第9話 鉄錆の峡谷と、ドワーフの鍛冶唄
湿潤な森を抜け、次なる旅路の果てに現れたのは、世界の色が一変するような光景だった。
赤茶けた岩肌が、鋭利な刃物で切り裂かれたように聳え立つ場所。
黒鉄の峡谷。
そこは、大地から鉄の匂いが立ち込め、絶え間なく黒い煙が空を汚す、職人たちの聖地である。
「げほっ、げほっ! うわぁ、空気がジャリジャリするぅ!」
エルフの少女ユッコが、口元をハンカチで押さえながら顔をしかめた。
瑞々しい森の空気から一転、ここは鉄粉と煤が舞う乾燥地帯だ。繊細なエルフには少々酷な環境かもしれない。
対して、岩の巨人レムは平気な顔(表情筋はないが)で歩を進めていた。彼にとって岩場は実家のようなものであり、むき出しの鉱脈が走る断崖は、むしろ親近感すら覚える景色だった。
峡谷の底には、無数の工房がひしめき合っている。
あちこちからカンカンと金属を叩く音が響き、巨大な溶鉱炉からは灼熱の息吹が漏れ出していた。
ここには、鍛冶と酒をこよなく愛する種族、ドワーフたちが暮らしているのだ。
「すっごい熱気……。でも、なんかワクワクするね! 職人さんの魂が燃えてる感じ!」
ユッコはすぐに気を取り直し、好奇心いっぱいの目でキョロキョロと周囲を見回し始めた。
その時だった。
「おい、そこのデカブツ!!」
地を這うような野太い声が響いた。
振り向くと、筋肉の鎧をまとったような、髭面のドワーフが仁王立ちしていた。身長はユッコより低いが、横幅は二倍近くある。頭には溶接用のゴーグルを乗せ、手には巨大な鉄箸を持っていた。
この工房を取り仕切る親方、ガンテツだ。
ガンテツは鋭い眼光でレムの体を下から上まで嘗めるように見回し、ゴクリと喉を鳴らした。
「こいつぁ……たまげたぞ。見たこともねぇ純度の岩盤だ。それにこの青白い発光……ミスリルか? いや、オリハルコンの原石かもしれん!」
親方の目が、欲望(あくまで職人としての)でギラリと光った。
「ちょうどいい! 今の炉の温度なら、こいつを溶かして極上の剣が打てるぞ! おい野郎ども、この岩塊を炉へ放り込めぇ!!」
「「「アイアイサー!!」」」
親方の号令と共に、屈強なドワーフたちがわらわらと集まり、レムの四肢を取り押さえにかかった。
『グォッ!?(おい待て、俺は素材じゃない!)』
レムは抵抗しようとしたが、彼らは鉱石の扱いに関してはプロフェッショナルだ。テコの原理と鎖を巧みに使い、数人がかりでレムの巨体を溶鉱炉の投入口へと引きずっていく。
眼下には、ドロドロに溶けた鉄が地獄の池のように煮えたぎっている。落ちれば、さしものゴーレムといえどタダでは済まない。
「ちょ、ちょっと待ってよ! 何すんの!?」
血相を変えたユッコが、ドワーフたちの前に立ちはだかった。
彼女は小さな両手を広げ、灼熱の炉を背にしたレムを庇うように叫んだ。
「レムを離して! この子はただの岩じゃないの!」
「あぁん? どけ嬢ちゃん。こいつはどう見ても極上の素材だろ。最高の武器にしてやるから感謝しな」
「素材なんかじゃない!」
ユッコの声が、峡谷に響き渡った。
彼女の碧眼が、怒りの炎で燃え上がっている。普段のお気楽な様子からは想像もつかないほどの剣幕に、荒くれ者のドワーフたちが思わずたじろいだ。
「レムはね、私の相棒なの! 一緒に旅をして、一緒にご飯を食べて、私が泣いてる時はそばにいてくれる、大事な家族なんだから! 石ころ扱いしないでよ!!」
家族。
その言葉が、レムの胸の奥深く、コアの部分に温かく染み渡った。
異世界で目覚め、孤独だった自分に与えられた、何よりも重く、尊い定義。
ガンテツは鼻を鳴らし、持っていたハンマーを石床に叩きつけた。
「はんッ、家族だぁ? ゴーレムごときに甘いこと抜かしてんじゃ……」
バキィッ!!
言葉の途中、嫌な音がした。
ガンテツが長年愛用していたハンマーの柄が、あまりの力任せな衝撃に耐えきれず、根元からへし折れてしまったのだ。
「あ……」
親方の顔が青ざめる。
工房に静寂が走った。職人にとって商売道具の破損は、不吉の象徴であり、何より作業の遅れを意味する。
「くそっ、一番大事な時に……! 替えの柄を作るのに半日はかかるぞ!」
頭を抱えるガンテツ。
その時、拘束が緩んだ隙をついて、レムが動いた。
彼は折れたハンマーを拾い上げると、親方の前に跪いた。
そして、折れた柄の断面と、ハンマーのヘッド部分を合わせ、岩の指先でぐっと握り込んだ。
ミシミシ、ギリギリ……。
岩石をも砕くゴーレムの握力が、鋼鉄の留め具を粘土のように歪ませ、変形させていく。
ただ力任せに潰すのではない。まるで指先が精密機械になったかのように、金属の分子レベルの結合すら操るような繊細さで、折れた部分を強引かつ完璧に「接合」してしまったのだ。
『グォン(これでいいか)』
レムが修理されたハンマーを差し出す。
ガンテツは目を丸くしてそれを受け取り、振ってみた。重心のズレも、ガタつきもない。以前よりも強固に固定されている。
「……おめぇ、ただのデカブツじゃねぇな」
ガンテツはニヤリと笑い、レムの岩肌をバンと叩いた。
「悪かったな嬢ちゃん。こいつは確かに、溶かすにゃ惜しい『名工』の腕を持ってるようだ」
「……ふんだ! わかればいいのよ、わかれば!」
ユッコはまだ頬を膨らませていたが、レムが無事だったことに安堵し、へなへなと座り込んだ。
◇
誤解が解ければ、ドワーフたちは陽気だった。
詫び代わりに特製の岩塩飴をもらい、レムとユッコは工房の見学を許された。
これから始まるのは、この峡谷の名物とも言える、大人数での鍛造作業だという。
工房の中央には、巨大な赤熱した鉄塊が鎮座している。
その周りを、数十人のドワーフたちがハンマーを構えて取り囲む。
ガンテツが中央に立ち、片手を高々と挙げた。
「さあ野郎ども! 気合入れろよ! この鉄に魂を叩き込めぇ!!」
オウッ! という野太い返事と共に、一斉に筋肉が隆起する。
「これは……来るよレム!」
ユッコの耳がピクリと動いた。
彼女は直感的に悟ったのだ。これから始まるのが、単なる作業音ではなく、極上の「音楽」であることを。
素早く背嚢からシェルレックを取り出す。
「この音もらった! 私が録っぴ!」
録音スイッチが押されると同時に、第一打が振り下ろされた。
◇
♪~ドワーフたちの鍛冶合唱
カァァァァン!!
始まりは、雷鳴のような一撃だった。
親方ガンテツの大槌が、真っ赤に焼けた鉄塊の中心を打ち抜く。
散る火花。それはまるで、夜空を焦がす花火のように、四方八方へと美しく飛散する。
その残響が消えぬ間に、周囲の職人たちが動く。
キン、カン、コン、ギン!
キン、カン、コン、ギン!
速い。そして、恐ろしいほどに正確だ。
数十本のハンマーが、一秒の狂いもなく順番に鉄塊を叩いていく。
それは乱打ではない。計算され尽くした多重奏だ。
高い音は小さなハンマーで端を整える音。
低い音は大きなハンマーで芯を鍛える音。
鈍い音は、鉄を折り曲げ、強度を増すための音。
俺の岩の体が、床を伝わる振動でビリビリと震える。
熱い。物理的な熱気だけではない。ここにいる男たちの、物作りにかける情熱が、音の波となって押し寄せてくるのだ。
視界の中では、筋肉と汗と鉄が躍動している。
振り上げられる腕。飛び散る汗。食いしばった歯。
誰も言葉を発しない。
目配せ一つ、呼吸一つで、次の打撃のタイミングを計っている。
まさに「阿吽の呼吸」。
指揮者などいないのに、彼らの心臓の鼓動は完全にシンクロしているのだ。
誰か一人が遅れれば、リズムは崩れ、隣のハンマーとぶつかり、大怪我に繋がるだろう。
命がけの信頼関係が、この鉄と炎の交響曲を支えている。
シュゥゥゥ……。
時折、焼き入れの水蒸気が上がり、白煙が視界を遮る。
その霧の向こうから、変わらぬリズムが響いてくる。
カンッ、カンッ、カンッ、カンッ!
テンポが上がる。クライマックスだ。
鉄塊は徐々に形を変え、鋭利な剣へと姿を変えていく。
不純物が叩き出され、鋼の純度が高まるにつれ、音はより澄んだ、高らかな音色へと昇華していく。
これは祈りだ。
鉄への感謝と、使う者への加護を願う、力強くも神聖な儀式。
俺は思わず、存在しない指揮棒を振りたくなった。
この情熱のビートに、俺の魂もまた、激しく打ち鳴らされているのだから。
~♪
◇
最後の一撃が振り下ろされ、ジュウウウという冷却音と共に、一本の見事な大剣が完成した。
ドワーフたちが一斉に肩の力を抜き、荒い息を吐きながら互いの健闘を称え合う。
「ふぅ……。最高の録音だったよ!」
ユッコは頬を紅潮させ、興奮気味にシェルレックを掲げた。
レムもまた、深く頷いて感動を伝えた。人間のオーケストラとは違う、生々しくも力強い音の奔流に、心が洗われるようだった。
「おう、いい剣が打てたわい。お前さんたちが見てたおかげかもな」
ガンテツが汗を拭いながら近づいてきた。
だが、その表情は晴れやかさの中に、わずかな曇りを含んでいた。
彼は完成した剣を爪で弾き、その音色を確かめるように耳を澄ませた。
「……ふむ。やっぱり、少し変だな」
「変? すっごくいい音だったよ?」
ユッコが首を傾げる。
ガンテツは峡谷の切り立った岩壁を見上げ、渋い顔で髭をさすった。
「いや、剣の出来は完璧だ。問題なのは、この谷の『反響』だよ」
「反響?」
「ああ。例年なら、ワシらが叩いた音は、この岩壁にぶつかって、もっと豪快にワンワンと響き渡るもんじゃ。だが今年は……どうも音が吸われちまってる気がする」
ガンテツは足元の地面を靴底でドンと踏み鳴らした。
ドスッ。
鈍い音がするだけで、音が広がらない。まるで分厚い吸音材に囲まれているかのような、不自然な「音の死に方」だった。
「音が響かねぇと、調子が狂ってしょうがねぇ。……どうも最近、世界全体が『乾いてる』ような気がするのよな」
ドワーフの親方の言葉に、レムの背筋に冷たいものが走った。
(……まただ)
出会う人皆、この世界の異変を口にする。
そして今、この峡谷での「音の消失」。
バラバラに見える事象が、レムの中で一本の線に繋がり始めていた。
音が消え、熱が増している。
それはまるで、世界から「音」というエネルギーが奪われ、何らかの別の力へと変換されているかのような……。
「ま、気のせいかもしれんがな! さあ、働いた後は酒だ酒! お前らも飲んでけ!」
ガンテツは豪快に笑い飛ばしたが、レムの胸のざわつきは消えなかった。
ユッコもまた、何かを感じ取ったのか、少しだけ不安そうにレムの顔を見上げた。
「……行こうか、レム。パパの手がかり、次の街にあるかもしれないし」
酒宴の誘いを丁重に断り、二人は峡谷を後にすることにした。
背後からは、ドワーフたちのコップ同士をぶつける音が聞こえてくる。
峡谷の風が、ヒュオオと寂しげな音を立てて、二人の背中を押した。




