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菜の花とはまぐりのスープといなり寿司

「そういえば、もう3月かあ……」

 世の中のディスプレイに、ひな祭りの文字と、春であることを主張するかのようなピンク色のポップが溢れていることに、彼女は足を止めてなんとなく呟く。

 子どもの頃は雛かざりを飾って、それなりにお祝いらしきものをしていたが、歳を経るうちおざなりになった行事だ。一人で暮らす現在ともなれば、なおのことだった。

「うん」

 こういう気分の時も、あの店だと、彼女は足を早めて路地を曲がって行った。


 がらんがらんと大きな鈴の音を鳴らして扉を開ける。いつも通りに店主に声を掛けようとしたところで、気が付いた。

「あれ? 野菜のお兄さんだ」

「あ、いらっしゃいませっ。ごめんね、ちょっと待っててね」

 店主の片割れである亜里沙が、真っ赤な髪のお兄さんと話をしている真っ只中だった。厨房の奥の扉が開いているところを見ても、仕入れの最中のようだ。

 お兄さんは、その外見に似合わず、広く農園を営んでいるらしい。このカフェで提供される料理では、野菜だけでなく、卵やお米も彼の農園で作られている物を使っているそうだ。

 お兄さんの作る野菜はスーパーの野菜と少し違う気がする。まあ、自分が同じ野菜を使っても、活かしてやれる自信はないのであったが。

 でも卵は欲しいかもしれない。ほかほかご飯に、新鮮ぷりぷりの黄身の生卵。料理の腕がなくとも味わえるご馳走だ。

 野菜を置いている田舎の直売所でも、完売御礼の大人気なんだそうだ。近所の人が羨ましい。


「ありささん、それ、菜の花?」

「うん、そうだよ。季節の物だからって、持って来てくれたの」

 赤い髪のお兄さんが置いていった箱の、一番上に置かれていたのは、所々に黄色い小さなつぼみがのぞく鮮やかな緑の束だった。春そのもののような食材だ。

「今日のメニュー、それ食べれる?」

「そうだねー……うん、大丈夫だよ。スープセットになるけど構わない?」

「うん。お願いー」


 今日はカウンターではなく、庭が臨めるテーブル席へと向かう。

 ソファー席には、いつも通りに新聞を広げるお爺ちゃんが座っているので、隣の、木の天板の一部にタイルの装飾が貼られたテーブルの席を選ぶ。

 今の庭はハナモモが満開だ。

 まだ風が肌寒い日も多いけれど、鮮やかな桃色と華やかな花の姿は、すっかり春の景色を作っている。一枝にみっちりと花を咲かせるハナモモだけでも賑やかなのに、垂れ枝の品種も花を咲かせていた。そちらは白に濃い紅色が走ったマーブル模様のような花だ。少し面白い。

(桃なんだから……桃色で良いんじゃないかなぁ……)

 残念なことにハナモモの実は大きくならないらしい。食べる為の桃の花は、もっと控えめな姿の物だ。両方兼ね備えたハイブリッド品種は生まれないのだろうか。


 少し早い花見気分を、暖かい室内で楽しめるのも、このカフェの良い所だ。もう少し季節が暖かくなれば、庭に設えられたテラス席という選択肢も乙なものである。


「お待たせ。スープセットだよ」

「ありがとー」

 亜里沙が運んで来たお盆は、いつもとは違い、和風の漆塗り調の物だ。器もまた、大ぶりのお椀が載っている。

 だが主役の座を奪おうと鎮座する存在に視線を奪われる。

「今日のご飯、いなり寿司なんだー」

「ひな祭りだからね」

 そう、こんな風に季節を感じるメニューを出してくれるのも、この店の素晴らしい所だ。

 ご馳走感溢れるいなり寿司の姿に、表情筋を弛ませながら、お椀の蓋を開ける。

 ふわん、と閉じ込められていた香りが立ち上る。

「はまぐりだー」

 大きな蛤と菜の花という定番でシンプルな組み合わせのお吸い物。だが、この店の『具沢山』のメニューの名に恥じないほどに、お椀の中は賑やかだ。

「はまぐり、今高いんだよねー」

 それが嬉しくなる位入っている。ぱっかりと口を開けて、少し白濁したスープに沈む蛤を目で楽しんでから、まず一口スープを啜る。

 潮汁と呼ばれる塩のみで調味したお吸い物だ。

 この白濁した色こそが、蛤から出た旨味の証なのだ。他の貝とも異なるだし汁に、ほう、とため息をつく。

 優しい味だ。

 箸を伸ばして蛤の身を摘まめば、ぷるんと震える柔らかな身が貝から外れた。食べごたえを楽しめる大きなそれをぱくりと頬張る。

 続けて菜の花を摘まむ。

 その色あいだけで季節感を感じさせる存在だ。さっと短時間で調理された菜の花は、その鮮やかさをくすませることもなく、緑と黄色をよりはっきりと際立たせている。

 ほのかな苦味を感じるのは、山菜などとも共通する味わいだ。なぜ『春の味』は、ほろ苦さなのだろうか。


「ご馳走いなり寿司だ。なんか嬉しいなあ」

 並んだいなり寿司は、錦糸玉子と海老、さやいんげんが飾られている。隣の蛤のお吸い物と合わせれば、ひな祭りの祝い膳として充分な華やかさだ。

 錦糸玉子というものは、その存在があるだけで、ご馳走感がアップするような気がする。やはり食事における視覚というものの影響は大きい。

 あーん、と大口を開けてかぷり。

 甘めに煮付けられたお揚げから、じゅっと汁が滲む。もぐもぐと咀嚼すれば、海老のぷりっとした食感と、かすかにつけられた塩味を感じる。時折しゃきしゃきと、さやいんげんが自己主張をしていた。

 中身はやや甘めの寿司飯に、金ゴマが風味を感じる程度に混ぜ込まれたものだった。とはいえくどいほどには甘くなく、優しい当たりの酢の酸味が、すっきりと纏めあげてくれている。


 それでも口の中に残った甘味は、お吸い物でリセットする。


「おいしいなぁ……ありささん、ほうじ茶ちょうだいっ」

「はぁい」

 飲食店のサービスとして定番のほうじ茶も、この店のものは妥協がない。

 芳ばしい香りをまず感じるほうじ茶は、口当たりが柔らかだ。渋みの少ない優しい味のお茶だった。

 ちゃんとしたお茶屋さんのほうじ茶を飲んだ後で、量販店のパッケージングされたほうじ茶を口にすると、同じ系統のお茶とは思えない程に風味や味に差がある。同じ価格帯のものでも、だいぶ差がある飲み物だと思う。

 やはり『お茶』というものは、『お茶屋さん』で買うのが外れが少ないという持論に達している。

「水も美味しいからなんだろうなあ」

 和食には、やはり日本のお茶だ。この安心感は間違いない。


「『お兄さん』の所の野菜は本当に美味しいねえ」

「こだわって作っているらしいからね。農薬なんかも使わないんだって」

「へえ……無農薬栽培って大変なんだろうねぇ」

「手伝ってくれるひとも沢山いるらしいよ。結構大所帯になって、楽しいけれど大変だって言ってたから」

 ほうじ茶のおかわりを持って来てくれた亜里沙に問いかければ、そんな答えが戻ってきた。

「お米も美味しいしねえ」

「そうだね、最近ここのばっかりだから、余所のとはあんまり比べられないんだけど。ありがたいことに安くしてくれるしね」

 それがまわりまわって、安くて美味しいメニューとして提供されているのだ。大変ありがたいことである。

「果物も最近は作ってるんだよ、今の時期はやっぱり苺だって」


 苺か。

 お吸い物を飲みながら、笑顔の亜里沙を見上げると、彼女はにっこりメニューボードを指差した。

「今日のスイーツは苺尽くしだよ」

「そ、そうなのですか」

 ノーと言える日本人となるのだ。いなり寿司はたっぷりの具と、しっかり入ったご飯で、食べごたえがあった。ボリュームは充分だ。

 もう胃の中にカロリーを投入する必要などないのだ。


「零さんも、今回はいつもの焼き菓子じゃなくって、ケーキ作ってくれたの、苺のミルフィーユと……」

 ケーキですか。サクサクのパイ生地を想像したら敗けだ。バターだ。使用されている油の塊を思い出すのだ。

「苺のムースケーキ」

 ふわり口の中で蕩けるんだろうなあ。いいえ、そんな想像は不要です。生クリームは振り続けるとバターに変化するのです。


「それと、苺大福」

 ここで、まさかの和菓子投入だと……っ。

 手の中のほうじ茶に視線を落とす。美味しい和食の締めに、美味しい和菓子のデザート。ほうじ茶との相性も疑いようがない。

 ちらりと、カウンターのそばの、デザートが収められたケースを確認すれば、ケーキと並んで、淡いピンクに染められた丸い餅がちょこんと飾られている。

 ひな祭りの気分に、春の気分で、ピンクの餅。

 良いかもしれない。


 敗北した瞬間だった。


 大きな果実が含んだ、甘くはあるがさっぱりした果汁の瑞々しさが、餡子と共に頬張れる、そんな大変美味しい大福でありました。

季節ものだったので、ちょっと投稿して見ました。

タグ詐欺ではないのですよという、『異世界』とか『ファンタジー』要素がジリジリと滲み出ていれば良いのですが。

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