2-18
「くっそ・・・」
悠馬は舌打ちをしながら四肢を奮い立たせ、何とか立ち上がろうとするのだがその直前で手足から力が抜け再び地面に倒れ込んでしまう。
「倉科!」
由貴が駆け寄れば、悠馬は眉根をきつく寄せて自由に動かない片手で由貴の胸倉を硬く掴んだ。指が白ばむほど強く握りこまれ、由貴は喉が圧迫され慌てて悠馬の両手を引き離そうとする。
しかし予想外に強い悠馬の握力は由貴が敵うところではなかった。
僅かに出来た布と皮膚の間を走ったことによって生じた冷たい汗が流れ落ちる。
悠馬は歪めた表情で声を発した。
「庄野、さん・・・・幸音さん、を」
呼吸が苦しいのか悠馬はゼエゼエと息をついている。先ほどまで軽口が叩けるほど元気だったのに、この変わりようは異様だと由貴は彼に視線を走らせた。すると奇妙な違和感を悠馬の片手から感じる。
彼の手の甲に薄紫色の刻印が焼きついていた。
「これは・・・」
蜘蛛の糸のように張られた六角形の幾何学模様。
大学の授業で習った魔術刻印に間違いない。
「さち、ねさん、に。伝ご・・・。標的は――――る」
蚊の鳴く声で囁かれた聞きづらい単語の一部を唇の動きで読み取って、由貴は息を呑む。
状況を察した由貴に悠馬は察したようにゆるく微笑んだ。
それから、由貴の胸倉から手をはずし再び冷たい地面に沈没する。
魔術のせいで体が言うことを聞かないのだろう。
由貴は刻印によって生じた術式が、筋肉や神経組織を一時的に麻痺させる弛緩系の魔術であることを理解した。これは「魔導師ライセンス」A以上の資格がなければ知識を持っていても使用を法律上で禁止されている系統の魔術だ。
禍々しい刻印を認め、由貴は歯噛みした。自分が所持するライセンスでは、解呪が出来ない。人体に直接影響する魔術の解呪は「命に直接関わらない限り」該当ライセンス取得者でなければ許されない。
「おっと、うっかりミスだね倉科くん。大丈夫かい? 君が失態を犯すなんて珍しいこともあるもんだ」
「―――え?」
気配がなかった。
由貴が瞠目する傍らで誰かが屈みこむ気配がする。
萎びた。けれども光沢のあるワカメだ。
「お仕事ご苦労様、庄野くん。君は無事みたいだね」
伸び放題ねじり放題の黒髪の下から三月の二重の双眸が眇められた。
「みつ、きさ」
「おやおや。喋る元気はないはずだろう? 黙って大人しくしているといい」
神経が痛むのか、指先一つ動かそうとするたびに苦痛が走るようだった。
副店長、西山三月は由貴の脇に座り込むとうつ伏せになっていた悠馬を仰向けに転がし、全身を観察する。ふーんとか、へーとかのんびりとした感想を洩らしつつ、自分のこけた頬のざらつく肌を指先でしきりに撫でていた。
「いやはや。これはちと面倒な・・・。ところで吉村くんの姿が見えないみたいだけど、彼女はいったいどこに行ったんだい? 倉科くんがここでこうで、庄野くんがここにこういるってことは、犯人は? もう確保して連行してしまったのかい?」
はて、タイミングが悪かったかなと三月は非常にのんびりと首を傾げた。
由貴は二度しまったと言葉を零し、すぐさま顔を上げた。視線をめぐらせると周囲には野次馬が囲いを作っている。それもそのはず、店の入り口で倒れている従業員と副店長が固まっているのだから。それに―――。
「待てっつってんでしょうが!!」
爆音雷光が如くはるか遠方から女性のものとは思えない怒号が響き渡った。
雷が地上に落下したかのような音量で、由貴は最初誰の声のものか判別できなかった。
なんだなんだと駐車場で自家用車を停車させた客達が足を止め始める。店の敷地の出入り口。二号線側でなく、近隣民家と隣接する細い道路に向かって二人の人物が壮絶な追いかけっこを繰り広げていた。
一人は体格立派なまだ若い黄色い靴を履く男。
今一人はずり落ちるエプロンを脱ぎ捨てて全速力で追いかける小柄な女性。
「神妙にお縄を頂戴しろ―――!」
吉村幸音だった。
片腕を振り回しながら悲鳴を上げて逃げる男を鬼の形相で追走している。
「・・・・なんだ、あれは」
呆気にとられる由貴の傍らで「げふっ」と今度こそ本当に悠馬が沈没する。三月は慌てた風でもなく「ややぁ、しまった」と呟き、見かけ以上に力があるらしく、悠馬を小脇に俵抱きにして立ち上がる。
「庄野くん。あとからすぐ、多分二分以内に石崎くんが来ると思うから、それまで吉村くんをよろしくね」
言うなり三月は平然として気絶した悠馬を伴い倉庫へ向けて歩き去ってしまう。
罪人座りのままぽかんと口を開けたまま様子を見守っていた由貴は、三月に言われた言葉を再度頭の中で反芻し、視線を右下から左下に移動させた。悠馬が伝えたかったこと、三月の言葉の意味。由貴はそれを正確に理解すると息を呑んで顔を上げる。
右耳に指を触れかけ、そこにないものに対して大きく歯噛みした。
「くそっ」
こうなれば、直接彼女に伝えるしかないと由貴は立ち上がった。
周囲から「おお、立ったぞ」、「なんだなんだ」と声が上がるがまったくお構いなし、外界の声をシャットダウンして由貴は幸音のいる方角へ向けて猛然と疾走し始めた。