噂話
翌日、僕はまた同じ白い道を辿って、同じ暗い森に来ていた。
今日は来訪者はないらしく、彼女の家は一層ひっそりとしている。不在かもしれないと思ったが、僕は息を整えて扉をノックした。
昨日と同じくらいの間のあと、扉は開かれた。漏れ出した甘い匂いが、僕の鼻腔をかすめていく。
顔を出した彼女は、僕の姿を認めるとごくわずかに眉をひそめた。
「……またあなた。私は未来なんて読めないわよ」
彼女が扉を閉めようとしたので、僕は慌てて口を開いた。
「待ってください。どうも僕は昨日、あなたに失礼を働いてしまったようなので……お詫びに来たのです」
すると彼女は眉間の皺を深くし、首を傾げた。
「言っている意味がよくわからない。うちはただの薬屋よ。いったい何の用なの?」
そう問われて、僕は途方に暮れてしまった。そもそもここを訪れようと思った動機など、今この状況で彼女に言えるはずもない。
僕が黙っていると、彼女は肩をすくめた。
「用がないのなら、帰ってちょうだい。生憎そんなに暇じゃないのよ。それに……」
彼女は僕から視線を外し、まつ毛を伏せて言った。
「……私なんかのところにいたら、あなたもおかしな噂を立てられるわよ」
ぱたんと乾いた音を立てて、扉ば閉ざされてしまった。辺りは再び静寂に包まれる。ただ彼女が最後に発した言葉だけが、置き去りにされたかのようにぽかんと漂っていた。
◇
ある一人の旅人が僕の屋敷を訪れたのは、少し前のことだった。
時勢のせいかこのところ来訪者も少なく、屋敷はどこか陰鬱とした雰囲気だった。何かしら良くない噂が切れ切れに聞こえてくるだけで、確かなことは何もわからない。それゆえ近隣諸国を見聞して回っているという彼を、いち領主である我が父上は喜んでもてなしたのだった。
僕は父上の隣で、彼の話を聞くともなしに聞いていた。
隣の領地では正体のわからぬ病によって死人が出始めていること、貢納の減少を危惧した領主が取り立てを厳しくしていること、近々領地の拡大も視野に入れているらしいこと。
そのどれもが重要かつ暗い話題で、ことごとく僕の気分を重くさせた。もっと豊かな時代であれば手にできたであろう力や娯楽を、僕は享受できそうもない。憂うべきことは他にあるとわかってはいたが、そう思わずにはいられなかったのだ。
だからこそ旅人が最後にぽつりとこぼしたその噂話は、僕の好奇心を堪らなく掻き立てた。
「隣の領地の領土線沿いに、腕のいい薬師が住んでいるらしい。それは妙齢の美しい女だが変わり者で――なんでも未来をぴたりと言い当てるのだとか。魔女の落とし子だと言って、皆彼女を畏れている」
◇
二度目に彼女から拒絶されたその夜、僕はベッドに潜りながら眠れぬ時間を過ごしていた。どんなにかたく目を閉じ、幾度となく寝返りを打っても、夢への誘いはなかなか訪れてくれない。
彼女の声が、ずっと耳の中で反響していた。
『私なんかのところにいたら、あなたもおかしな噂を立てられるわよ』
――魔女の落とし子だと言って、皆彼女を畏れている。
最初の日に、彼女の家の前ですれ違った婦人の様子を思い出す。恐らく彼女を訪ねる多くの者が、あのような様子なのだろう。
一方で僕の瞼の裏には、くっきりと焼き付いた光景があった。
闇の中に浮かび上がる、彼女の白い横顔。頬に落ちたまつ毛の影。その奥に揺れる、漆黒の瞳。
はたして、あんなに哀しそうな目をする魔女がいるだろうか。
思い出すたび、激しく心が掻き乱される。
何か明確な目的があった訳ではない。僕の未来に何が起こるのか彼女に視てもらえたら、面白いかもしれない。そんな軽い気持ちだった。あんな顔をさせてしまうとは、思ってもみなかったのだ。
こんなにも心を揺さぶる感情の正体を、僕はまだ知らなかった。ただ僕はひたすらに自らを恥じた。噂話に踊らされて不用意に彼女を訪ねた自分の愚かさを、恥じた。