第5話 仙境の竹林と、酔拳パンダの急成長音
雲海を抜けたその先に広がっていたのは、物理法則を無視した幽玄の世界だった。
空に浮かぶ無数の岩山。そこから流れ落ちる滝は、雲の下へと霧散していく。
そして、その浮遊する島々を繋ぐように、鬱蒼とした竹林が広がっていた。
『紫雲の仙境』。
一年中、紫がかった霧に包まれたこの地は、俗世を離れた仙人たちが住まう秘境である。
「うわぁぁ……! 見てレム! 島が浮いてるよ! こんなことあるんだ!」
エルフの少女ユッコが、目をまん丸にして浮遊島を指差した。
彼女の隣に立つ岩の巨人レムもまた、青白く光る目を細めて周囲を見回していた。
足元の吊り橋は頼りなく揺れ、眼下には底の見えない雲海が広がっている。高所恐怖症の人間なら気絶しそうな光景だが、岩の体を持つ今の彼には、その絶景を楽しむ余裕があった。
霧の向こうから、風に乗って笹の葉が擦れ合う音が聞こえる。
サラサラ、サワサワ……。
静寂と湿気が支配する、神秘的な空間だ。
「ここなら、すごい音が録れそうだね! 行こうレム!」
ユッコが吊り橋を駆け抜ける。
その先に待ち受けていたのは、竹で作られた古びた庵だった。
庭先では、白と黒の毛並みを持つ獣人が、一升瓶を片手にふらふらと千鳥足で踊っていた。
丸い耳、垂れた目、そして愛嬌のある太鼓腹。
パンダ族だ。
「ヒック……うぃ~。酒が美味い、月が綺麗……ん?」
老パンダは、侵入者に気づくと、とろんとした目で二人を見た。
そして、レムの岩肌に視線が止まると、急にその目が武道家の鋭さを帯びた。
「ほほう……。こりゃあ、いい『木人』が歩いてきおったわい」
「え? 木人?」
ユッコが首を傾げた次の瞬間、老パンダの姿がかき消えた。
ドンッ!!
鈍い音が響き、レムの巨体が数メートル後ろへ弾き飛ばされた。
『グォッ!?』
レムは何が起きたのか理解できなかった。
ただ、胸の岩盤に、小さな掌底の跡がくっきりと残っている。
老パンダは、いつの間にかレムの懐に入り込んでいたのだ。
「硬度、重心、安定感……合格じゃ! 久しぶりに打ち込み甲斐のある稽古相手が見つかったわい!」
老人はニヤリと笑うと、独特の構えを取った。
酔拳だ。
ふらふらと無防備に見せかけながら、予備動作のない鋭い一撃を放つ、達人の技。
「ちょ、ちょっと! いきなり何すんの!?」
「問答無用! さあ、稽古の時間じゃあ!」
老パンダは聞く耳を持たず、再びレムに襲いかかった。
◇
それからは、一方的なサンドバッグ状態だった。
シュッ、バシッ、ドゴォッ!
老パンダの拳は、岩をも砕く威力を持っているが、不思議とレムの体を破壊することはなかった。表面に衝撃を浸透させ、芯に響くような打撃。
レムは防戦一方だ。岩の腕でガードを固めるが、老人の動きは水のように変幻自在で、隙間を縫って拳がねじ込まれてくる。
「レム! 逃げて!」
ユッコが叫ぶが、レムは逃げなかった。
もし自分が退けば、背後にいるユッコに被害が及ぶかもしれない。
彼は歯(のような岩)を食いしばり、不条理な攻撃の嵐を、その身一つで受け止め続けた。
ボロボロと岩の粉が舞い散る。
「いいぞ、いいぞ! その忍耐、まさに不動の山!」
上機嫌で連打を浴びせる老人。
その時、小さな影が二人の間に割って入った。
「いい加減にしてよっ!!」
ユッコだった。
彼女は、あろうことか老人が大切そうに抱えていた一升瓶をひったくり、それを高く掲げたのだ。
「これ、割っちゃうよ!?」
老人の動きがピタリと止まった。
「む、むむっ!? わしの秘蔵の『万年竹酒』が!」
「レムをいじめないで! レムは私の大事な相棒なの! ただの修行道具じゃないんだから!」
ユッコは涙目で、けれど一歩も引かずに老人を睨みつけた。
一升瓶を握る手は震えているが、その覚悟は本物だ。
老人は目を丸くし、それから「カッカッカ!」と豪快に笑い出した。
「なんとまあ、威勢のいいエルフの嬢ちゃんじゃ! 酒を人質……いや、酒質に取るとは、度胸がある」
老人は構えを解き、へなへなと地面に座り込んだ。
「悪かった、悪かった。あまりに良い岩肌だったもんで、つい血が騒いでしもうたわい。……わしは熊猫仙人のハオじゃ。許せ若者たちよ」
◇
誤解が解け(というか、酒を取り返したい一心で)、ハオ仙人は二人を庵に招き入れ、宴会を開いてくれた。
竹筒に入った料理と、香り高いお茶が振る舞われる。
「いやぁ、すまんかったの岩の兄ちゃん。お詫びに、とっておきのモンを見せてやろう」
ハオ仙人は酔っ払った赤い顔で、窓の外を指差した。
庭の中央に、一本だけ他とは違う、青く輝く竹の若芽が生えている。
直径はドラム缶ほどもありそうだ。
「あれは『龍竹』。百年に一度、満月の夜にだけ急成長する幻の竹じゃ。今夜がちょうどその日での」
「急成長……?」
「うむ。一夜にして天を突く大樹となる。その時の姿といったら、そりゃあ凄まじい生命の力じゃよ」
ユッコの耳がピクリと反応した。
生命の急成長音。
それは、間違いなくレア音源だ。
「見る! 絶対見る!」
宴会がお開きになり、深夜。
霧が晴れ、頭上に巨大な満月が輝く頃。
その時は訪れた。
ピシッ……。
静寂な竹林に、小さな亀裂音が響いた。
庭の龍竹が、淡い青色の光を放ち始める。
「始まるぞ」
ハオ仙人が盃を置く。
ユッコは庭に飛び出し、光る若芽の前に陣取った。
シェルレックを構える手つきは、いつになく慎重だ。
神聖な儀式に立ち会うような緊張感が漂っている。
「この音もらった! 私が録っぴ!」
ユッコの囁くような声と共に、録音スイッチが押された。
◇
♪~龍竹の急成長と、天へ昇る青い衝動
世界が青い光に染まり、俺の時間は引き伸ばされる。
目の前にあるのは、ただの植物ではない。大地に突き刺さった、緑色のロケットだ。
――ピキッ、パキィッ!
固い殻を破る音。
それは、卵が孵化する音にも似ているが、もっと硬質で、強引だ。
大地の底から吸い上げた膨大な水分と養分が、高圧ポンプのように茎の中を駆け上がってくる音が聞こえる。
ゴウウウウウ……。
それはまるで、地脈の奔流だ。
そして、爆発的な成長が始まる。
ミシッ! グググンッ! バキバキバキッ!
繊維が引きちぎれ、新しい細胞が瞬時に生成され、積み重なっていく音。
人間の目にも留まらぬ速さで、竹が空へと伸びていく。
一秒に数センチ、いや数十センチ。
成長という静かな営みが、ここでは暴力的なまでの速度を持って行われている。
空気が切り裂かれる音。
ヒュオンッ!
竹の先端が風を切り、雲を突き抜けようと加速する。
重力という足かせをあざ笑うかのような、一直線の上昇。
俺の岩の体が、空気の振動を受けてビリビリと震える。
痛いほどの生命力だ。
迷いがない。曲がらない。
ただひたすらに、あの高い月を目指して手を伸ばす、純粋で強烈な「欲求」の音。
――ポンッ! シュパッ!
節から枝が飛び出し、葉が展開する音が、リズミカルなパーカッションのように重なる。
花火のようであり、祝砲のようでもある。
青臭い若竹の香りが、爆風となって周囲に広がる。
その匂いと音は、俺の中にある「変わりたい」という焦燥感を刺激する。
岩のままの俺。成長しない体。
けれど、この竹のように、いつか俺も殻を破れるのだろうか。
グググ……ズドォォォォン!!
成長の頂点。
龍竹は雲を突き抜け、その先端が天空の領域に達したのだろう。
遠雷のような音が響き、成長が止まる。
残響の中で、竹林全体がざわめいている。
王の誕生を祝福するように。
圧倒的な「生」のビート。
それは、静謐な仙境の夜に刻まれた、あまりにも若々しく、鮮烈な青い傷跡だった。
~♪
◇
光が収まると、そこには見上げるような巨竹がそびえ立っていた。
先端は霞んで見えない。
先ほどまで足元にあった若芽が、今は天を支える柱となっているのだ。
「……はぁ、すごい。口開けっ放しになっちゃった」
ユッコが呆然と呟き、それから慌てて録音を止めた。
シェルレックが熱を持っている。あまりの音圧と生命エネルギーを吸い込んだせいだろうか。
「見事じゃったのぅ。百年に一度の宴、お前さんたちと見られて良かったわい」
ハオ仙人が満足げに髭を撫でる。
彼は懐から取り出した竹筒へ、巨竹に付着していた雫を汲み、レムに渡した。
「これは『龍竹のしずく』。成長した瞬間に節から採れる水じゃ。万病に効くと言われとるが、まあ、ただの美味い水かもしれん」
レムはそれを受け取り、丁寧に背嚢へしまった。
自分には必要ないかもしれないが、いつかユッコが怪我や病気をした時に役立つかもしれない。
「さて、夜も更けた。わしはもう一眠りするとしよう」
仙人は大きなあくびをすると、そのまま庭の岩の上でゴロリと横になり、瞬く間にイビキをかき始めた。
自由人だ。
だが、その寝顔はどこか寂しげでもあった。
「……ねえレム。あの仙人さん、ずっと一人でここを守ってるのかな」
ユッコが小声で囁く。
仙境の静けさが戻ってきた。
龍竹の葉が、サラサラと風に歌っている。
「強いってことは、孤独ってことなのかな」
レムは、いびきをかく老パンダと、夜空に伸びる孤独な龍竹を見上げた。
そして、自分の隣にいる小さなエルフを見た。
俺は岩で、強くて、孤独だった。
でも今は、騒がしいお前がいる。
『グォン(俺たちは二人だ)』
レムがユッコの肩にそっと手を置くと、彼女は安心したように微笑んだ。
「そうだね。二人なら、寂しくないもんね」
翌朝。
二人が庵を発つ時、ハオ仙人の姿はなかった。
ただ、吊り橋のたもとに、二日酔い覚ましの果物が二つ、置かれていただけだった。
霧の中へ消えていく龍竹を見納め、レムとユッコは次の旅路へと歩き出す。
その足取りは、竹のようにしなやかで、少しだけ強くなった気がした。




