ヴァイツェン
歓送迎会も一息ついたこの季節。とはいえ新しく入った顔触れが、戦力と数えることが出来るかは難しい。「自分がやった方が早い」では、いつまでも後が育つことはないし、状況が改善することもない。とはいえ毎日の仕事がそれに応じてくれることもなく、やっぱり締め日はいつもと同じくやってくる。
本音を言えば、かえって忙しい。
まあ、それは仕方がないことで、新人が仕事を覚えていないのも、間違えるのも致し方ない。間違えること自体は罪ではない。取り返しのつかない致命的なミスでもなければ、挽回すれば良いことであるし、ミスを前提で仕事を振っている先達がフォローすれば良いことだ。
自分もかつては新人であった。初めから現在のように仕事をこなせていた訳ではないのだ。
「なんて思っているんだけどーっ、新人ちゃんが仕事出来ないのは、仕方がないんだけどーっ」
そう言いながら、彼女は、いつもの店のいつものカウンターに突っ伏して、断末魔のような声を絞り出した。
「新人ちゃんじゃない輩のミスには、優しくなれないーっ」
何故に、何年も何年も仕事をしている輩のフォローまで、自分がせねばならないのか。『新人育成期間につき多忙』に、更に何故仕事を増やすのか。
良い歳した輩は、自分のケツくらい自分で拭け。
据わった目付きでぶつぶつと呪詛を垂れ流す彼女の様子に、店主たる亜里沙は苦笑した。
「今日もお疲れ様なみたいだね」
「ありささん、優しい……おつまみ欲しい」
「はいはい」
この店には本来、正式なおつまみメニューというものは無いのだが、ある程度の我が儘には応じて貰える。それも気心知れた常連であるが故だった。味の好みもすっかりここの店主には知られている。
カフェと喫茶店の違いはアルコールが有るか否からしい。この店もカフェを名乗るだけあって、数種のアルコールメニューを置いていた。
がっつり呑む気分であるのなら、それを目的とした店へ行くのだが、今日はちょっとだけ、たしなみたい気分の方であったのだ。
家呑みとの最大の違いは、人に作って貰ったおつまみの存在だろう。乾きものも缶詰めも、今日のこのやさぐれた心を癒すのには足りないのである。
カチャンと、小振りのグラスと共にガラスの音を鳴らして目の前に置かれた瓶は、冷蔵庫から出したばかりであるらしく、よく冷えていた。
あまり見たことのないラベルのビールの小瓶だ。
くるりと裏を見てみれば、聞いたことのないメーカーの名前が書かれている。いわゆる大手ではない酒造のものらしい。
クラフトビールと呼ばれる分類の存在だ。
とくとくと、独特の音をたてながら、グラスに注ぐ。しゅわしゅわとした泡がグラスの中で落ち着きを見せても、このビールの黄金色には濁りがある。
透き通っていない白濁した感じが、ヴァイツェン、いわゆる白ビールの特徴だろう。小麦ビールとも言うらしいが、麦芽とかホップがビールに使われること程度は知っていても、原材料や製法に詳しい訳ではない。難しいことは知らなくとも、呑む分には関係ない。
「はい、とりあえず野菜スティック」
「わーい」
グラスの中身に魅入っていた間に、亜里沙が用意してくれていたのは、野菜をカットしただけというシンプルな一品だった。だが、この店で扱っている地力のある野菜たちは、その存在感だけで充分なご馳走だ。
ワイングラスに収められた色鮮やかな野菜たちから、人参を一本引き抜くと、マヨネーズをディップして口に運んだ。ポキンという音だけでも、新鮮さとみずみずしさが伝わってくる。そして咀嚼する間中それを再確認することとなった。
野菜を堪能することは、罪ではないが、ビールという存在には時間制限がある。
泡が消えてしまわぬうちにと、グラスに手を伸ばす。
ごくりと喉を鳴らして飲む。
人参の青臭さもほのかな甘味も、ビール特有の苦味を含む液体が押し流していく。
「ぷはっ」
仄かに抜けたのは、バナナなどの果物の香りにも似た甘い芳香だった。
日本人がビールと言って思い浮かべる透明な金色のそれは、分類で言えばピルスナーと呼ばれるものとなる。それらに比べるとだいぶまろやかな苦味を感じた。
このまろやかさもまた、ヴァイツェンの特徴だろう。
ビールの苦味が苦手だと言う人は、ヴァイツェンから試してみれば良いと思う。ただ、この独特の酵母の香りが苦手だと言う人も居るので、本当にそこは好きずきだろう。
次に手にした胡瓜はさっぱりとしていて、その次にかじったセロリは強い独特のの風味が鼻に抜ける。この店が扱う野菜は、どれも味も風味も強く濃い。栄養が詰まっている感じがする。
「はい、浅蜊の酒蒸し」
「大きいねえ」
次に亜里沙が置いたつまみは、ぱかりと口の開いた浅蜊に色味も鮮やかなあおつきが散らされた一皿だった。ウキウキと浮き立つのも仕方がない程に、どの浅蜊も大粒で、ふっくらプリプリとしていた。
貝殻を指で摘まみ上げて、口に運ぶ。
潮の香りと浅蜊の旨味がたっぷりと含まれたスープを溢さぬようにすすり込んで、その後で貝の身を頬張る。
「あふっ」
呼気と共に熱さを逃がし、身を噛み締める。歯ごたえに食感の楽しさを感じながら、更に口中に広がる旨味を堪能する。
そしてそこにビール。
そして再び熱々の貝を摘まむ。
ごくりごくりと呑んでいるうちに、気が付くと瓶の中身は空になっていた。グラスの中身も残りは半分だ。
本日は、『ちょっと』だけのつもりであった。そう。ちょっとだけ。
……『ちょっと』とは、あくまでも主観であるから、もう一本位は許容範囲であろう。
そう自分に都合良く結論付けると、彼女は、二本目はこのままヴァイツェンにするか、それとも別の銘柄にするべきかと、思考を巡らせはじめるのであった。
カフェなのに、とうとう酒の話を書いてしまいました。
ムール貝の白ビール蒸しフレンチポテト添えなんかが、クラフトビールとか海外のビール扱うお店では定番のおつまみであります。美味しいですよね。




