第7話 深海の珊瑚都市と、泡のワルツ
次に二人が辿り着いたのは、眩いばかりの白い砂浜と、エメラルドグリーンに輝く海だった。
寄せては返す波の音が、乾いた心と体を優しく洗い流していくようだ。
「うわぁぁぁっ! 海だーっ! 本物の海だよレム!」
エルフの少女ユッコは、下げていたポーチ放り出すと、ブーツを脱ぎ捨てて波打ち際へと駆け出した。
白い飛沫を上げてはしゃぐその姿は、まるで無邪気な子供のようだ。太陽の光を浴びて、金色の髪と透き通るような碧眼が宝石のように煌めいている。
「ねえレム、早く早く! 水切りしよ!」
岩の巨人レムは、ゆっくりと砂浜を歩き、彼女の隣に並んだ。
彼にとって、海は特別な場所だ。かつて人間としての命を落とした場所であり、そしてこの異世界でゴーレムとして目覚めた場所でもある。
だが、不思議と恐怖はなかった。隣で笑う少女がいるだけで、この青い世界は「死の場所」から「冒険の舞台」へと変わっていたからだ。
レムは足元の手頃な石を拾い上げ、手首のスナップを効かせて海面へと放った。
ヒュンッ。
石は水面を滑るように跳ね、十回、二十回と驚異的な回数を記録して沖へと消えた。
「すごーい! シーフがチャクラム(戦輪)を正確に投げているような腕前だね!」
ユッコが感嘆の声を上げる。レムは少し誇らしげに胸を張り、サムズアップを返した。
◇
ひとしきり浜辺で遊んだ後、ユッコは悪戯っぽい笑みを浮かべて提案した。
「ねえレム。せっかく海に来たんだから、もっと深いところに行ってみたくない?」
『グォン?(深いところ?)』
「そう! 実はね、この近くの海底に『サンゴの森』っていう絶景ポイントがあるんだって。でも、普通の人じゃ息が続かなくて行けないんだけど……私たちなら行けるよね?」
ユッコはポーチから、青く透き通ったビー玉のようなものを取り出した。
魔道具『人魚の吐息』だ。これを割ると、使用者の周りに空気を閉じ込めた魔法のバブルが展開され、水中でも活動できるようになるという。
「私はこの泡に入って潜る。レムはその重たい体で、私を引っ張ってくれる?」
なるほど。
レムの岩の体は重い。水に浮くことはないが、逆に言えば「絶対に流されないアンカー」として海底を歩くことができる。
水陸両用のゴーレムである彼と、魔法を使うエルフ。このコンビならではの海中散歩というわけだ。
レムは大きく頷き、ユッコの手を取った。
ユッコがビー玉を割る。ポンッという音と共に、彼女の体がシャボン玉のような透明な球体に包まれた。
「よしっ、装着完了! いざ、深海へレッツゴー!」
◇
海の中は、静寂と青の支配する世界だった。
ザブン、という入水音と共に、地上の喧騒は遠ざかり、こもった水流の音だけが耳を撫でる。
レムは海底の砂をしっかりと踏みしめ、一歩ずつ斜面を下っていく。
浮力などものともしない重量感。
その左手にはロープが握られ、その先にはふわふわと海中に浮かぶユッコの入った泡が繋がれている。まるで風船を持って散歩しているかのようだ。
「きれい……。見てレム、お魚がいっぱい!」
泡の中からの声は少し響いて聞こえる。
色とりどりの熱帯魚たちが、巨大な異物であるレムを恐れることもなく、好奇心旺盛に近づいてくる。
レムの指先を小魚がついばみ、くすぐったい感覚(があるような気が)した。
進むにつれ、周囲の景色は砂地から鮮やかな色彩の森へと変わっていった。
サンゴの森だ。
赤、黄色、紫。枝状のもの、テーブル状のもの、丸いもの。
地上ではありえない極彩色の生き物たちが、海流に身を任せてゆらゆらと揺れている。
太陽の光が水面を通してカーテンのように揺らめき、サンゴたちを幻想的にライトアップしていた。
「夢みたい……。海中にこんな場所があるなんて」
ユッコがうっとりと呟いたその時。
ズゥゥゥン……。
海底の砂を巻き上げ、巨大な影が二人の行く手を遮った。
「え……?」
現れたのは、軽トラックほどもある巨大なカニだった。
鋼鉄のように硬い甲羅。そして、ユッコの泡など容易く割りそうな、凶悪なハサミ。
『鉄鋏カニ』だ。縄張りを荒らされたと怒っているらしい。
カニは泡の中にいる柔らかそうなエルフに狙いを定め、パチン、パチンとハサミを鳴らして突進してきた。
「きゃああっ! レム、助けて!」
泡が割れれば、ユッコは水圧と窒息で命を落とす。
レムは瞬時に反応した。
繋いでいたロープを岩肌の突起に固定すると、水を蹴ってカニの前に立ちはだかる。
ギヂヂヂッ!
巨大なハサミがレムの左腕を挟み込んだ。
岩が砕ける音がする。凄まじい馬鹿力だ。だが、レムは一歩も引かない。
痛みはない。あるのは「相棒を守る」という思考のみ。
レムは挟まれた左腕をあえて押し込み、カニの動きを封じると、空いている右腕でカニの甲羅の縁をガッチリと掴んだ。
そして、ライフセーバー時代に覚えた水中での体幹と、ゴーレムの怪力を連動させる。
『グォォォォォッ!!』
海中で音なき咆哮を上げ、レムは巨大ガニを一本背負いの要領で投げ飛ばした。
カニはきりもみ回転しながら海流に流され、彼方の岩陰へと消えていった。
「レム! 大丈夫!? 腕が……」
ユッコが涙目になりながら泳いで寄ってくる。
レムの左腕には亀裂が入っていたが、大きな支障はない。彼は「問題ない」と首を振り、優しく彼女の泡を撫でた。
◇
トラブルを乗り越え、二人がサンゴの森の中心部に着いた頃、海の上では夜が訪れていたようだ。
海中の青さが深まり、群青色の闇が広がり始める。
だが、ここは暗闇ではなかった。
満月の光がスポットライトのように差し込み、サンゴたちが自ら淡い燐光を放ち始めたのだ。
幻想的な光の森。
そして、その瞬間は訪れた。
「あっ……見て、レム。始まったよ」
ユッコが声を潜める。
サンゴの先端から、小さなピンク色の粒が、一つ、また一つと放たれ始めたのだ。
サンゴの産卵。
年に一度、満月の夜にだけ行われる、生命の神秘。
無数の卵が、雪が空へ帰るように、ゆっくりと海面へ向かって昇っていく。
その数は数千、数万。視界すべてが桜色のカプセルで埋め尽くされていく。
「きれい……。命が生まれる音、聞こえるかな?」
ユッコは泡の中でシェルレックを構えた。
その瞳は、感動で潤んでいる。
彼女は深呼吸をし、静かに、けれど力強く告げた。
「この音もらった! 私が録っぴ!」
◇
♪~サンゴの産卵と、海中のワルツ
俺の周りを、無数の命が通り過ぎていく。
ここは巨大なコンサートホールであり、同時に母なる羊水の中だ。
聴覚センサーの感度を最大まで上げる。
水の抵抗、海流のわずかな乱れ、そして微小な気泡の破裂音までもを拾い上げる。
――ポコッ、ポコ、ポコン。
聞こえてきたのは、予想以上に可愛らしく、軽快な音だった。
サンゴのポリプから卵が解き放たれる瞬間、海水がわずかに弾ける音だ。
それはまるで、グラスに注がれたばかりのサイダーのよう。
シュワシュワ、パチパチ、ポコポコ。
無数の泡が立ち昇り、耳元でくすぐるように囁きかけてくる。
重厚で静寂な深海の世界にあって、この音だけが異質なほどに「生」のエネルギーに満ちている。
一つ一つの音は小さい。人間の耳なら聞き逃してしまうほどの微細なノイズかもしれない。
だが、それらが数億という単位で重なり合った時、それは壮大な「泡のワルツ」となる。
――スゥー、サラサラ……。
卵を追って、魚たちが泳ぐ音が重なる。
鰭が水を切る音。鱗が擦れ合う音。
彼らにとって、この卵はご馳走であり、次の世代への命のバトンでもある。
食うものと食われるもの。その残酷ささえも包み込んで、海はただ穏やかに揺れている。
ピンク色の粒が、月の光を受けてキラキラと輝きながら上昇していく。
俺は見上げる。
かつて、俺の命を奪った海。
息ができず、苦しくて、冷たかった記憶。
けれど今、俺の目の前にあるのは、圧倒的な「誕生」の光景だ。
死んだ岩の体を持つ俺の周りで、こんなにも多くの命が生まれようとしている。
その対比が、なぜだか酷く美しいと感じた。
俺はここにいてもいいのだろうか。
異物である俺が、この神聖な儀式に立ち会っても。
ふと、横を見る。
泡の中にいるユッコが、俺を見て微笑んでいた。
彼女の泡もまた、この無数の卵たちと同じように、海の中を漂う一つの命のカプセルだ。
ああ、そうか。
俺は、彼女を守るためにここにいる。
この美しい音が、未来へと繋がっていくのを、一番近くで見届けるために。
ポコッ、シュワッ。
一際大きな卵が、俺の目の前で弾けた。
まるで「おめでとう」と言っているかのように。
俺は心の中で静かに拍手を送った。
この広い海の、すべての新しい命たちへ。
~♪
◇
産卵のピークが過ぎ、海中が元の静けさを取り戻し始めた頃。
レムとユッコはゆっくりと浮上を始めた。
ザバァッ!
海面に顔を出すと、そこには満天の星空が広がっていた。
濡れた髪をかき上げ、泡の魔法を解いたユッコが、大きく深呼吸をする。
「ぷはぁーっ! おいしい空気!」
彼女は顔を紅潮させ、大切そうに抱えたシェルレックをレムに見せた。
「録れたよレム! 最高傑作! 『深海のバースデーソング』ってタイトルにしよっかな!」
興奮冷めやらぬ様子で語るユッコ。
レムもまた、海面から顔だけを出し、星空と海、そして笑顔の相棒を眺めていた。
岩の体は疲労を知らないが、心は満ち足りた心地よい重みを感じていた。
「さあ、陸に戻ろっか! お腹も空いたし、今日は奮発して海の幸パーティだね!」
ユッコがレムの肩に捕まる。
レムは彼女を背負い、静かな波をかき分けて岸へと歩き出した。
今回は、不吉な予兆も、世界の歪みも感じなかった。
ただ純粋に、美しい音と、命の輝きだけがあった。
そんな夜があってもいい。
嵐の前の静けさだとしても、今この瞬間だけは、二人の心は穏やかな波のようにシンクロしていた。
濡れた砂浜に、一人と一体の足跡が続いていく。
次なる音を求めて、旅はまだまだ続くのだ。




