも好きになれない。テールに見えないところで、苦虫をかみつぶした顔をした。
「釣りはいいけど……あの湖は、ちょっと」
「眠りの湖じゃないよ。カンの町から西に行って青嵐の丘を越えたところに、もう少し小さい湖があるんだ。そこで釣れる魚がすごくいい、幻界でも一、二を争う絶品なんだよ」
へえ、とジェットは前向きな相槌を返した。
魚は好きである。というよりは、船乗りの暮らしには付いてまわると言ったほうが正しいか。寄港した町で食べるのも魚料理が多くなるし、時には船上で自ら釣りをして食材を得ることもある。船には保存が効く塩漬け肉が積まれているのだが、それよりも新鮮な魚の方がおいしいから。
思えば、淡水の魚は食べたことがない。生まれも育ちも海のそばであったから。その点で好奇心もくすぐられる。
おまけに幻界きっての絶品ときたものだ。別世界に来てこの方、食べ物でおおはずれだったことはない。それを踏まえて幻界人も認める絶品の魚の味を想像すると、みるみる涎が出てきた。
「行くよね?」
「もちろん!」
ジェットは勢いよく寝返りを打った。勢いに乗り重苦しい空気もどこかへ吹き飛んでいった。
テールは失笑している。尻尾もぱたんと揺れた。
「じゃあ決まり、明日が楽しみだよ」
それからぱたんと本を閉じ、テールもまた就寝の姿勢に移ったのだった。
翌日。ジェットとテールは釣り道具と調理器具を担いで出かけた。出発したのは特別早くというわけでもない、無理のない朝の時間帯である。
カンの町を出てしばらくすると広大な丘陵地帯――青嵐の丘に差しかかる。はじめの丘を登ったところからでも、まだ湖ははっきりと見えない。これはかなりの長距離歩かなければならないぞ、ジェットはそう覚悟していた。
しかし結果として予想は外れることになった。青嵐の丘を越えるのは、空の旅路であったのだ。
巨大な鳥の胴から垂れ下がる一人乗りのブランコ。ジェットはその紐にしがみついていた。
鳥。テールは「風の運び屋」と呼んでいた。艶やかな青と黒の羽根を持つ、鶴に似た鳥である。青嵐の丘に暮らし、人々の旅先案内人や郵便屋および運送屋として活躍するものたちだ。湖まで飛んで欲しいと頼んだところ快く応じてくれた。
いわく、人ではなく妖精の仲間らしいのだが。
「あのさぁ、妖精の定義ってさぁ、なんなんだよ! 俺の知ってる妖精は、もっと小さくて、かわいらしいものだったぞぉ!?」
強風の音に負けないようジェットは声を張り上げた。
するとケラケラと笑う声が頭上から降ってきた。
「人と言葉がかわせて、でも人じゃない生き物で、ちゃんと実体があるものだったら全部妖精だ。かわいいかどうかは関係ないさ」
「でもさぁ!」
「おまえさんだって、生まれた世界は違うし、見た目もハゲ猿みたいで全然違うけど、それでも人なんだろう? 同じじゃあないか」
「同じかなあ……」
ジェットはなんとなく後方に居るテールを振り返った。
彼も別個体の怪鳥に運ばれている最中、風の音に邪魔されてこちらの声は届いていないらしい。目が合ったところでにこやかに手を振りかえされた。
その姿は人、と言えばそうだ。二足で歩行して二本の腕があって。人と同じように服を着ているし、顔を構成するパーツの種類や数は同じ。言葉も通じる。
だがやはり犬だ。耳や鼻の形も違うし、なにより毛むくじゃら。自分と同じ人とは思えない。テールのことは親友だと思っているが、その根本的な違いだけは埋められない。
もっとも、この世界ではテールたちの姿が普通だ。人と違うもの、世界の常識から浮いているのは、むしろ自分の方である。その意識がジェットの中で消えないしこりになっていて、ことあるごとにうずくのだ。昨日も、今も。
再び前に向き直った。思わず、はあ、と大きなため息が漏れる。
すると、何もかもを吹き飛ばすような強いはばたきの音が響いた。
「若いの、これから遊びに行くってのにそんな湿気た顔してちゃあダメだ。遊ぶときはね、なにもかも忘れてその時間に浸らなきゃ」
「……そうだな。すいません、ありがとうございます」
怪鳥のカカカと笑う晴れやかな声につられて、ジェットも自然と口角を持ち上げた。
前方に長く広く続く緑の丘。その果てに、きらきらとした景色が見えてきた。
水面だ。気づいた瞬間に、ジェットの心が色めきたった。海でなく湖、それでも水のきらめき自体は変わらないものであるから。
Notes
【風の運び屋】
人も荷物も思い出も、運べるものはなんでも運ぶ。速くて安全プラス楽しくをモットーに、今日も青嵐の丘をひとっ飛び。
大きな荷物を抱えたあなたも、ちょっと遠くへ旅に出たいあなたも、ぜひ我々にご用命を!
(運賃は要相談。重量によってはお受けできないこともあるのでご了承ください)




