第6話 雨宿りの森と、多重奏の雨音
その森に足を踏み入れた瞬間、遠近感が狂うような感覚に襲われた。
視界を覆うのは、天を突くほどの巨木と、人間など容易く包み込んでしまいそうな巨大な植物たちだ。
太古の雨林。
ここは、遥か昔から手付かずの自然が残る、緑の深淵である。
「うわぁ……見てレム! このシダ、私の背より高いよ! なんか自分が小人になったみたい!」
エルフの少女ユッコが、頭上に広がる巨大なシダ植物の葉を見上げて歓声を上げた。
彼女の歩幅に合わせてゆっくりと進むのは、岩の巨人レムだ。
湿気を帯びた空気が、彼の岩肌に重くまとわりつく。足元の腐葉土はふかふかと柔らかく、歩くたびに湿った土の匂いが立ち上った。
「それにしても、ムシムシするねぇ。サウナの中を歩いてるみたい」
ユッコが服の襟元をパタパタとあおぐ。額には玉のような汗が滲んでいた。
確かに、この森の湿度は異常だった。じっとりとした熱気が肌に張り付き、体力を奪っていく。
レムは心配そうにユッコを見下ろし、自分が持っている水筒を差し出した。
「ん、ありがとレム。……ぷはぁっ! 生き返るぅ!」
冷たい水を飲み干し、ユッコが笑顔を見せたその時だった。
頭上の緑の天蓋が、急に暗くなった気がした。
風が止まる。
森の生き物たちの鳴き声が、一斉に途絶える。
「……あれ?」
ユッコが空を見上げた瞬間。
ザァァァァァァッ!!
バケツをひっくり返したような、いや、滝の中に飛び込んだかのような豪雨が降り注いだ。
スコールだ。熱帯特有の突発的な雨である。
「ひゃああっ!? 冷たっ! すごっ!」
『グォッ!(こっちだ!)』
レムは咄嗟にユッコの手を取り、近くにあった巨大な古木の根元へと引き寄せた。
板根と呼ばれる板状の根が壁のように張り出しており、ちょっとした窪みができている。
レムはその窪みにドカッと腰を下ろすと、さらに覆い被さるように背中を丸め、その懐にユッコを招き入れた。
巨大な岩の体と、大樹の根。その二つに挟まれた空間は、完璧な雨宿りのシェルターとなった。
外の世界は白い雨のカーテンに閉ざされているが、レムの腕の中だけは安全地帯だ。
「ふぅ……びっくりしたぁ。ありがとね、レム。レムがいなかったら、今ごろずぶ濡れになるとこだったよ」
ユッコはレムの胸板(といっても硬い岩だが)に背中を預け、安堵の息を吐いた。
至近距離にある彼女の顔が、雨に濡れて少し色っぽく見える。
ふと、ユッコがレムの腕に触れた。
「あら、ここ。苔が生えてる」
彼女は懐からハンカチを取り出すと、レムの腕や肩についた苔や汚れを、丁寧に拭い始めた。
湿気の多い森を歩いたせいで、岩の表面に薄っすらと緑が萌え始めていたのだ。
ゴシゴシ、キュッキュッ。
まるで愛車の手入れをするかのような、あるいは大きなペットの毛並みを整えるかのような、優しい手付き。
言葉を持たないレムにとって、こうした触れ合いこそが、彼女との対話の時間でもあった。
「んー、綺麗になった! やっぱりレムの体は、このスベスベした手触りが一番だね」
ユッコは満足げに頷くと、拭き上げたばかりのレムの腕に頬を寄せた。
「レムってさ、触るとひんやりしてて硬いけど……」
彼女は目を閉じ、スーッと鼻から息を吸い込む。
「なんだか、落ち着く匂いがするね。雨の匂いと、土の匂い。ずっと昔からここにあったみたいな、安心する匂い」
その言葉に、レムの胸の奥が温かくなるのを感じた。
ただの岩塊である自分に「匂い」や「安心」を感じてくれる。それが何よりも嬉しかった。
彼は少し照れくさそうに、身じろぎをして岩のこすれる音を立てた。
その時だ。
外の雨音が、変わったことに気づいたのは。
バララッ、ボボボンッ。
カカン、ポポン、タタタッ……。
単なる雨音ではない。何かが叩かれるような、軽快でリズミカルな音が森に響き渡り始めたのだ。
「えっ? 何この音……太鼓?」
ユッコが身を乗り出して外を見る。
視線の先には、大きな団扇のような葉を持つ植物の群生があった。
『太鼓葉』だ。
分厚く、弾力のあるその葉は、叩くと太鼓のような音がすることで知られている。
大きさも厚みもまばらな無数の葉に、大粒の雨が打ち付けているのだ。
「すごい……! 雨粒が演奏してるみたい!」
大きな葉は低い音でボボン。小さな葉は高い音でカカン。
それらがランダムに、しかし絶妙な間隔で降り注ぎ、森全体を巨大な打楽器に変えている。
「これだよレム! こんな楽しい雨音、聞いたことない!」
ユッコの瞳が、ハンターのそれに変わる。
彼女はレムの懐から少しだけ身を乗り出し、背嚢からシェルレックを引っ張り出した。
吹き込む雨も構わずに、彼女は満面の笑みで叫ぶ。
「この音もらった! 私が録っぴ!」
◇
♪~太古の雨林のパーカッション・セッション
俺の意識は、薄暗い森の空気へと溶け込んでいく。
指揮台に立つときと同じ、心地よい緊張感。
だが、今の俺は指揮者ではない。この壮大なセッションの一人の聴衆だ。
――ババララッ、タタン。
聞こえてくるのは、天然のジャズ・セッションだ。
主旋律はない。あるのは、無限に刻まれるリズムだけ。
空から降り注ぐ何億という雨粒たちが、スティックとなって森を叩く。
目の前にある、直径一メートルほどの巨大な太鼓葉。
あれはバスドラムだ。
大粒の滴が中央にヒットするたびに、ボゥン、と腹に響く重低音を放つ。
葉の表面張力がトランポリンのように雨粒を弾き返し、その反動で葉全体が揺れ、空気を震わせる。
その横にある、硬く乾いた若葉たち。
あれはスネアドラムか、あるいはコンガか。
カカッ、パパンッ、タカタッ。
鋭く、乾いた音が、湿った空気の中で小気味よいアクセントを生む。
そして、地面にできた水たまり。
ピチャッ、パシャーン。
これはシンバルだ。
水面に落ちた雫が王冠のような形に跳ね上がり、砕け散る。その飛沫がまた別の葉を叩き、予測不能な連鎖でゴーストノートを生み出していく。
楽譜なんてない。
風の悪戯で雨の軌道が変わるたびに、リズムは変幻自在に姿を変える。
四分の四拍子かと思えば、突然の変拍子。
激しい連打が来たかと思えば、ふっと音が途切れる休符。
この不規則な「揺らぎ」こそが、計算された音楽にはない、生物的なグルーヴを生んでいるのだ。
――ボボボン、タタッ、ピチャン。
俺は岩の指先で、地面を叩いてリズムを取る。
楽しい。純粋に、楽しい。
音大時代、練習室にこもってメトロノームと向き合っていた時には感じなかった、野生音の喜び。
世界は、こんなにも豊かな音で満ちていたのか。
隣を見る。
ユッコが、俺の真似をして膝を叩いている。
リズム感は……まあ、ご愛嬌だ。少しズレているのが、彼女らしくて微笑ましい。
雨に濡れた金髪が、額に張り付いている。
けれど、その横顔は、どんな着飾った貴婦人よりも生き生きとして美しかった。
俺たちは今、特等席にいる。
太古から続く森の、一期一会のライブハウス。
観客は、俺と、彼女と、静かに佇む木々たちだけ。
降り止まないでくれ、とすら思う。
この冷たくて熱いセッションに、いつまでも身を委ねていたかった。
~♪
◇
一時間ほど続いた狂騒は、嘘のように唐突に終わった。
厚い雲が割れ、木漏れ日が差し込んでくる。
雨上がりの森は、洗われたばかりの宝石のようにキラキラと輝いていた。
「はぁー……すごかったねぇ! 名演だった!」
ユッコがシェルレックを大切そうにしまいながら、大きく伸びをする。
レムもまた、固まっていた体をほぐすようにゆっくりと立ち上がった。
足元の水たまりに、青空が映り込んでいる。
「さ、行こっか! 服も乾かさないと……うっ」
立ち上がろうとしたユッコが、不快そうに顔をしかめた。
「……なんか、変じゃない?」
彼女の言う通りだった。
雨が上がったというのに、気温が下がるどころか、むしろ上がっているのだ。
地面から立ち上る湯気が、視界を白く染めるほどに濃い。
まるで、熱したフライパンの上に水を撒いた直後のようだ。
「普通、雨が降ったら少しは涼しくなるもんじゃん? なんでこんなに熱いの?」
ユッコが不思議そうに首を傾げる。
レムは、地面に手を触れた。
熱い。
直射日光で温められた熱さではない。もっと深い場所、大地の底から滲み出てくるような、不気味な熱量だ。
レムの脳裏に、不穏な予感がよぎる。
この世界で何かが起きている。
それは、「熱」に関わる何かだ。
だが、今の彼にはまだ、その全貌を掴むことはできなかった。
「ま、いっか! 早く森を抜けて、風が通るところに行こ! レム、競争だよ!」
ユッコはスカートの裾を絞ると、明るい声を上げて駆け出した。
彼女の背中を見つめながら、レムは一瞬だけ地面を見下ろし、それから重たい足取りで後を追った。
森の奥では、蒸し暑い静寂だけが、じっとりと二人を見送っていた。




