第8話 波打ち際の微睡みと、重なる呼吸の円舞曲
珊瑚の森での冒険を終えたレムとユッコは、そのまま海沿いの砂浜で夜を明かすことにした。
宿代を節約するため、というのもあるが、何よりも今の二人には、壁に囲まれた部屋よりも、この開放的な星空の下の方が心地よかったからだ。
パチパチと燃える流木の焚き火が、二人の影を砂の上に長く伸ばしている。
海風は日中の熱気を忘れさせるほど涼しく、寄せては返す波の音が、天然の子守唄のように優しく響いていた。
「ねえ、レム。私、波の音って好きなんだ」
焚き火の明かりに照らされたユッコが、膝を抱えながらポツリと言った。
彼女の視線は、暗い海の向こう、水平線の彼方に向けられている。
「波の音ってさ、人の呼吸に似てない? 吸って、吐いて。寄せて、返して……。ずっと昔、まだ小さかった頃、ママに抱っこされて寝かしつけられてた時の音に似てるの」
レムは薪をくべる手を止め、静かに彼女の方を向いた。
ユッコが母親の話をするのは珍しい。彼女の旅の目的は「行方不明の父を探すこと」だが、母親については「もういない」としか聞いていなかった。
「ママが死んだ時のこと、今でも覚えてる」
ユッコの声が少しだけ低くなる。
彼女はレムの二の腕を強く抱きしめた。それは、無意識のうちに恐怖から身を守ろうとする仕草に見えた。
「あの日、世界はすごく静かだった。悲しいとか、痛いとかじゃなくて……ただ、音がなかったの。風の音も、鳥の声も、ママの心臓の音も。全部が『静寂』に飲み込まれて、消えちゃったみたいに」
ユッコはレムの腕をさらに強く締める。
「だから私、怖いの。音がなくなるのが。静かになるのが。……私がずっと喋ってるのも、もしかしたら、その静けさを埋めたいだけなのかもしれない」
精一杯の告白を終えると力が緩み、自嘲気味に笑うユッコ。
彼女の「静寂恐怖症」の根源。それは、母を亡くした時に体感た静けさへの根源的な恐怖だった。
レムは、そっと反対の腕を伸ばし、彼女の肩に触れた。
硬く、冷たい岩の手。だが、そこには確かな温度と、言葉にならない慰めが込められていた。
俺がいる。俺が音を立てる。お前の世界を、二度と静寂になんかさせない。
そんな意志を込めて、彼はゴリリと岩の関節を鳴らしてみせた。
「……ふふっ。ありがとう、レム。レムの音、ゴツゴツっていうの安心する」
ユッコは強張っていた肩の力を抜き、レムの巨大な胸に体を預けた。
しばらくの間、二人は無言で波音を聞いていた。
焚き火の爆ぜる音。波の音。そして、レムの体内から微かに響く動力音。
それらの音が、ユッコの不安を少しずつ溶かしていく。
「……んぅ……」
安心したのか、張り詰めていた糸が切れたように、ユッコのまぶたが重くなってきた。
こっくり、こっくりと船を漕ぎ始める。
やがて彼女は、レムの岩の体を背もたれにして、完全にその身を預けてしまった。
スゥ、スゥ……と、規則正しい寝息が聞こえ始める。
レムは身じろぎ一つせず、彼女の眠りを守る彫像となった。
月明かりが、無防備な彼女の寝顔を照らしている。
昼間の騒がしさが嘘のような、穏やかな表情。
レムはふと、耳を澄ませた。
そこには、奇跡のようなアンサンブルがあった。
この瞬間を、形に残したい。
いつもは彼女の役目だが、今夜だけは。
レムはユッコを起こさないよう、スローモーションのような慎重さで、背嚢からシェルレックを取り出した。
真珠色の巻貝が、月光を浴びて鈍く光る。
レムは心の中で、彼女の口癖を借りて呟いた。
(この音、俺がもらった。……録っぴ)
◇
♪~波音と、微睡みのシンクロ
スイッチを押すと、世界から余計なノイズが濾過され、俺の意識は「周期」の世界へと没入していく。
ザザァァァァァ……。
波が寄せる音。それはクレッシェンド(だんだん強く)だ。
無数の水泡が砂を噛み、重なり合いながら岸へと押し寄せ、最高潮に達して砕け散る。
シュァァァァァ……。
波が引く音。それはデクレッシェンド(だんだん弱く)だ。
砂利を引き連れて海へと帰り、次の波のための助走をつける静けさ。
そして、俺の肩で眠る小さな命の音。
スゥ……。
空気を肺に取り込み、生命力を循環させる吸気。
ハァ……。
身体の緊張を解き、安らぎを吐き出す呼気。
二つのリズムは、最初はバラバラだった。
波は長く、雄大に。
彼女の息は短く、繊細に。
それぞれが勝手なテンポで時を刻んでいる。
昔、人間の姿で車を運転していた頃の記憶が蘇る。
信号待ちの交差点。
前に連なる数台の車が、それぞれウインカーを出している。
カッチン、カッチン、カッチン。
車種も違えば、点滅の周期も微妙に違う。最初はバラバラに明滅している光たち。
だが、信号が変わるまでの長い待ち時間の中、ふとした瞬間に訪れる「奇跡」がある。
……ピッ。
全ての車のウインカーが、完全に同時に光り、同時に消える瞬間。
ほんの数秒、あるいは数回だけの偶然のシンクロ。
俺はあの瞬間を見るのが好きだった。
無関係な他人同士が、見えない法則によって一つに繋がったような、不思議な快感。
今、それが起きようとしている。
ザザァァァァ……(スゥ……)。
大きな波が満ちるのと同時に、ユッコが深く息を吸い込む。
海の膨張と、肺の膨張が重なる。
シュァァァァ……(ハァ……)。
波が引いていくのと同時に、彼女が温かい息を吐き出す。
海が静まるのと共に、彼女の肩の力が抜けていく。
心地いい。
なんて心地いいユニゾンなんだろう。
世界という巨大な揺り籠の中で、海と少女が同じ夢を見ている。
母なる海と、母を恋しがる娘。
二つの波長が溶け合い、境界線が曖昧になる。
俺の岩の体は、ただの共鳴板だ。
この幸せな和音を、逃さぬように、壊さぬように、ただ静かに震わせるだけの存在。
永遠に聞いていたい。
この安らかな寝息が、いつまでも絶えることなく続くように。
もしも「静寂」がこの音を奪おうとするなら、俺はこの身を砕いてでも阻止するだろう。
ザザァァァァ……スゥ……。
シュァァァァ……ハァ……。
完璧な同期。
それは、どんな名指揮者にも作り出せない、神様の気まぐれが生んだ、極上の夜想曲。
~♪
◇
数分後、再びリズムがズレ始めたところで、レムは静かに録音を停止した。
あの完璧な同調は、ほんの一時の奇跡だったのだ。
だからこそ、美しい。
レムはシェルレックをそっと背嚢の奥にしまった。
この録音は、誰にも売らない。
ユッコにも聞かせない。
これは、彼女の寝顔を守る「盾」であるレムだけの、密やかな宝物だ。
「……んぅ……レムぅ……」
ユッコが寝言を呟き、さらに深くレムの岩肌に顔を擦り付けた。
冷たくて硬いはずの岩の体が、今夜ばかりはどんな羽毛布団よりも温かく感じられた。
夜は更けていく。
星空の下、波音だけが優しく二人を包み込んでいた。
次に目覚める時は、また騒がしい旅が始まるだろう。
だが今、この穏やかな瞬間は、安らぎの時間を守り続けようと、レムは誓った。




