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二段重ねのホットケーキ

 今夏の酷暑が、少し鳴りを潜めた最近の気温にほっとしながら、いつもの如く路地の中を曲がってたどり着いたいつものカフェ。

 ドアをいささか荒っぽい動作で引き開けると、ドアに付いた大振りの鈴が、可愛げのないがらんがらんという大きな音をたてた。

「いらっしゃい」

 店主夫婦の挨拶を受けて、案内も待たずにカウンター席に座る。

 こんな遠慮も不要な気安さが、『いつもの店』の有り難さだ。


 差し出された冷たい水を口中に含み、自分で思っていた以上に喉が渇いていたことを自覚する。暑さが和らいだとはいえ、夏場を甘く見てはいけない。熱中症などになっては目も当てられない。

 そんなことを考えながら、『本日のメニュー』が書かれたメニューボードに視線を向ける。

「あ」

 珍しいメニューを見つけた。とはいっても、喫茶店などでは定番のメニューだ。あくまでこの店では珍しいという意味だ。


「ありささんーっ、今日ホットケーキあるんだー?」

 基本的にこの店のデザートメニューは、担当の零さんがあらかじめ用意している作りおきのメニューだ。スコーンなどを温め直すということはあっても、調理を必要とするメニューは珍しい。


「お野菜入れてくれてるひと、知ってるでしょ?」

「うん、赤い髪のおにーさんだよね」

「ちょっと美味しい蜂蜜が手に入ったからって、持って来てくれたの。零さんが、それならホットケーキも良いねって、仕込みしてくれたんだ。だから、メイプルシロップじゃなくて、蜂蜜のホットケーキになるよ」

  成程。あのおにーさんのお墨付きの蜂蜜ならば、美味しくない筈がない。

「なら、今日はホットケーキ。ホットのダージリンで宜しく」


 紅茶の用意をしている店主相手に、会話を楽しむべく話題を口にする。

「蜂蜜も、専門店とか行くと面白いよね」

 カウンターの反対側には、珈琲の『いつものお兄さん』がいるが、本を読み耽る彼は、特に周囲の雑談に眉をひそめることはしない。遠慮をする必要もなくて有難い。


 ソファー席を陣取る『いつものお爺ちゃん』の姿が無いなあと、思っていたが、雄大がお盆に載せたごはんの軽食セットをテラス席に運んで行ったことで、その存在に気が付いた。

 そちらの方を良く見れば、二本足で立ち上がった茶色の獣が雄大を迎えるようにガラス戸を開けている。

 何あれあの子、(かし)こ可愛い。

「そうだね……色々種類もあるし……って、どうしたの?」

「いや、あの子、何? 犬? この店ペット禁止なんだっけ?」

 じっとテラス席を凝視する姿に、不思議そうにした亜里沙に、視線を留めた(モフモフ)の存在を尋ねれば、彼女は答えを持っていた。

「禁止ってことにも、していなかったんだけどね……なにぶん、今まで、ペット同伴で、ここに来たお客さんっていなかったから」

 確かに、常連が主に席を占めるこの店だ。あまりに奥まったところにあることだし、ペットの散歩ついでに入店する一見さんなんてものは皆無だろう。

「犬じゃなくて、タヌキだって。今日は何だかついて来ちゃったって言ってたよ。どうしようかって思ったけど、テラス席なら良いかなって、そっちに行って貰ったの」

「タヌキ? あんなに慣れるものなんだ」

「凄く良い子なんだって言ってたよ」


 あんなのを見たら、ペットを飼うのも良いな、などと思ってしまう。独り暮らしがペットの世話と維持費なんて現実的な課題点を考えれば、諦めてしまう一過性の希望ではある。


「はい、お待たせ。ダージリンとホットケーキ」

 (モフモフ)が老人の前で、妙に行儀良く湯飲みの中身を飲む姿に、気持ちを癒されている間に、亜里沙が注文した品を運んで来た。

 真っ白な丸皿の上に、やや小振りなきつね色のシンプルなホットケーキ。それが二枚重ねられている。

 ほのかに黄色味がかかった白いバターは小さなココットに添えられ、蜂蜜がガラス製のピッチャーで黄金色に煌めいていた。

「自分で焼くと、なかなかうまくいかないんだよねー」

「そう?」

「焦っちゃいけないってわかってても、火が強かったり、逆にとろ火にし過ぎて、初めに焼いたのすっかり冷めたり」

「あー……そうかもね。ホットプレートだと失敗ないって言われても、わざわざ出さないだろうからね」

 温かいうちにと、バターを掬い、ホットケーキの上にのせる。

 直ぐに熱気でとろりとやわらかく溶けたそれは、ケーキの表面を流れ、塩気を帯びた風味を香らせた。


 共に運ばれて来た紅茶は、定番中の定番たるダージリンだ。

 茶漉しの上から注いだ茶は、白い磁器の中で澄んだ茶色の水色(すいしょく)をしている。

「セカンドフラッシュだよね?」

「そう、今年の夏摘み」

 ダージリンは、ストレートの方が、より香りたかい風味と共に味わうことの出来る紅茶だと思う。アッサムなどほど渋みもなく、すっきりとした味わいだからなおのことだ。


「こないだ先輩が、英国旅行に行ったんだけど」

「へえ」

「紅茶に全く興味ない人なのにさ、帰った途端に、知ったかぶってくる訳よ」

「あー……」

 亜里沙も、そういうタイプの人間に覚えがあるのか、微妙な笑顔になった。

「やっぱり本場の紅茶は違うよぉ、とか。本格的な淹れ方はこうなんだって、とか。向こうではミルクティが定番なんだって、とか。……知っとるっての! そんなん紅茶好きには、基本だっての! お前より、絶対こっちの方が詳しいんだから、語ってくんなっての! お前、旅行前、こっちが『本場で、紅茶教室って良いですね』とか言っても、『えー? 紅茶ってあんまり好きじゃないからぁ』とか言ってただろうが!」

「とりあえず、職場の人間関係も大変なんだねってことは、わかったよ」

「やっぱり紅茶っていったらダージリンだよねぇって言われてさ。その流れで、セカンドフラッシュなら兎も角、ファーストフラッシュには、あんまりミルク合わないと思いますけどって話ししたら、なにそれって顔して、話逸らされた。お前、さっき、紅茶といえば、ミルクティとか言ってただろうがっ」

「紅茶知らない人には、ダージリンはダージリンなんだろうね」

「知らないなら、知らないで良いんだけど。如何にもな顔で語ってくるのがウザい」


 セカンドフラッシュと呼ばれる夏摘みの茶は、ミルクにも負けない強さがあるが、ファーストフラッシュと呼ばれる春摘みのものは、緑茶に似た爽やかな風味を持つものが多い。好みの問題といえばそれまでだが、淡く優しい水色(すいしょく)と風味のファーストフラッシュにミルクというのは、あまり良い組み合わせとは思えない。


 怒りを鎮めるように、ダージリンを一口。

 うん、美味しい。


 クールダウンしたところで、ホットケーキの上に、ピッチャーからとぷとぷと蜂蜜をかける。

 溶けたバターと蜂蜜が混ざり流れて、ケーキの中に染み込んでいく。


 フォークとナイフを手に、隅の方から切り込んでいく。

 サクリとした表面の感触を経て、ふわりとした内部に至る。

 口に運ぶ。サクサクの表面は予想通りにこうばしい。ふわふわな内部には、バターと蜂蜜がたっぷり染み込んでいて、咀嚼の度に口中に甘さと塩気を感じさせた。

 定番の味。

 定番だからこそ、食べたくなる味。


「ホットケーキもさぁ。ブーム凄かったよね」

「そうだね」

「亜里沙さんは、食べに行った?」

「ちょっと敵情視察にはね」

「私さぁ、大量の生クリームってのが苦手で。なんで、ブームの店、どこも山盛り生クリームだったんだろうね」

 パンケーキ本体には、興味があったが、生クリームの山に怖じ気づいた。半分以上残して捨てるのも、なんかいたたまれなかった。

 生クリームはたくさんあれば幸せというのは、よくわからない。何よりも、適切な量こそが、『美味しく食べる』秘訣ではないのだろーか。ほどほどが良い。


 ホットケーキ本体も、すこし少ないかな、と思わせる程度のものが良い。じっくり焼いた極厚ホットケーキです! なんてものもあるが、食べ進めるうちに飽き、後半に至るにつれ苦行と化し、最終的には、フォークで粉々に粉砕する対象となるなんてものは、ホットケーキにとっても本意ではないだろう。

 皿の上で水溜まりとなっているバターと蜂蜜が混ざったものを、ケーキの切れ端で拭って口に運ぶ。

 すこし味に変化が欲しい時は、ココットに残したバターで塩気を足した。


「蜂蜜、なんだかさっぱりしてる味だねぇ」

「美味しいでしょ? 今度零さんが、蜂蜜スイーツ特集するって言ってたから、楽しみにしててね」

 それは酷い誘惑だ。

 いずれ来る幸福な時間に思いを馳せながら、彼女は再び、大きく切ったホットケーキを口の中に放り込んだのだった。



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