カオマンガイと鶏のスープ
「この夏は、なんだかタイ料理ばっかり食べてた気がする」
という話を、カウンターに行儀悪く肘をついて、店主たる亜里沙相手にしたのは前回の来店時だった。
職場の近くに、タイ屋台料理の移動販売車が来ていたのだ。日替わりのカレーやガパオ、炒めものなどをごはんにのせた飾り気もない姿だったが、わりと本格的な味わいだった為、頻繁に利用することになったのだ。
「初めはパクチーも、どうかなって思ったけど。慣れるもんだね」
「苦手な人と、大好きな人に別れる印象があるよね」
そう言って亜里沙は笑っていたのだが、本日の日替わりメニューを見た途端、そんな会話を思い出した。
「今日のスープセット、カオマンガイなんだ。なんだかスープより、そっちがメインになっちゃうねぇ」
この店の基本のメニューは『具沢山のスープのセット』だ。主役たるスープに、ちょっとしたおかずと、ごはんもしくはパンを付けたメニューである。
「カオマンガイって言えば、鶏のスープが欠かせないでしょ? パンだと、鶏肉とサラダを別皿に盛るって形になるかな」
「うーん、でも、そうなると、やっぱりごはんだよねぇ」
そう注文すれば、亜里沙は笑顔で厨房へと向かって行った。
メニューを見て得心したのは、今日の『ごはん』が香り米であることだ。悩んだカレーのセットの方も、ココナッツミルクの香りを漂わせるタイカレーであった。今度、機会があれば、そちらも食べてみたい。
「カオマンガイと似たのに、海南鶏飯ってあるじゃない?」
「そうだね」
「職場の近くの店で、『うちの店風鶏飯』って形で売ってる店があったんだけど」
「うん」
「『海南鶏飯』であって、『鶏飯』だと、全く別の料理じゃない」
「あー……そうだね」
『鶏飯』は、具材をのせたごはんの上に、鶏のスープをぶっかけるお茶漬けに近い料理である。カオマンガイとは別物だ。
「格好つけなくて良いから、わかりやすく表示して欲しい」
ただでさえ混雑するランチ時、迷う時間すら、背後に並ぶ面々からの無言の圧力がかかるのだ。無駄は極力排除して欲しいところである。
「はい、カオマンガイとスープのセット」
既に仕込みは充分に済んでいたらしく、さほど待たずに、亜里沙は注文したメニューを運んで来てくれた。
まず目を惹くのは、ドンと鎮座するぶつ切りの鶏肉だ。
その下には半円状に盛り付けられたごはんが存在している。
脇に生野菜が添えられ、パクチーもそこに置いてある。これは亜里沙の言うように、苦手な人が避けることの出来るようにという配慮だろう。
添えてあったココットには、唐辛子と刻みネギが覗くタレが入っていた。味の調節もお好みでということらしい。肉とごはんの上に様子を見ながらかけていく。
スプーンで肉とごはんを一緒にすくう。
ふわりと日本の米とは異なる香りが届くのを感じながら、そのまま口へと運ぶ。
ぱらりとした米と、柔らかく茹でられ、ほろりと崩れる鶏肉の食感。鶏肉はパサつく感触はなく、肉の中にたっぷりと水分を残している。咀嚼する度、蓄えられた肉汁とスープが口中に溢れ、香り米のぱらぱらとした感触も気にならなくなる。
タレの味もまた、ごはんに良く合う。
まずは塩気。続いて甘み、ほぼ同時に酸味。そして最後に唐辛子のピリッとした辛味を感じる複雑な味覚のタレだ。味噌に似た味をメインに調えられたそのタレは、あまり癖が強くなく、だいぶ食べやすい味になっていた。
二口目をすくう前にパクチーを上にかける。スプーンで肉をほぐすようにして混ぜ、肉とごはん、パクチーとタレをすべて一体にしてから改めて口に運ぶ。
「パクチー入ると、急にアジアンな料理っ! って感じになるなぁ」
強すぎる程インパクトのある香り。味も含めた独特の風味は、『和食』には、無い存在感だ。
カオマンガイという料理自体は、非常にシンプルだ。
茹でた鶏を、その鶏を煮たスープを用いて炊いたごはんと共に、タレをかけて食する料理だ。
タレの味付けには、各店の個性があるように思えるが、味噌ベースであったり、醤油ベースであったりと、日本人にも馴染み深い味のものが多い。本場ならば別ものかもしれないが、少なくとも日本人向けにカフェなどで供されているものは、そんなところだろう。
それが、パクチーひとつでがらりと印象が変わる。
辛さの具合も大丈夫だったので、少々タレを足した。臭いとも表現されるパクチーを、たっぷり混ぜこんだごはんを頬張る。
そこで改めてスープに視線を移す。
澄んだ色のスープだ。
カオマンガイのごはんを炊くのにも使われている、鶏のだしがしっかりと出ているスープを基本にして、この店のメニューらしく、たっぷりの野菜が沈んでいる。
ごはんの方のボリュームがある分、普段のメニューに比べれば少々具材はシンプルに抑えられている。淡色野菜の細切りが、目にもどこか優しい。
スープを一口。見た目通りの優しい味だ。味付けも、香辛料も控えめにされている。具材の大根や水菜、葱といった野菜も、それぞれの存在をアピールしてはいるが、先ほどのパクチーのような激しい自己主張はない。
「スープにパクチー入れても良いかもなぁ」
呟きながら、再びカオマンガイへと戻る。
合間に生野菜を箸休めとしてつまみながら、もりもりと食していく。
分量で考えれば、がっつりした肉主体のメニューなのだが、茹でた鶏肉に酸味のあるタレという組み合わせで、非常にさっぱりと食べることができる。
この夏、本当にお世話になったメニューだった。
「ごちそうさまでした」
ぱちんと手を合わせて完食の報告をする。
視線を常に、見頃の花で楽しませてくれる中庭へと移せば、萩の小さな花を見つけることができた。
秋の七草のひとつだ。
「そういえば、もう秋刀魚も出てたなぁ」
呟いて思い浮かべるのは、実りの季節の旬の味覚だった。
もう、夏も終わりのようである。
我ながら本当に不定期投稿だと思っております。




