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第一章 魔術師に明日はない
―――今時、魔術師だからってねぇ。
コチ、コチ、コチと規則正しく時計の音が鳴り響く。
音に被さるように溜め息混じりに男は言った。
光を反射する油を塗りたくった頭皮に張り付くか細い縮れ毛。
日々、大切に大切に育てているのが聞かずとも容易に想像でき、吉村幸音は失笑をこらえるのが大変だった。
己の喉がかすかに震えるのを感じつつ、彼女は神妙な面持ちで男の言葉に耳を傾ける。
十二畳ほどの鉄筋コンクリートの室内に二人の人間が向かい合っていた。
ブラインドカーテンで四つの窓全てが覆われた窓側のテーブルで両肘をついて滔々と話を続ける初老の男と、その向かいの痩せたパイプ椅子に身を縮めて座るリクルートスーツの少女である。
身じろぎするたび悲鳴を上げる油さしの悪い鉄パイプの心許なさに嘆息するセミロングの茶色の髪の少女。年のころは16歳前後に見受けられるが、実年齢は21歳。来年の3月で22歳となる成人女性だ。
ほっそりとした顔の輪郭に、少し勝気そうな吊り目の赤茶の双眸。やわらかく引き締めた桜色の唇の口角はその両端が上がっているが、かすかに引き攣っているようでもある。
「このご時勢。魔術師ライセンスなんて誰でも持ってる資格だけじゃ、就職、難しいよ。もちろんうちだけじゃなくってさ」
「はぁ」
「魔術師じゃなくて、せめて上位ライセンスの魔導師だって言うなら話は別だけどさ。ちょっと短大出たくらいじゃ、せいぜい魔術師止まりだよねぇ」
「はぁ」
侮蔑入り混じる声音で失笑されているのは幸音自身だが、本人はいまいち緊張感がなかった。実感がわかないというより、話に意識を傾ける価値を見出せないのである。
しかし、喉からこぼれ出る声にいまいち覇気がないのは、何も幸音だけではなかった。
表面が薄汚れたクリーム色の長机を挟んで対面に座す、有限会社シマムラモータースの社長もまた、同様だった。
溜め息交じりに何度も片手で耳の穴をほじくりながらぼんやりと天井を眺めている。仕方なくしぶしぶ、面接せざるを得ないという心中が嫌というほど察せられ、面接開始一分目から幸音は即効で踵を返しお暇を告げたかった。
社長の左脇に放置されている白い封筒は、入室の際幸音が社長に手渡したもので、その中には写真貼り付けの幸音の履歴書、職務経歴書、職業紹介状の三セットが丁寧に封じられたままだ。
手渡した直後、机に放り投げられたとき、よくぞ自分は怒鳴り散らさなかったものだと幸音は自分の性格を知るがゆえに拍手喝采を自分に贈りたかった。
社長はもとより採用する気がないのは火を見るよりも明らかで、幸音としても「御免蒙る」気満々である。
いったいどういう気まぐれ心を取り出して幸音の面接をする気になったのか、開始から約体内時計で一時間が経過する今でもなお、幸音は男の真意を図りかねていた。
「短大とはいえ、その他におたく、何の特殊技能もないんでしょ? うちはね、この私が一代で築き上げた会社なのよ。そりゃもう、会社設立に当たっては聞くも涙、語るも涙の苦労話があってねぇ」
よろけたダークスーツに黄ばみかけたシャツ、空色と濃紺の縞々のネクタイを弄りながら得意げに話し出そうとする禿オヤジのどろりとした鯰臭い顔から視線を外し、幸音は埃かぶったブラインドカーテンの横、柱の丈夫に打ち付けられた時計を見つめる。金の縁取りの古びた時計の針は午後三時半。
部屋に入室したときの時間も確か、三時半。
「・・・」
「うちの会社が創立五年目で倒産しかけたとき、俺は反対する従業員に言ってやったんだよ。モータースを名乗るくらいなら、工具も工場も一流じゃないといけないってね」
社長の語る自慢話を右から左に聞き流しながら、幸音はまじまじと時計の長針、秒針を見つめた。丁度文字盤の「2」と「3」の中間で死に掛けの魚が如く、びく、びくと針が振動している。
―――間違いない。
あの時計は時を刻むことを拒否していた。
「スナップオンという工具メーカーを君は知っているかね」
なんということだ。
事実を知るなり幸音は凍りついた。
一時間経過したということは、現在の時間はおよそ四時半。最悪、五時に近い。
一張羅のリクルートスーツを着込む背中に伝う脂汗。背もたれと接し生暖かいはずなのに、氷が滑ったように冷たく感じる背中。幸音は心底肝が冷えた。高校二年生から短大在学中、そして現在に至るまで何とかご縁のある仕事先に、一度たりとも遅刻欠席したことのない幸音に有るまじき大失態。
無連絡での遅刻。
その結末が生じさせるものは、幸音のスーパーでの権力の失墜と信用の完全放棄を意味する。
マズイ。マズイ。マズイ。
―――それだけはなんとしても避けねばならない。
たとえ、この受かるはずもない面接で礼を失することになったとしても。
決意は固まった。幸音の人生にとってこの男の話が今後、どのような影響力や価値をもたらすのかはもはや問題ではない。
現在、目の前に降りかかり解決すべき問題はただひとつ。
可及的速やかにこの場を脱出し、仕事先に全速力で駆けつけるだけである。
「君。さっきからずっと黙って、ちゃんと聞いているのかね」
尖った声に幸音はすぐさま顔を上げた。
真直ぐ相手を見据えると、くりっとした男の丸びた瞳にうっすら苛立ちが浮かんでいるのが見て取れる。
しかし、彼以上に苛立ちをこれまで我慢し続け、心に溜め込んでいたのは他でもない、吉村幸音である。
幸音はだらけていた姿勢を正し、唇を引き結んだ。
艶やかな髪の毛をかすかに揺らし、極上の笑顔で微笑み―――。
「君」
男の言葉を先んじて静止、幸音は毅然と声を放った。
「仕事の時間がありますので、申し訳ございませんが、ここで失礼させていただきます」
椅子から立ち上がり、姿勢を正して一礼する。
頭を下げながら、幸音はぐと目を瞑った。
結果はどうせわかりきってる。
あとはもう、知ったことか。
面接する気がないなら、わざわざ最初からしようと思うな。
「貴重なお時間、ありがとうございました。―――失礼いたします」
笑顔の裏に尖った針をも沈める毒々しい沼を含ませた言葉を胸中で大声で叫びつつ、幸音はあっけに取られる男をまるきり無視して、自主退出に成功した。