野ばらの君
彼が現れたのは、そんな鬱々とした日々のさなかだった。
明るく輝く金の髪にばら色の頬、人を疑ったこともないような澄んだ空色の瞳。まだ少年と言ってもいいほどの、美しい若者。仕立ての良い絹の上着の袖に刺繍された紋章は、ひと目見ただけで隣の領主の家のものだとわかった。
例えどんな身分の人物だろうと同じだ。今まで誰も、私を救ってはくれなかった。
だから言った。「あなたがどこの誰かなんて、私には関係のないことだもの」と。
しかし世間知らずの、深窓のご子息然とした彼は、一輪の見事な野ばらを私に差し出しこんなことを言ったのだ。
「とてもきれいな赤だったので、あなたに似合うと思ったのです」
初めは何かしらの裏があるのではないかと疑っていたのだが、彼はただ一輪ずつのばらを私に届け、お茶を飲み、私の作業を見ているだけだった。
何が楽しいのか、よくわからなかった。しかし彼の表情はいつも興味深げに活き活きとしていた。つまらない私の仕事も、少しだけ誇らしく思えるほどに。
それどころか、彼は私と目が合うと嬉しそうに微笑んだ。そしてどこか気恥ずかしそうに、頬を染めた。
それこそよくわからないことだった。彼はどう見ても私より十ほど年若く、地位も財産もあるはずだ。彼と比べると私は際立ってみすぼらしく、暗くてさもしい生活を送っている。「魔女」と罵られ疎まれる、惨めな女。誰もこのような人生を、歩みたくはないだろう。
彼といることで、忘れかけていた劣等感を嫌でも思い出した。まるで明るい太陽の光が作り出す濃い影のように。
しかしその一方で、彼が来ることを心のどこかで楽しみにしている自分にも気付いた。
彼のまとうゆったりとした穏やかな空気は、私の胸をじんわりとあたためた。独りきりではほの暗かった部屋も、彼がいるだけでふわりと色付くような気がした。窓から差し込む光はやさしく、明日も世界に同じ光が満ちることを望んだ。
今まで感じたことのない気持ちだった。彼に対するこの感情を、なんと呼ぶのかわからなかった。
『あなたに似合うと思ったのです』
彼が訪れるたび、窓際に一輪ずつ増えていく野ばら。
おかしな話だ。
なぜならその花は私などではなく、彼にこそよく似合うのだから。
だが、私が本当に未来を視られるのだと、彼に知れてしまったら――。
やはり他の人々と同じように気味悪く思うだろうか。
それとも、私を好奇の目で見るだろうか。
そのどちらも、耐え難いことのように思えた。
私もまた、弱い人間の一人だったのだ。
あの嵐の日――あれはまさしく大嵐だった――、私は久々に村人から罵りを受けた。
これまでの人生で、何度も遭遇したようなことだった。それなりに傷付いたが、心のどこかでは「やはりそうなのだ」と思った。
しかしそのこと自体よりも、彼にそのような場面を見られてしまったということが私にとっては問題だった。
きっと彼は私のことを憐れに思っただろう。とんでもなく惨めな女だと思っただろう。そう考えたら堪らなくなった。気付けば私は、目を合わすことすらせずに彼を追い出していた。
しかし彼が出て行ったあと、今度は波のような後悔が押し寄せてきた。
彼は私のために、怒ってくれたのに。
私は「魔女」なんかじゃないと、言ってくれたのに。
どうしてあんな態度をとってしまったのだろう。もうここへは来ないかも知れない。
床に落ちた野ばらが、水に浸ってしおれていた。きりきりと胸が痛む。
もし彼が再び訪ねてくることがあるのなら、今度こそきちんと目を合わせて、謝らなければならない。
窓辺に花を飾り、お茶を淹れ――今までどおりに戻ることができるだろうか。
いっぱいの不安とほんの少しの期待を抱えながら、私は寝床に潜り込んだ。
しかしその夜、「視えて」しまったのだ。
そこでようやく悟った。彼はもう、ここへ来てはいけないのだと。




