第2話 自閉症スペクトラムの悪役令嬢
王都の巨大な城壁が、背後の森に没していく。
未舗装の街道。
鬱蒼と茂る原生林が、二人を飲み込むように広がっていた。
湿った土の匂い。
腐葉土と、名も知らぬ花々の甘い香りが混じり合う。
どこか遠くで、得体の知れない鳥の鳴き声が響く。
ギルバートは、大きく息を吸い込んだ。
肺いっぱいに、自由の空気を満たす。
「ごめんな、レイチェルの婚約までダメになって。俺が責任持って、次の相手を」
「婚約ダメになって、良かった」
隣を歩く義理の妹は、間髪入れず、透き通った声で応える。ウェーブのかかった肩までの金髪が揺れる。
「……まぁ。お前があの伏魔殿のような王宮で、愛想を振りまいて生きていけるとは、俺も思わない。……『さしすせそ』って、覚えてるか?」
「……兄が昔、私に教え込もうとした、あの呪文か」
レイチェルは俺をもともと『兄上』と呼んでいた。平民になったのだから『お兄ちゃん』と呼べと伝えたら、なぜか『兄』と端的に呼ぶようになった。
「そう、それ」
「さすが。知らなかった。すごい。センスいい。そうなんだ」
レイチェルは、抑揚のない棒読みで、五つの単語を羅列した。
まるで、辞書の項目を読み上げているかのようだ。
感情のかけらも籠っていない。
「……うーん、0点。心が無さすぎる」
「……嘘は、いけないこと」
レイチェルが、足を止める。ギルバートを正面から見上げてくる。
中の中の容姿の俺とは、似ても似つかないーー養女だから当然だけどーー人形のように整った顔立ち。
まっすぐな、青緑色の瞳。角度によって、淡い紫が一瞬だけ混ざる。
複数の色がオパールのように揺らめく、不思議な色彩。
『オパール・アイ』。
それは、この国の王家の血を色濃く引く者にだけ表出する、そして高い魔力量を示す、血統の証だ。
レイチェルの瞳には、お世辞や妥協といった、社会的な曖昧さが一切存在しない。
ただ、真実だけを映す鏡。
「……そうだな。お前は、嘘がつけないんだったな」
ギルバートは苦笑し、妹の頭に手を置いた。
レイチェルがASD――自閉スペクトラム症であると気づいたのは、『俺』の意識がギルバートという少年の肉体に宿って、すぐのことだった。
前世の医学的知識が、彼女の脳の特性に、すぐ気付いた。
ASDとは、脳の機能的な偏りによって生じる、先天的な特性だ。
脳の配線図が、多数派の人々とは異なっているのだ。
主な特徴は、二つ。
一つは、社会的コミュニケーションの困難さ。
相手の表情、声のトーン、場の空気といった「非言語的な情報」を、脳が自動処理できない。
多数派の人間が、息をするように読み取る「文脈」や「皮肉」が、レイチェルの脳にはうまく届かない。
だから、お世辞という「社会的な潤滑油」としての嘘が理解できず、事実のみを口にする。
もう一つは、限定された物事への強いこだわり。
興味の対象が狭く、そのぶん、深く掘り下げられる。
レイチェルが、分厚い魔物図鑑を丸暗記し、一度見た神経の光を決して忘れないのは、この特性によるものだ。
(多数派(定型発達)の脳が『マニュアル車』だとしたら、レイチェルの脳は『F1カー』みたいなもんだ)
ギルバートは、レイチェルのオパールの瞳を見つめ返す。
社会という公道を走るには、繊細すぎて、扱いにくい。
ブレーキもハンドルも、敏感すぎる。
だが、サーキットという特定の環境下――例えば、魔物の神経を見極めるような極限状態においては、誰よりも速く、正確なパフォーマンスを発揮する。
「……兄。次、なにする」
ギルバートは、バサリと白衣風のコートを翻す。
誰もいない森に向かって、大げさな身振りをしてみせる。
「いいか、レイチェル。俺たちは自由だ。だが、自由には『金』がかかる! 飯を食うにも、宿に泊まるにも……親はもう何もしてくれない。そして何より!」
ギルバートは、人差し指を突き立てる。
「レイチェルが通う予定の『空飛ぶ魔法学園』! その学費は、目が飛び出るほど高い! らしい!」
ギルバートの脳裏に、前世の記憶が走馬灯のように駆け巡る。
日本という国での、医師になるための道のり。そこには、残酷なまでの「金額差」が存在した。
前世の日本でも、医師になるための『対価』はピンキリだった。俺は運良く、国立大学に入れた。だから、年間の学費は53万5800円で済んだ。貧乏学生でもバイトで賄える価格設定だ。
当時の自分は、それがどれほど恵まれていたか、理解しきれていなかったかもしれない。
だが、今のギルバートには痛いほど分かる。
私立の医大は、桁が違う。年間1000万円弱。6年間で下手すりゃ4000万円……家が一軒建つ額が、たった6年間で吹き飛ぶ。それが私立医学部の相場だ。医大と魔法学園とを同列に語るのが相応しいかは不明だが――
「噂の『空飛ぶ魔法学園』は、どう見ても超・私立のブランド校! おそらく学費はバカ高い!」
どこぞの高名な魔道士が、『僕の考える最高の学校』を実現する為に設立した、天空に浮かぶ、移動型の魔法学園。そこでは、個々人の特性に合った、最高の教育が受けられるという。
王国直轄の魔法学校とは違い、身分にとらわれず自由闊達・自主自律を重んじる校風は、きっとレイチェルに合うだろう。実際、王宮で『ヤンチャしてるなぁ』、とか『型破りだけど優秀だなぁ』という印象の魔道士を調べると、その多くが、過去に空を飛んでいる。それに、王国直轄の魔法学校とは異なり、宮仕え以外の進路を選ぶ魔道士も多いと聞く。
なぜか『幻の』とか『噂の』などとの枕詞が付くことの多い学園であり、募集要項は公開されているものの、あまり詳しい情報がない。
インターネットもない世界である。『学園の学費が高いらしい』、『学園入学前に、学園の空中島に上陸できた生徒は、入学試験が免除されるらしい』という噂話くらいが、関の山だった。
「我らが公爵家無き今、誰がその学費を払うんだ? 俺だ! 俺が稼ぐしかないんだ! 俺はなるぞ。この大陸で一番の金持ちに!」
ギルバートの瞳が、欲望という名の希望でギラギラと輝く。
「金で幸せは買えないって、家庭教師言ってた」
「年収800万円までは、年収と幸福度は相関するって論文があるんだよ」
「えん?」
「あ、こっちの話。忘れて」
「うん、忘れる」
「とにかく! 今から2年、己の才覚だけで成り上がってみせる」
ちなみに、医者になって稼ぐ選択肢も一瞬考えた。しかし、医者になるにも数年の学校通いと試験合格が必要であり、再来年必要な学費を稼ぐには間に合わないらしい。そもそも、『自分が医者に向いている』という自信などない俺である。選択肢からは、一瞬で消えた。
冒険者として新聞の一面を飾り、拍手を浴び、黄金のバスタブに浸かる自分を想像しーー今は目立ってはいけないのだと、俺は自分を戒めた。
「学校、行かない。兄がいればいい」
「いーや、レイチェルは学校で、体系立てて自分の魔力のコントロール方法を学んだほうが良い。魔力が高いと、暴発することもあるしな。それに、魔道士試験に合格するには、学園で先輩からもらえる、過去に試験で出題された問題が大事だ……多分」
魔道士になるためには、ペーパーテストと実技試験から成る国家試験に合格する必要がある。試験では、毎年一定数は、同じ問題――プール問題というやつだ――が出るらしい。せっかく剣と魔法の世界なのに、世知辛い話である。
前世の医学部では、学年ごとに「テスト対策委員」という自主組織があり、ネットクラウドで学内試験の過去問とその想定回答を共有していた。この世界でそこまでシステム化されているかは不明だが、学園にいれば、先輩から流れてくる過去問はあるだろう。
……まぁ、自分のような凡人と、レイチェルのような天才を一緒にしていいのか、判断に迷うが。
「……金、いた」
レイチェルが足を止める。




