桐下心中 「花の散るらむ」
遠く蝦夷の地に落ち延び抵抗を続けていた旧幕府軍がついに降伏したという話が江戸に伝わった。
初夏の淡い香が鼻をくすぐる水無月のことだった。
戦火を逃れた江戸の町民たちはその一報を各々感慨深げに受け入れていたという。
一方では体制の変化を求つつも、その当然の帰結である古き良き時代の終焉を目の当たりにして物悲しく思うのも勝手な心境ながら当然のことではあった。
とは云え、べらんめェの舌は感傷に浸る合間もよくよく働くものである。
黒船の来航以来、政局議論は江戸町民にとって三度の飯より当り前のものになりつつあった。
徳川の次に天守閣へ上がる者は長州、薩摩のどちらか。
異邦人の毛深い手から、新政府は如何にして日本を守るのか。
又、新政府に仇なした者達への処分はどうなるのかと言ったのもいた。
だが藤村貴衛門はこうした話へは滅多に加わろうとしなかった。
彼の場合、世間への拒絶は無知より来る孤立では無い。
貴衛門も生粋の江戸っ子ではあるのだが豪商の家の長男に生まれた訳もあり、何気ない仕草の所どころに公家じみた気品がある。
しかしそれでいてこの男の性格が温厚であると云う訳では無く、むしろ江戸町民らしく短気な方の人間であると云っても良かった。
ただ特異であったのは、趣味に熱しやすく冷めやすい、性格の根底にやや厭世のきらいがあることだった。そしてこの時代の人間にしては珍しく、何にでも誰にでも平等に冷徹で無関心な若者だった。
行きつけの湯屋で憂国の議論を吹っ掛けられた時には、湯船に浸からないまま早々と帰ってしまうこともあったそうだ。
「國の政治に凡人があれこれ頭を悩ました所で、腹がむしゃくしゃするだけだ」
貴衛門は一度だけ女中にそう洩らしたことがある。
「まあ、情けない。たとい金貸しの商の若旦那様でも、國を守らんとす大和魂はありましょう」
そのとき女中は見下したような口調でこんな風に貴衛門をなじった。
「馬鹿な。國を守るのと政治を語るのでは全く違うのだよ」
だが貴衛門も貴衛門で、その女中を見下したような言い方をする。
その女中は「はあ、そうですか」と引き下がればいいものを、無邪気に喰ってかかる。
「政治を語らねば何を以て國に奉ずるかさえ分からなくて御座りましょ」
彼女は気に食わぬ所があり興奮すると、つい口調が元に戻ってしまう時があった。
女中は名をお凛と言った。
お凛の一族は徳川に代々使える幕臣の名家であった。
が、しかし一族の男たちは時代の狭間で兇刃に倒れ、終には頼みの幕府も無くなってしまった。
後に家財は新政府に没収され使用人たちは尽く家を去っていった。
お凛は最後まで残った親切な年長の女中の手引きによって、懇意であった藤村の家に女中として預けられたのだった。
来てから数日間、お凛は藤村家で特別にあてがわれた小部屋に籠りさめざめと泣き明かしていたようだった。
「泣き明かしていたようだった」というのは、その姿を家人の誰一人として見ていない故の表現である。
それ以降も彼女が涙を流しているのを見た者はいない。
お凛の母は夫の死体が焼かれる前にその後を追い、小刀で喉を突き死んだ。
[死を選ぶと云う事は、生きていく決断をしたのと同じことです。忠幸、小太郎、お凛。世は諸行無常、盛者必衰。物事は移ろい逝くものなのです。それでもあなた達は一つの『生きた』ために御生きなさい。生き続けるということはさういうことです]
彼女の母親はこのように続く遺書を死の直前にしたためていた。
平生、この上なく我が子を可愛がっていた母親が最後の最後に言ったのは厳しい武家の誇りであった。
お凛の兄である忠幸、小太郎がこれをどう受け取りどのような末路を辿ったのかは前述の通りである。
維新を「実質的に」生き延びたのはお凛だけであった。
彼女の傷心は計り知れない。
貴衛門とお凛は共に十六であった。彼らは五つの時からの馴染である。
そうなった経緯はこの話に直接関係のある事柄では無い故に、ただ其々の家の事情の付き合いであったという説明だけで過不足ない。
それよりもっと重要な事柄があるからだ。
と云うのは彼らの「内側」の関係性である。
幼少の日々を、彼らが恋心無しに過ごしたと云うとそれは嘘になる。
と同時に彼らは互いを蔑み合っていた。
束縛を嫌う青年と誇りを守る少女。
違うからこそ恋慕い、恋慕うからこそ違い合う、もどかしくも甘ったるい幼い支配欲の現れであったと云えば、それまでであるが。
彼らの理念と感情のせめぎ合いに答えは出ない。
出ていないからこそ二人は未だ微妙な関係を持ち続けているのである。
お凛は手を汚す仕事を嫌って、女中としての仕事を疎かにしがちだった。
「お凛、お前さんは結局どうしたいんだね」貴衛門の父、喜久蔵はお凛にそう訊いた。
咎めている訳ではないようだったが遠まわしに彼女を諌める言葉であった。
[お前はもう武家の一人娘ではないのだ]
座敷の前の庭でその様子を眺めていた貴衛門は小石を拾って池に投げ入れた。
お凛は喜久蔵から目を離さずにも、後ろの庭先に居る貴衛門の気配を一身に感じている様であった。
波紋の消えた池の水面に小石を餌と勘違いした朱色の鯉の幾らかが集まってきたのを貴衛門は一瞥した。
振り動かされる者の哀れなことよ、と口の中で呟いたのは果たしてお凛か貴衛門か。恐らくはその両者であろう。
お凛はその後も汚れ仕事をしなかった。
喜久蔵もやがてお凛を特別扱いしなくなった。
「兵士竹とか言う御侍様が来とります…。何でも、お偉い長州藩士の方みたいでっせ」
ある日の午後、店の若い番頭が喜久蔵と貴衛門の話している所へ走り込んできた。
喜久蔵は眉を吊り上げ、持っていた湯呑を盆の上に慌ただしく置いた。
「―兵士竹? …あ~あ、確かにおったなァ。4年前の冬に攘夷御用金と称して五十両を持って行かれたわ」
喜久蔵は苦虫を噛み潰したような顔で兵士某の事を思い出したようだった。
「また無理難題を押し付けられるかもしれませんぜ。留守だと言って、用件だけお訊きしておきましょか?」
猫背の番頭は喜久蔵の顔を窺いつつそう提案した。喜久蔵を前に一手でも言葉を選び損ねるということは、すなわち喜久蔵の心象を損ねるということに、使用人たちは重大な気苦労をもってこの老人と話さなければならなかった。
「いや、小細工はもう必要あるまい。長州は最早、日本の中枢を担っておるのだ。その兵士某が本当に長州の者なら、小金をせびるような軽率な行動はせん筈だ。」
「ですけどそれを笠に着て脅しに来られちゃ…」
喜久蔵はギロリと番頭を見据えた。
「くどい! 儂が長州の若造風情に引けを取るとでも思うとるっちゅうんかい御前さんは?」
「い、いえ滅相も無ェ。あっしはただ―」
その時、すすって茶を飲み干す長閑な音が番頭の言葉を遮った。
貴衛門はそうやって空いた湯呑をようやく漆塗りの盆に置いた。
「…どうぞ話をお続け下さい?」
そう言って立ち去る貴衛門を、流石の喜久蔵も呆れ顔で見送るのだったが、直ぐにいそいそと番頭を連れだって賓客を迎えに行った。
年過ぎて、冬―。
藤村の屋敷の広い瓦屋根には三層に積もった雪が青白く仄めいていた。
高碕屋 [明治政府御用達]
無数の足跡が残る高碕屋の軒先に掲げてあるこの文字は貴衛門が書いたものである。と皆は思っていたのだが、その実は貴衛門がお凛に頼んで書かせたものであった。
意外にもお凛があっさりとそれを承諾したのは貴衛門を落胆にも歓喜にもさせた。
お凛にとって、家族の仇とも云える新政府を相手に商売する喜久蔵など喜怒哀楽の眼中にない。
ましてや、これを書くことによって貴衛門の支配下に自分が入るなどとは微塵も思っていないのだった。
「おほほ、どうして妾がその位のことに固執しましょう? 貴衛門さまも御人が悪ゥ御座います」
「……」
貴衛門は黙って火鉢を抱き寄せた。
真新しい青い畳の上を、赤子ならすっぽりと入ってしまいそうな火鉢の底が擦る。
「……。」
「…」
「お前に比べて…。俺は生きているのだろうか」
貴衛門はそう言いそうになってから、ハッと口を閉じた。
これを口に出してしまえば、屹度お凛は貴衛門を何らかの方法で優しく包み込むに違いなかった。
それは貴衛門がお凛に屈服をするということでもあったのだ。
―お凛は彼が言わんとすることを知ってか知らずか神妙に目を伏せた。
ただし貴衛門には彼女の口角が怪しい微笑を湛えているように見えていた。
「筆と墨を取って参ります」
膝をそろえて立ち上がり、くるりと回って座敷を去る。
着物をはだけさせぬよう小幅で歩むお凛の後ろ姿は女中らしからぬ華やかさがあった。
そのせいもあってか、いつの間やら彼女が高碕屋の看板娘のようなものになっているのは貴衛門も知っていた。
彼女目当てに店先まで通う者まで現れた頃、貴衛門はお凛を店の奥へと追いやった。
当のお凛は別段、抗弁もせずにそれを受け入れた。
ただ一言、貴衛門に「勿体ある御言葉で御座いますわ」と言ったそうだ。
―話は戻って[明治政府御用達]へ。
政府が外国製の兵器調達を英国大使と繋がりのあった喜久蔵のところに依頼した。
事の発端はあの中年の長州藩士、兵士竹だった。
兵士は自分がこの店を武器取引の仲介役に推薦したと言って大仰に笑って見せた。
その内、辺りへチロチロと目ばかりが動いていたのを見ると兵士はどうやら何か「感謝の形」を求めているようだった。
喜久蔵は兵士を高級料亭へ招き、そこで金一封を渡した。
兵士の戦話の功名自慢に花が咲いて夜が白んできた頃、兵士は喜久蔵に尋ねた。
「ぬしの所に器量の良い娘が働いちょるそうな」
「ええ、左様で。生まれの良い娘であったのですが旧幕府の崩壊で…」
喜久蔵がそう言った時、兵士は酒に酔った赤ら顔に思案の色を見せた。
「一度、その娘の顔を見ておきたいのう」
「左様で御座いますか。…ではでは、兵士さまが今度うちへいらした折に、茶でも運ばせましょう」
「うむ」
「はい、なるだけ小さい茶碗を用意しましょう。すぐに茶をおかわり出来ますように」
「高碕屋、主は軍師じゃのう」
そして、秋の満月に似つかわしくない、節操のない笑い声が鈴虫の鳴く庭園に響いた。
藤村喜久蔵は男爵になった。
維新時の功績と明治政府への莫大な貢献の賜物であると云うのがその名分であった。
影で喜久蔵は兵士を介して政府に多額の資金援助をしたらしいというのがもっぱらの噂である。
齢六十を越えた喜久蔵老人に死に際の功名心が現れ始めたらしかった。
「恩は売っておいて損は無い、必ず廻り廻って自分の懐へ帰ってくるものだ。お前もこの商売を継ぐ気ならしっかり覚えておきなさい」
白髪の跳ねた薄い頭皮を撫でながら、喜久蔵老人は前に座す貴衛門に云うのだった。
この日、貴衛門は虫の居所が悪かったらしく、爪で畳をガリガリ引っ掻きながら父の話を聞かされていた。そしてついに、こう言ってしまったのだという。
「売り買い出来るたぁ、恩も随分と無味乾燥なもんですね。まるで品物だ」
喜久蔵は暫く呆けたように貴衛門を眺めていたが、ようやく血相を変えて怒鳴った。
「貴様はまだそんな事をぬかす気かッ。理屈っぽい所があったが、これほど小便臭い餓鬼のままであったとは! 見下げ果てたぞ貴衛門」
「生憎こちとら、もう随分前から父上を見下していましたよ」
「何を…! 増長したか、青二才ッ!! もう良い、二度と儂の前に顔を見せるな! 出ていけッ!」
すると貴衛門は珍しくギラギラした眼で喜久蔵を睨みつけると、体をサッと翻し部屋を出て行った。
以降、貴衛門はなんと3ヶ月行方を眩ましていた。
その間彼が何をしていたのかは知り得ないが、急死した喜久蔵の葬式のため屋敷に帰ってきた貴衛門は、どこかの女をこさえていた。
「お凛さんをワシが貰いたい」
兵士が言ったのはお凛と爵位継承の交換を提案するものだった。
「…暫し考える時間を頂けませんか」
貴衛門の言葉に兵士は少し不満げな顔をしたが、それを渋々了承した。
喜久蔵の葬式に来た兵士は喜久蔵のお悔やみも申し訳程度に、この話ばっかりは重々に言って帰っていったという。
「お凛、一寸」
「…何か知らん」
「お前はどうなんだ」
「何がです」
「知らばっくれるな、兵士殿の話だ」
「―嫌です、と言ってほしいんでしょう?」
「………私の意見じゃない、お前の意見が聞きたい」
「妾は、別段構わなくてよ」
「何が…構わんのだ」
「構いませんわ貴衛門、あなたの身分が平民でも」
「……ッ!!」
お凛は喪に合わせた黒い振袖で隠していた口元をソロリと覗かせた。
紅を塗った艶美な唇に、気高い微笑が浮いていた。
「私を愚弄するなよ、お凛! 私の妻はお松だ。お前はただの女中だぞッ!!」
貴衛門は口をわなわなと震わせてお凛に背を向け去っていった。
残ったお凛は切れの長い目を伏せ、小さな丸い肩を静かにすぼめた。
貴衛門は父、喜久蔵の爵位を継承した。桜の蕾はまだ堅く花弁を閉ざしている。
「お凛さん、お凛さん。もう装束の準備は出来たかい?」
貴衛門の妻、お松は何でもかんでも逐一報告を求めるような実に機敏な性格だったので、貴衛門はあっという間に使用人たちの指揮権を彼女に奪われた。
貴衛門とお松が籍を入れてから、貴衛門は書斎に閉じこもることが多くなった。
旧藤村屋敷を取り壊した跡地に建てられた立派な洋館の2階にある、広い書斎である。
これらも全て喜久蔵の遺産であると云っても良い。
この洋館を建て始めたのも貴衛門が居なくなった次の月からであるから、殆どの取り決めは生前の喜久蔵が済ましていた。
―もしかすると、お凛と兵士の婚約も喜久蔵がいつの間にか済ましていたのかもしれない。
貴衛門は挙式の迫った金曜の昼間っから書斎でそんな事を考えていた。
お凛と兵士の式は来週の月曜の今頃の筈である。
そう思うと、貴衛門の胃は鉛を食らったようにズンと重くなった。
「貴衛門さん、一寸来てくれます」
お松の小鳥が囀るような声が扉の向こうから聞こえる。
「何だね忙しない。私を呼ぶのは大事のときだけにしておくれ」
煩わしそうに言って貴衛門は長い木机に顔を伏した。
夫婦仲は早くも冷え切っていた。何より貴衛門が早くに冷めた。
だが貴衛門がお凛に勝つためにはあんな方法しかなかったのだった。
そしてまた、こんな方法しかなくなっていたのだった。
―貴衛門は静かに着物の袖を噛んだ。
お凛は衣裳部屋にある鏡を見ていた。
大人三人が入ってもまだ余りがあるような大きな鏡だった。
試しに右頬へ付けた白粉の眩い程の白さに、お凛は眼を細めた。
激情の朱を差す左頬がまたとなく哀れである。
お凛は絶望の吐息を深く吐き出し、静かに嗚咽を始めた。
「……貴衛門さま! 貴衛門さまぁッ…!」
誠実を装い裏切ったように見せかけ、誠実を装われ裏切ったように見せかけられる。
ここに至ってまだ彼らは負けられないのだった。愛にも誇りにも、或いはそのどちらかにも。
お凛が着物の襟を握り締め、一筋の涙が頬を伝い白粉を溶いたとき、部屋の扉が開け放たれた。
「お凛さん、その着物ちゃんと着られてるの? 身分の高い方に嫁がせて貰うんだから、ちゃんとしておかないと!」
お松がずけずけと、俯くお凛へ歩み寄る。お凛は涙を拭ってにこやかな笑みを浮かべた。
「どう、着こなせていますでしょうか?」
お凛は両手を広げ、ひらひらと蝶が舞う様な仕草をして見せた。
くるりと回るとほのかな桐の花の香りが舞う。それはお凛が屋敷の庭園をよく歩いている為であった。
庭を歩くその姿は丁度、書斎の窓から見て取れた。逆に、書斎の様子を見ることが出来たとも云える。
「わぁお、すごく綺麗よお凛さん! 貴衛門さん、ほら見てくださいな! お凛さんホントに別嬪さんに箔が付いてるわぁ」
しかし書斎に籠る貴衛門は返事も寄こさない。
お凛はまた小さく溜息を吐いた。気付かれぬよう、そっと。
日曜の夜、12時を回った頃であった。お凛の結婚式を控えて貴衛門はなかなか寝付けずに西洋寝台を抜け出した。
裏庭にある井戸へ行き、冷たい水を桶から飲み干した。
飲みきれず溢れた冷水は口の端からこぼれ伝って、寝巻の襟をびっしょりと濡らした。
春とはいえど、夜はまだ冷える。
「貴衛門さま…」
驚いて貴衛門が振り返ると、そこに白い寝巻姿のお凛が忍びやかに立っていた。
月明かりに照らされたお凛は闇の中に眩く光っている。
「どうした、こんな夜更けに…」
その問いにお凛は答えず、ツッと春霞に浮く月を見上げた。
「…遠く亜米利加の国は男も女も皆平等なんですってよ。一度行ってみたかったですわ」
お凛は遠い目で月を見上げていた。後を追って、貴衛門も月を見上げる。
「平等ではないか、私もお前も。だからこうなったのだ」
貴衛門が言うと、お凛は意外そうにその顔を見た。
月を見上げる貴衛門は口をキッと真一文字に結び、瞳を震わせていた。
「…済まなかったな。いや、まだ済んでいないのか…。どうか、こんな私を許しておくれ」
「何を謝りますか。辛いのは貴衛門さまも同じなのでしょう。それにまだ、決着はついていなくてよ」
お凛はそう言って軽やかに微笑んだ。
「―では御休みなさいませ」
しめやかな衣擦れの音を立てながら、お凛は去ってゆく。
「待て…!!」
貴衛門が叫んだが、継ぐ言葉が見つからずにいるうち、お凛はそのまま屋敷に戻っていった。
胸に張り付く濡れた寝巻の冷たさに…、桐の香りが凛と沁みていた。
翌日の朝、お凛が膝を揃えて椅子に座ったまま、死んでいるのをお松が発見した。服毒自殺のようだった。
遺書は無かった。お凛は花嫁衣装に身を包んで、しかしその顔に一切の化粧はされていなかった。
ただ例の気高い微笑を浮かべたまま、勝ち誇った顔は何時に無く少女らしいものだった。
結婚の前夜に自らを失わせることで、お凛は自らの「生」を守ったのである。
お凛を誰よりもよく知る貴衛門はそう考えていた。と同時に、又或る別の考えが頭に浮かんでいた。
―考えてみれば、確かにそうかも知れない。
結婚式の代わりに行われた葬儀の数日後に晩餐席でそう呟いた貴衛門は、この日の夜に自殺した。
貴衛門の屍は庭の桐の花咲く木の下に横たわっていた。
こうして二人の死によって物語は終結し、全てが終わったのである。
だが彼らにとっては「終結」ではなく「完結」と云った方がよいのかも知れない。
死が完全であるからこそ、愛も完全たり得るのだ。
百年後でも、二人の墓は見捨てられた土地でひっそりと苔むしている。