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フォンダンショコラ

 暦の上では春だと言われても、まだまだコートは脱げないし、マフラーも手放せないこの季節。

 彼女は、通い慣れた道を辿って、更にいつもの路地を曲がる。

「寒いよー……懐も寒いよー……」

 呟いてしまうのは、表通りの店のディスプレイを見てしまったからだろう。お菓子会社の陰謀だとしても、ここまで根付いてしまったら無視の出来ないあの行事。とはいえ、艶めいた話は自分の周囲には無くて、ひたすら義理と感謝を伝える行事と化している。

「ううぅ……何であんなに頑張るかなぁ」

 職場の円満な人間関係の為に、配布するあれも、決して甘くはない出費となってくる。どうせ貰った方は値段なんてわからないのだろうから、コンビニで適当に買って済まそうと思っていたのに、先輩にデパートの催事場に拉致られた。そこで付き合わされてしまったならば、自分だけ義理の予算を駄菓子価格にとは言い出せない。

 さらば諭吉さん、となった。痛すぎる出費である。


 しっかり海外の有名ショコラティエの限定品を、自分用に買ってしまうのは、まあ仕方の無い出費であった。

 この時期にしか、買うことが出来ないものがたくさんあるのだ。限定品は言わずもがな、通常は店舗が無く扱いの無い海外の店、地方の店もたくさん催事場には取り揃えられているのだ。買う気が無い筈だったのに、試食を勧められてしまうと、雑味の無い高級な味に引き寄せられてしまうのは仕方が無いではないか。

 デパ地下の常設店とは異なり、催事場の売り場は試食天国となっている。誰もが知る某超有名店の高級品を、半個試食で差し出された時には戦慄した。これで250円相当である。店側の気合いを感じた。


 路地の先の店の扉の取っ手を掴んで、がらんがらんと鈴の音をたてながら開ける。

「いらっしゃいませー」

 少し間延びした声は、いつもの店主のものではなかった。

「あ。あすみくんだ。お手伝い?」

「そんなとこ」

 声の主には覚えがあった。店主の亜里沙の弟の亜純だ。

 いつものカウンターの席に案内も待たずに向かうと、亜純が、お冷やを運んで来てくれた。華奢な肩からはエプロンの紐がずり落ちそうになっている。接客としては今一つの亜純の態度だが、咎める気にはならない。

 どちらかと言えば女の子のような外見の、可愛いらしい小学生のお手伝い姿と言うだけで、微笑ましい気持ちになってしまうところである。

「ご注文はー?」

「えーと……今日は、カフェラテのホットで」

「はーい」

 これが亜里沙であれば、幾つか疑問や本日のオススメという形で口を挟んで来るのであるが、亜純はあっさりと注文を受けて奥へ向かう。

 カウンターでの会話であるから、厨房内の雄大にも充分聞こえていた様だが、亜純が真面目に注文を復唱している姿も微笑ましい。


 文庫本を取り出して、文章に没頭する。隣にふわりと香りたつカップが置かれたことに、気を向けたのも一瞬で、再び文章を追う作業に戻る。

 時間が過ぎるのも忘れていたことに気づいたのは、カランカランというベルの音と共に、扉が開くのと同時に入って来た寒気が頬を掠めたからだった。

 口に運んだカップの中身も、すっかりぬるくなっていた。

「幸斗」

「あれ、どーしたの亜純」

「幸斗を待ってたんだよ。チョコくれ」

 店内に入って来た少年にも見覚えがあった。亜純が待ってましたとばかりに少年の側に寄って行く。一見すると、少女が少年にチョコレートをねだっているという姿に見え、実際には少年が少年にそれをねだっているという、なかなかにカオスな状況である。

 だが、相手の少年を知っていることで、状況の理解にも繋がった。

 幸斗と呼ばれた少年は、この店のスイーツ担当である零さんの息子さんであるのだ。同い年の少年たちは、姉の店で母親が働くという繋がりを経て、幼なじみとして親しい関係を築いているらしい。


 亜純が欲しがる『チョコレート』は、零さんの物だろう。

 推測はあっさりと幸斗という少年によって肯定された。

「ちゃんと母さんから預かってきてるけど……母さんからの義理とはいえ、僕からって変じゃない?」

「別に味はおんなじだし。お前の母さんのケーキうまいし」

 他人の会話であるが、それには同意してしまう。零さんの作るスイーツはどれも絶品です。


「にーちゃん、これ温めて」

 幸斗が渡した包みをあっさりと厨房の雄大に手渡して、亜純はカウンターの椅子によじ登る様にして座った。小学生には、ほんの少しだけカウンターの椅子は高いのだろう。

 隣に座った幸斗へとそのままお喋りを始めたところを見るに、本当に友人が来るのを待っていて、そのついでに店を手伝っていたらしい。


 ほどなくして雄大が白い皿に盛り付けたケーキを持って来た。

 コトリと置かれたそれに、つい視線を向けてしまう。

 真っ白の皿の上には、シンプルな外見の黒に近い濃い茶色の丸いケーキが載っている。側に白いクリームが添えられ、ミントのグリーンが鮮やかに映えている。

 亜純は指先でミントの葉を摘まみ、ポイと皿の隅に放った。

 それから、いささかの躊躇も無く、フォークをケーキへと突き刺した。一部をざっくりと切り分けたと同時に、中からトロリと濃厚なチョコレートが溢れてくる。

 フォンダンショコラだ。恐らくカウンターに亜純が座ったのも、温かい状態で供されるそれを、最も早く最も良い状態で味わえるのがそこであるためだ。

 ぱくりと頬張り、満足げな呻き声を放つ。

「んーっ、やっぱりお前の母さんのケーキ、うまいよなーっ」

「伝えとく」

 雄大が置いたカップを両手で持って、息を吹き掛けながら幸斗が答えている。


 そこで余計なお喋りはするな。チョコが、チョコがこぼれてしまう。


 そんなこちらの煩懊に気付くことも無く、亜純はマイペースに次の一切れをフォークに突き刺して、クリームの中に突っ込む。

 あああ。純白のクリームが、チョコとケーキでぐちょぐちょになっている。クリームの方を掬ってケーキにのせれば最後までキレイな状態で食べることが出来るのに。

 だが、間違いなく旨いには違い無い。そんな幸せそうな表情をしなくてもわかる。

 甘いチョコの香りも、温められたことで立ち上がり、漂って来ている。わかるから、美味しいことはわかるから。


 なんで他人が食べているものは、こんなに美味しそうに見えるのだろう。


 だが、駄目だ。

 今日はカフェラテにすら、砂糖を入れていない。甘味は駄目だ。


 賞味期限が長いからたくさん買っても大丈夫との免罪符で、買い込んだチョコレートを、ついつい食べ過ぎてしまった以上、今は駄目なのだ。

 開けたら一つで済む筈はなかった。気が付いたら、予定外のスピードで、空の箱が積まれていたのだ。

 恐ろしいので、体重計には乗っていない。少し落ち着いたら確認する。

 だから今は駄目なのだ。


 亜純が皿の上にこぼれたチョコレートを、舐める様にして食べていく姿に、彼女は比喩ではなく生唾を飲みながら、冷たくなったカフェラテを口に含んだのであった。

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