幻界式スープごはん(1/2)
ジェットは船乗りだった。大陸の西岸を南下する商船に乗っていた。同じ船の乗組員の中では一番の若手で、先輩たちからの期待を一心に受け止めていた。
だが、この日。商船の前に、突如大渦が現れた。大きく揺れる船の上で、乗組員たちは難破を避けようと必死で戦っていた。
その途中、ジェットは海に落ちてしまった。船が傾いて、体が浮いたと思った時には遅かった。
正面から荒れ狂う水面に叩きつけられて、そのまま水中に飲みこまれて。激しい水流に体を持っていかれ、光がどんどん遠ざかる。当然、息はできない。
――ああ、死んだな、おれ。
意識が消える直前に、ジェットはそう自覚した。
次に気が付いた時、ジェットは横向けに倒れていた。
頬が砂に触れている感覚がする。腰から足が水につかっている感覚がする。そしてなにより、自分は呼吸をしている。
――運よく、どこかに打ち上げられたのか?
鮮明になってきた意識でそう結論付けて、ジェットは体を起こしながら、重いまぶたをこじ開けた。
「……なんだ、ここ」
手をついたのは草地だ。前方には林がある。ただ、立ち並んでいるものは、葉の繁る樹木ではなく、木のように枝わかれした巨大な水晶であった。
遠景には連なる山が見える。その一つの頂上に、巨大な鳥の卵がすっぽりとはまっていた。親鳥の姿はないが、想像するには山と同じ大きさだ、そんなもの今まで見たことがない。
空を見上げれば、普通の白い雲に混ざって、緑色の綿雲がぷかぷかと浮かんでいた。
そして。起き上がったジェットに驚いて、さっと飛び退いた生き物がいた。
それを見る。と、今度はジェットが悲鳴も裏返らせて驚く番であった。
目の前に居たのは、鮫の頭にひょろひょろの手足を生やした生物。針金で鳥の足を真似して作ったような手足だ。自分が知る世界のものでは無い、そう断言できるほど奇妙で奇怪な生き物である。
しかも、その生き物はさらに喋り始めたのだ。
「わー、起きたー」
「たー!」
「わー、逃げろー」
「ろー!」
子供同士がふざけ合っているように笑いながら、子供がふざけて描いたような生き物は、波打ち際へと走っていって、そのまま水に飛び込んだ。
波紋の中心をジェットは呆然と見つめていた。
すると、二つの鮫頭が再び水中から顔をだした。
「生きた新界人は食べられないの!」
「の!」
それだけ言い残し、じゃぼんと大きな水しぶきを上げて、鮫頭は姿を消したのだった。
まるでわけがわからない。自分は死んで、死者の世界にでも来たのか。いいや、今の鮫頭は「生きた」人と言っていた。
では悪い夢でも見ているのか。そう思ってジェットは自分の頬をつねり、頭をはたき、腹を叩き、思いつく限りの刺激を与えてみた。しかし夢が解ける気配はない。足をなめる静かな波も絶えず感じられる。
もう一つ。目の前に広がる水は、海のそれではない。潮風特有の匂いがしないのだ。それに水平線の向こう、ほど近くに山が見える。おそらくこれは広大な湖だ。
なにがなにやらさっぱりわからない。渦に飲みこまれたはずだったのだが。
唯一ジェットが理解できたこと。それは、今いるこの地が、元居た世界とは別の世界であることだ。
ずっと座り込んでいてもしかたがない。ジェットはびしょ濡れの重い足ながら歩き始めていた。
ひとまず水晶林の方へ向かうを選んだ。なんとなく鮫頭とは距離をおきたかったのだ。
立ち並ぶ水晶の間を抜けていく。足下の砂にも水晶のかけらがたくさん含まれていて、視界のすべてが陽の光にきらめいている。幻想的な風景だった。
はじめて船に乗った時のことを思い出す。故郷を離れて荒波を越え、たどり着いた先の見知らぬ町。風景も習慣も食物もなにもかもが新鮮で、不思議で、魅力的だった。あの時と同じ気分を味わっている。
ただ違うのは、並ならぬ不安を抱いていることだ。せめて一人でさえなければ、もう少し心の余裕を持てたのに。
その時だった。前方からカンカンカンとリズミカルな音が響いてきた。金槌でのみを打つ音だ、とジェットは感じた。
「誰か居る!」
喜んで駆け出しそうになったが、いや待てよ、とつんのめりながら立ち止まる。
誰か居たとして、それは人間だろうか。さっきの鮫頭のことが離れない。人の言葉を話したり、人の道具を使ったりしていても、人間でない可能性は十分すぎるほどある。それが友好的でない確率も同じくらい高い。
ここ慎重に行こう。ジェットは深呼吸して、水晶に隠れるようにしながら、ゆっくりと音の方へと忍び寄っていった。
やがて音の主が見えた。
水晶樹の根元にしゃがみこみ、のみで水晶を削っている。樹液――出るかどうかはさておき、そういうものを採集している様子だ。ジェットの位置から見えるのはその後姿。大きさは人間だ。
ただ人間ではなかった。
「犬……」
他に形容の仕方がなかった。栗色の短い毛に三角耳の犬そのものが、二足歩行になって、人間のチョッキとズボンを着ている。何度目をこすってもそのようにしか見えない。
ジェットはひたすら当惑していた。水晶の影から顔をのぞかせたまま、自分も鉱石になってしまったかのごとく固まっている。
すると、犬が急に振り返った。後ろに置いてあった鞄から水筒を取りだすため。そんな目的はどうであれ、当然のごとくジェットと目が合った。
見えた正面顔も犬そのものだった。意外と愛嬌のある顔で恐ろしさは皆無。が、そもそも理解の範疇を超えている。
すっとんきょうな声を短く発してから、ジェットはとっさに水晶の影に隠れた。柱にへばりつきながら身をかがめ、無意識のうちに手で口を塞ぐ。
――どうする、どうする!?
ジェットの持つ知恵は航海に関するものばかり。海の魔獣に運悪く出くわした時の対処法ならばある程度知っている。だがその中には、つぶらな瞳をした二足歩行の犬を相手にしたものなど無い。
そうこう考えている内に、犬が近寄ってきた。ジェットの隠れている水晶の木陰をぬっと覗き込む。
「ううん。やっぱり新界人だよね、どうしてこんなところに」
「しっ知りません、わかりません、全っ然、なにもかも……」
「そんなに怖がらないでいいのに。ぼくはテール、お見知りおきを」
そう言ってテールは腕を伸ばした。握手を求められている。普通の犬より少しだけ指が長い。
ジェットはおっかなびっくりその手を握った。ふかふかの毛とぷにぷにの肉球で、柔らかな感触だった。
「おいで。お近づきのしるしに一杯やろう」
言うより早く、テールは手を引っ張って歩き始めていた。といっても、元いた樹のもとに戻っただけであったが。
樹状の水晶の根元近くに三つの穴があけられて、そこに管が差し込まれている。管の反対側は小さなバケツに入っていた。その先端から、さらさらの樹液がしたたり落ちている。
テールは鞄から木のコップを二つ取りだして、一番多く溜まっているバケツから樹液をすくった。
周りに付いてしまった液体をハンカチで拭ってから、ジェットに手渡した。
「お酒は飲めるよね」
「……酒?」
「水晶樹が集めた月光のお酒だよ。最初は灰色だったけど、すぐに銀になったし、この数日は金色が続いていたから、もう結構甘くなっているはず」
そう言われてもちんぷんかんぷん。第一聞きたいのは、どうして水晶の中から酒が出てくるのか。百歩譲って甘い樹液ならまだわかるが。
ジェットは胡乱にコップを見つめた。少し濁った液体は、しかしさらさらとしている。こういう見た目の酒は確かにあった、とある港町で飲ませてもらった覚えがある。
ええい、ままよ。ジェットは思い切ってコップに口をつけた。
「甘い! 蜂蜜酒みたいだ」
「嫌い?」
「いいや、悪くない」
船乗りに酒はつきものだ。ただいつもはウイスキーやラムなどだから、こんな甘口の酒は逆に新鮮である。元いた世界の蜂蜜酒よりも甘さが強くて、しかしリンゴやブドウのさっぱりとした香りがするから、飲んでいて嫌にならない。酒気の強さもほんのりとしたものだから、いくらでも飲めてしまいそうだ。
ジェットはあっという間にコップを空にした。心なしか体が温まったような気がする。
同時に心の氷も溶けていた。自然な笑顔がこぼれてくる。
「おいしかった、ありがとう」
「どういたしまして」
「ついでに聞いていいか? ここは、どこなんだ?」
「眠りの湖の北側にある水晶林。もう少し北に行くと、ぼくの住んでるカンの町だよ」
「そうじゃなくて。ここは俺の住んでいる世界じゃない……気がするんだ」
「うん。きみはどう見ても新界人だ。ここは、新界じゃない」
「シンカイ?」
「そう。新界に合わせて呼ぶのなら、ぼくたちの世界は『幻界』。昔、精霊の王様が決めたそうだよ」
幻界。ジェットの知識にはなかった。
ただ元いた世界――テールに合わせて新界と呼ぼう――でも、伝説レベルで別の世界が存在するという話はあった。たとえば、世界各地にあるダンジョンの魔物は、魔界という悪の世界から送り込まれてくる化物である。他にも妖精たちの暮らす国があるとか、死者が行く天上の世界があるとか、そういった類だ。
それが本当にあるなんて。しかもなんでか自分が迷い込んでしまうなんて。ジェットは物憂げなため息を吐いた。
すると、そこにコップが差し出される。「おかわりどうぞ」とテールが言った。
ありがたく受け取って、今度はちびちびと味わうように飲む。テールがそうやっていたからだ。
「ねえ、きみの名前は?」
「俺はジェット」
「ジェット。きみはどうやってこの世界に来たんだい?」
「どうやってって……わからないよ」
「わからない? 記憶がないの?」
「いいや、あるよ。俺は船乗りなんだ。乗っていた船が大渦に飲みこまれそうになって、抜け出そうとしている内に俺は船から落っこちた。そのまま渦に飲みこまれて海に沈んだ……と思ったんだけどなあ。気づいたら、向こうにある湖の岸に倒れてた」
ふうむとテールが唸った。
「不思議な話だね。眠りの湖はときどき新界の物が漂着するんだけど、生きた新界人が流れついたっていうのは初めて聞いたよ。ううん、ブンさんならなにかわかるかもしれない。一緒に来るかい?」
要領を得ない顔をしていると、テールが詳しく解説してくれた。
ブンさんというのは、テールの住むカンの町一番の物知りだ。普通のひとが知らない難しいことを知っている。だからジェットがどうして幻界にやってきたのか、あわよくば元の世界に帰る方法もわかるかもしれない。
他にどうするあてもない。ジェットはテールの提案を受けて、一緒にカンの町へ行くことにした。
Notes
【幻界人】
姿かたちにはかなり多様性があるものの、新界でいう動物が二足歩行していると例えられるものがほとんど。
他の幻界住民である精霊や妖精とは、実体があること、言語機能があること、社会性のあること、大きさや頭身などで区別される。
また四足の生き物は彼らにとても獣で、見た目似ていても人あつかいされない。
【幻界の月】
新界から見える物とはまったく別の物体。
満ち欠けしない代わりに、不定期に色味と輝き度が変わる。
色や光り方で月から地上に降り注ぐ魔力の質が違うため、その作用を利用する者にとって月の観察は仕事のようなものである。
【テール】
柴犬っぽい。




