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幸音の自宅は、スーパーニコニコから十分程度の距離にある赤い屋根の一軒家だ。役所の近くに居を構え消防署からも近い。純和風の敷地を誇る隣の家と、大正時代の西洋風の洋館との間にすっぽり収まっている現代風の普通の家だ。
結局、正気に戻った陽子たちと水浸しになった事務室を片付け、閉店準備を終了させ帰宅すると時計は十時半を回っていた。
玄関口に電気がついており、リビング付近から笑い声が聞こえるところを察するに家の住人はまだ起きているようだ。元々夜行性の幸音の家族達ときたら、最近は夜中の十二時に寝る日が多くなってきている。
仕事で既にくたくたで、面接の失敗で精神を疲弊させた幸音はよろけた足取りで玄関のたたきを上がった。靴を脱いで靴箱に収め、陽子手作りニットの鞄を二階へ上がる階段にそっと横たえる。眩暈に似た疲労感がどっと押し寄せ、幸音は眉根を指でつまみながら頼りない足取りでリビングへ至る通路を渡った。
「ただいまー」
扉を開けてリビングに会する面々に挨拶をすると、丁度夕食を食べている一人の少女が箸持つ片手を挙げた。
「お帰りなさい、幸音さん」
「恵美ちゃん、ただいまー」
ショートボブのりんごほっぺをした大人っぽい顔立ちの少女が微笑んで幸音を迎えた。その背後にコタツに潜って蜜柑を食べる母親と、同じくコタツに入って居眠りをしている父親の姿、そして。
「さっちゃん、おかえり」
紙袋が会釈をする。
「ただいま、透くん」
紙袋には目と口がついていた。正確には、その部分だけ人工的にくり貫かれ、本来あるべきはずの唇や瞳などは存在しない。ただ、紙袋の内部構造が外から割合詳細に観察できる。
ハロウィンのジャック・オ・ランタンに及ぶべくもない、ただの紙袋である。
紙袋をかぶった誰かはハートマークがいかがわしい厚手のニットの上着と、空色のワイシャツを着ている。ダメージジーンズは細身で、中にみっちり肉が詰まっている風でもなく適度に皺と空間が広がっていた。胴回りにしがみ付いているのはレースのついた白い前掛け風エプロンで、割烹着が一番好きな透にしては珍しいチョイスだと幸音は考える。
彼の白い靴下の下に影はなく、紙袋を被る何者かは白い手袋を嵌めた手で器用に柿を剥いていた。
「どうしたの、その柿?」
橙色の艶やかな果実から丁寧に種を取り除く紙袋、四辻透に幸音はダイニングの椅子を引き寄せながら尋ねた。
「あ、あのねぇ幸音さん、ほれ、あたひが」
「ほらほら恵美子ちゃん、食べながら喋らない。行儀が悪いよ」
ナイフの先端を恵美子に向けながら透が嗜める。
「透くん、ナイフナイフ」
「おっと、これは失敬」
透は一度ナイフをまな板の上に置いた。
それから淀みなく剥き終わった柿を食卓に並べながら台所へ移動する。
「さっちゃん、今日は遅かったね。仕事大変だったの?」
透はガスレンジの火をつけた後、幸音専用のお椀を戸棚から取り出した。電子ポットのスイッチを入れてお湯を再沸騰させ、急須の茶葉を捨てて新しいのを缶からひと匙半入れる。
「透くん、お風呂まだタイマー鳴ってないかしら?」
蜜柑を食べ終え、お茶を啜った母親、悦子がリビングに立つ透に声をかける。
「あ、お母さんさっき入りましたよ。どうぞ、お入り下さい」
「わかった。ありがとう、透くん。最近、年のせいか聞いたことすぐに忘れちゃって」
ほほほ、と口に手を当てて笑い「よっこらしょ」とコタツから起き上がった母悦子が、傍らで熟睡していた夫、光郎を揺り動かす。
「ほら、お父さん。こんなところで寝てたら風邪引くわよ」
「ん、ああ」
うっすらと目を開けた穴熊のような父親が深く頷いてあごひげを撫でた。
「恵美子ちゃん、悪いんだけど、明日隣の八重子おばさんに夕方、棚の中の大家饅頭持ってってくれる? 柿のお礼に」
「あ、はい、おば様。了解しましたー」
箸を卓上において、敬礼をする恵美子に悦子は満足げに微笑み、最後に実の娘幸音に声をかけた。
「あ、そうそう幸音」
「はい?」
「戸締りと火のもとだけはヨロシクね」
「・・・・はい」
実の娘と交わす会話は本日これにて終了。
悦子は夫を再び揺り動かし浴室へと向かうべくリビングを出て行った。父親も大きな体を動かし、のっしのっしと去っていく。静かに扉が閉められ、テレビのバラエティ番組の司会の男が腹を抱えて笑う声が部屋中に木霊した。
「ご馳走様でした」
「お粗末さまでした」
両手を合わせて食事を終え、食器を片付け始めた恵美子をぼんやりと眺めやりながら幸音は机の上に顔をぺたりと貼り付けた。
はぁ。疲れた。
心のオアシスが欲しい。