『魔女』の家
家の中は、庭よりも雑然としていた。
端から七歩も歩けば壁にぶつかってしまうほどの部屋に、不釣り合いな広い作業台。その上にはさまざまな形や大きさをした壺が所狭しと置かれている。低い天井からは庭で見かけた植物が吊り下げられており、このところ急激に身長の伸びた僕は身を屈めないと髪で引っ掛けてしまいそうだ。部屋じゅうに薄いもやがかかり例の甘い匂いが満ちていて、見れば作業台の中央でランプの火にかけられた小さな鍋からもくもくと湯気が上がっているのだった。
「その辺に座って」
彼女はそう言いながら、壺のひとつから匙で粉をすくって鍋に入れた。すると湯気は更に量を増し、たちまち彼女の表情を隠してしまった。
どこに座れば良いのだろう。心許なく視線を動かすと、作業台の下に潜るようにして粗末な木の丸椅子があったので、僕はそこに腰を下ろした。
しばらく、鍋の中身が煮立つ音と彼女が匙を掻き回す音だけが静かに聴こえていた。その間も僕の心臓はひどく所在なげに脈を打っており、速く細かく刻む一拍一拍が呼吸を苦しくさせた。
「ねぇ」
不意に声を掛けられ、心音がびくりと跳ね上がった。
「何か私に用があるんでしょう?」
彼女の声が湯気越しに問う。感情の読めない平坦な声だ。しかしそこで僕はふと、自分がまだ自己紹介すらしていないことに気付いた。
「あぁ、失礼。申し遅れました、僕は隣の領地の――」
「別にそんなことは訊かないわよ。あなたがどこの誰かなんて、私には関係のないことだもの。それよりも早く用件を。そうじゃなきゃ、私にできることなのかどうかもわからない」
僕はすっかり困ってしまった。なぜここに来たのか。僕自身にもわからないのだ。答えを探して目を泳がせる。すると自分の胸元にある鮮やかな赤が視界に映り込んだ。森で摘んだ、あの野ばらだった。
僕は花を手に取り、彼女に差し出した。
「あの、これをあなたに。この森に咲いていたものです」
彼女は湯気の向こうからひょいと顔を覗かせた。そして花に目を留めて、ひとつぱちりと瞬きをした。
「え?」
「とてもきれいな赤だったので、あなたに似合うと思ったのです」
彼女は何度か僕と花とを見比べて、短く息を吐いた。
「莫迦にしないで。あなたも私の噂を聞いて、ここへ来たんでしょう?」
「……はい」
切れ長の目が僕を睨む。眉間の皺が深くなる。
――魔女の落とし子だと言って、皆彼女を畏れている。
旅人から聞いた噂。僕の好奇心を掻き立てた噂。
胸がずきりとする。
『私なんかのところにいたら、あなたもおかしな噂を立てられるわよ』
あのとき彼女の頬に落ちたまつ毛の影を思い出し、その奥の哀しそうな瞳を思い出し、そして今目の前にいる彼女と視線を合わせた。
「噂どおり、とても美しい方でした」
それがあの噂のなかで、唯一の真実だと思った。
すると彼女は拍子抜けしたように目をまるくし、二度三度瞬きをした。その表情は僕よりずっと年上のはずの彼女を、やけに幼く見せた。
僕は更に彼女に向かって野ばらを差し出す。
「受け取ってください」
「それだけ? 薬とか、呪術とか……」
「それだけです。あなたがこれを受け取ってくれるのなら、何もいりません」
「……変な人」
彼女は少し躊躇ったあと、おずおずと手を延ばした。白く細い指がとげのない部分を探してわずかに茎の上を滑り、一瞬僕の指に触れる。そのかすかな感触にどきりとして、僕はそのとき彼女がどんな顔をしていたのか見逃してしまった。
気付けば彼女の眉間には再び皺が刻まれていた。彼女は花を手にしたままひどく不機嫌そうな様子で窓際に歩いていった。壁の棚からコップを取り出し、部屋の隅に置かれた甕から直接水をすくう。そしてそこに野ばらを挿し、窓のへりに置いたのだった。
作業台のほうへ戻ってくる途中で、彼女は天井から吊り下がった暗色の植物をひと掴み手に取った。それはいかにも自然な動きだったが、彼女の白い頬には少しだけ紅みが差しているような気がした。
「少し、お仕事を見ていてもいいですか?」
「……どうぞお好きに。面白いことなんて何もないわよ」
彼女は僕と目を合わせず、平坦な調子でそう言った。
「ありがとうございます!」
彼女が許可をくれた。たったそれだけのことだったが、思いのほか弾んだ声が出た。
僕の反応とは逆に、彼女の様子は静謐そのものだ。僕はまた、少し恥ずかしくなった。
彼女が先ほどの植物を揉み砕いて鍋の中に入れると、もわりと大きな湯気が上がった。その瞬間、むせ返るほどだった不思議な甘い匂いは落ち着き、やわらかな、ハーブのような香りに変わる。だからそこで僕は何だかほっとして、日が暮れるころまで彼女の作業を眺めていたのだった。




