2-19
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幸音が追う対象は18歳くらいの少年だった。目深くキャップを被り顔を隠している上、幸音に背を向けながら全力疾走しているため、顔立ちは確認できない。背丈も脚力も幸音の及ぶところではない。
「くそっ」
入り口で倒れていた悠馬はおそらく由貴が回収してくれているはず。三月もそろそろ連絡を終え、二階から降りてきているだろうし、何より石崎も到着するはずだ。
だとするならば自分がすべきことは唯一つ。
「逃がすか!!」
幸音は必死で手を伸ばすが指先三寸で空を切る。風に翻る黒いジャンバーの裾をも掴めず、幸音は己の不甲斐なさに思い切り眉間に皺を寄せた。
肌を切る初冬の風が鋼の切っ先が如く頬を打つ。駆け続けた為、喉や肺が空気を求めて悲鳴を上げていた。心音が痛いくらい拍動し、幸音は頭の隅で「ああ、明日は筋肉痛だろうな」と呟いた。
「いい加減に、しろ!」
幸音の怒号が空気を震撼させた。
青年の光を反射する黄色い靴が石を引っ掛けてまろび転げる。
―――その隙を幸音は見逃さない。
「こなくそっ!」
「くっ」
倒れかかった男の体が前のめりに体勢を崩す。幸音は必死になって両手を伸ばし、ジャンバーの薄いポリエステルの表面を思い切り握りこんだ。布が裂けて綿が飛び出し、爪と肉の合間に細い丈夫な糸が入り込む。摩擦が生じてぷつ、と肉が切れた。
幸音は構わず押しつぶすように男の背中に雪崩れ込み、全体重を伸しつけてマウントをとる。
「吉村さん!!」
両膝を男の背骨の頂に乗せ、動きを静止させようと体位を変えかけた時、鋭い呼び声が幸音の耳を打つ。
一瞬力を抜いて、後方から走り来る人物に眼を向けたとき、視界が、ブレた。
正しくは、二重に。
分厚いレンズ越しに歪んだ由貴の姿が見えた。
「しょ」
しょうのくん。
らしくなく、焦燥と動揺を綯い交ぜにした表情で庄野由貴が幸音に向けて片手を伸ば―――したはずだった。
「あ・・・」
視界の先が暗転し、油を溶かしたような世界が広がる。水溜りにガソリンを零したような、異様な世界。状況を理解するより早く、幸音の体が硬くて冷たいものにぶつかった。顎先が削れたような痛みと、掌を引っかいたような熱さ。
昔、遊戯の途中で転げた時の感覚と奇妙に一致した。
「幸音さん!!」
指先を動かすたびに、針先で細かに指されたような激痛が走り、幸音は思わず声にならない悲鳴を上げた。
「幸音さんっ!」
いったいなにが自分の身に起きたのか、確認しようと瞑っていた瞼を必死で押し上げ、幸音は息を飲んだ。揺らぐ視界のブレた焦点の先、心配そうな顔で駆け寄ってきた由貴の背中に陽炎のような人影が回りこんでいる。
幸音は気付くや否や両手を伸ばして、それを引き倒していた。
「うわっ!」
白髪の毛先が宙に舞う。
すぐ後、腹部と肩口を鈍痛が襲い、幸音はたまらず大きく咳き込んだ。
「げほっ」
爪立てて引き倒したその人物の傍で焦げ臭い匂いがする。
冬ではありえぬ突然の蒸気。立ち上る陽炎。
体の下にあったはずの体温と弾力は既になく、腹部を庇って蹲った幸音の意識の向こう側で足音が響いた。
「幸・・・、吉村さん!! 吉村さん、大丈夫ですか!?」
逃げ去っていく二人分の足音。
揺り動かされながら、痛みのため幸音は返答も出来ず、石崎が慌てて到着するまでのほんのしばらく、冷たいアスファルトの上で身を丸めていた。