第4話 極寒の氷瀑が奏でる、砕け散る硝子の狂詩曲
視界の全てが白に染まる世界。吐く息は瞬時に凍りつき、まつ毛には氷の粒が宿る。
ここは北の果て、極寒の街カッチコッチャ。
一年中雪と氷に閉ざされたこの地は、本来ならば生物の生存を拒む過酷な環境だ。しかし、街のあちこちから立ち上る白い湯気が、ここがただの凍土ではないことを証明していた。
豊富な地熱と温泉資源。それがこの極寒の地に、奇跡のような繁栄をもたらしていたのである。
「う"っ、さむさむさむ! 鼻水が凍ってツララになりそうだよぉ!」
エルフの少女ユッコが、モコモコの防寒着に身を包み、ガタガタと震えながら文句を言った。彼女のトレードマークである長い耳も、今は分厚い毛皮の帽子の中に隠されている。
その隣を、岩の巨人レムが悠然と歩いていた。彼にとってこの程度の寒さは、少し肌寒いかな、程度のものでしかない。むしろ、体表の岩が冷やされて引き締まる感覚は、悪くなかった。
街の大通りは、寒さに負けない活気に満ちていた。
分厚い毛皮をまとった獣人族、寒さに強いドワーフ族、そして観光客とおぼしき様々な種族が行き交っている。道の両側には氷で作られた彫刻が並び、屋台からは熱々のスープやまんじゅうの湯気が食欲をそそる香りを漂わせていた。
「まずは腹ごしらえ……の前に、資金調達だね! レム、良さげなお店を探そ!」
ユッコは寒さを紛らわせるように、ぴょんぴょんと跳ねながらキョロキョロと辺りを見回した。
彼女の目当ては、録音した「癒やしの音」を買い取ってくれるよろず屋だ。旅の資金も尽きかけており、ここらで一稼ぎしておきたいところだった。
やがて、一際大きな氷の看板を掲げた店が目に入った。『よろず屋アイシュン ~凍ったバナナからドラゴンの鱗まで~』と書かれている。
「ここにしよ! なんか面白そう!」
ユッコが勢いよく扉を開けると、カウベルがカランカランと軽快な音を立てた。
店内は外の寒さが嘘のように暖かく、雑多な商品が所狭しと並べられていた。カウンターの奥から、店主とおぼしき恰幅の良い女性が顔を出した。彼女は全身が真っ白な毛で覆われた、白熊族のようだ。
「いらっしゃい! おやまあ、可愛らしいエルフのお嬢ちゃんと、これまた立派なゴーレムさんだこと」
「こんにちは! 私、癒音ハンターのユッコって言います。こっちは相棒のレム! 今日はとびきりの音を持ってきたんですよ!」
ユッコは愛想よく挨拶をすると、レムの背嚢から数個のシェルレックを取り出し、カウンターに並べた。
「ふむ、癒音ハンターかい。最近は珍しいねぇ」
アイシュンと名乗った店主は、興味深そうに巻貝を手に取った。
ユッコが自信満々に再生ボタンを押す。
店内に響き渡ったのは、以前録音した癒音だった。
「ほほう……こいつはすげぇ。魂が震えるような重低音に、生命の神秘を感じるハーモニーだ。滅多に聞けるもんじゃないよ」
アイシュンは目を丸くして感心した様子を見せた。
「でしょでしょ!? おねぇさん、お目が高い!」
ユッコが得意げに鼻を鳴らす。
アイシュンは豪快に笑うと、カウンターの下から大きな革袋を取り出し、ジャラジャラと硬貨を積み上げた。
「気に入った! あたしは元気で威勢のいい若者が好きでねぇ。相場より色をつけて買い取らせてもらうよ!」
「やったぁ! ありがとうございまーすっ!」
提示された金額は予想以上だった。ユッコは満面の笑みで硬貨を袋に詰め込み、レムに向かってVサインを送った。レムも静かに親指を立てて応える。これで当分の間、旅の資金には困らないだろう。
「そうだ、せっかくこの街に来たなら、『氷瀑』を見ていくといいよ。この街一番の観光名所さ」
商談を終えたアイシュンが、地図を広げて教えてくれた。
「氷瀑?」
「ああ。街の北外れにある巨大な滝なんだがね、寒さで完全に凍りついちまってるんだ。その姿たるや、圧巻だよ」
しかも、とアイシュンは声を潜めるようにして続けた。
「あの滝はね、きっかり10年周期で一度だけ解凍されて、溜まっていた水が一気に放出されるんだ。その時の轟音と迫力といったら、それはもう言葉にできないほどさ。ま、残念ながら今年は前回の放出から8年目だから、その瞬間は見られないだろうけどね」
「ええーっ、残念! あと2年待てば、すっごい音が録れたかもしれないのにぃ」
ユッコは頬を膨らませて悔しがったが、すぐに気を取り直した。
「でも、凍った巨大な滝っていうのも見てみたい! 行こうレム、レッツゴー観光!」
◇
街から北へ歩くこと数十分。雪原の先に、それは姿を現した。
レムとユッコは、思わず息を呑んで立ち尽くした。
そこにあったのは、時が止まったかのような、圧倒的な青と白の絶壁だった。
高さ数百メートルはあろうかという巨大な滝が、流れ落ちるその瞬間の形のまま、完全に凍結しているのだ。
幾重にも重なる氷の柱は、まるで神殿の回廊のように荘厳で、太陽の光を浴びてダイヤモンドのように煌めいている。
飛沫の一粒一粒までもが空中で凍りつき、繊細なガラス細工のような造形美を見せていた。
「す……すごい……。言葉が出ないよ……」
お喋りなユッコが口を開けたまま絶句している。それほどの光景だった。
レムもまた、その自然の芸術に心を奪われていた。岩の眼球には、この世のものとは思えない美しさが焼き付けられている。
滝壺の周りには多くの観光客が集まり、口々に感嘆の声を上げながら、この奇跡の光景に見入っていた。
「ああ、やっぱり悔しいなぁ。これが全部溶けて流れ落ちるところ、見てみたかったなぁ……」
ユッコが氷の壁を見上げながら、未練がましく呟いたその時だった。
ピキッ。
静寂な雪原に、不釣り合いなほど鋭い音が響いた。
それは、硬いガラスに小さな亀裂が入った時のような、繊細で、しかし不穏な音だった。
「え……?」
ユッコが音のした方を見上げる。
レムの聴覚センサーも、その異変を捉えていた。
ピキピキッ……ミシッ……パキィィィン!
音は連鎖し、加速していく。
氷瀑の下部、滝壺に近いあたりに、蜘蛛の巣のような亀裂が走り始めたのだ。
白い稲妻が、青い氷の壁を駆け上がっていく。
「おい、嘘だろ……?」
「まだ周期じゃないはずだぞ!?」
「逃げろ! 崩れるぞ!」
観光客たちがパニックに陥り、我先にと逃げ出し始めた。怒号と悲鳴が飛び交い、辺りは騒然となる。
『グォッ!(ユッコ、危険だ、下がれ!)』
レムがユッコの前に出て、彼女を守ろうと腕を広げる。
しかし、ユッコの反応は彼の予想を裏切るものだった。
「……嘘、まさか……これって、大チャンス!?」
彼女の碧眼が、恐怖ではなく、興奮でキラキラと輝き出したのだ。
ユッコはレムの制止をすり抜け、あろうことか、崩壊が始まろうとしている氷瀑の方へと駆け出した。
「ちょっと待っててレム! こんな千載一遇のチャンス、逃すわけにはいかないよ!」
彼女は懐から未使用のシェルレックを取り出すと、崩れゆく巨大な氷の壁に向かって高々と掲げた。
逃げ惑う人々の波に逆らい、小さな体で仁王立ちするその姿は、向こう見ずな勇者か、あるいはただの命知らずか。
ユッコは深呼吸をし、震える指先で録音スイッチに触れた。
そして、いつもの台詞を、今までで一番大きな声で叫んだ。
「この音もらった! 私が録っぴ!」
その瞬間、世界が崩壊を始めた。
◇
♪~カッチコッチャ凍結瀑布の粉砕爆裂激流
心の指揮棒を構えた俺の周囲で、時間がその流れを緩やかに変えていく。
逃げ惑う人々の悲鳴や足音は遠ざかり、意識は目の前で始まろうとしている、自然界最大のスペクタクルへと集中していく。
始まりは、一本の白い雷だった。
滝壺の底、氷の根元から生まれた亀裂が、音速を超えて蒼穹へと駆け上がる。
ピシィィィィン!
鼓膜を引き裂くような高周波の音が、開演のブザーだ。
それを合図に、数百メートルに及ぶ巨大な氷の壁が、内部から悲鳴を上げ始めた。
ミシミシ、ギリギリ、バキバキ……。
8年もの間、莫大な水圧と重力に耐え忍んできた氷の巨人たちが、断末魔の叫びを上げている。
それは恐怖を誘う音だ。
だが同時に、抗いがたい魅力を秘めた、破壊の旋律でもあった。
そして、臨界点が訪れる。
ドォォォォォォォン!!
氷瀑の中腹が、内側からの圧力に耐えきれず、爆発したように弾け飛んだ。
視界が真っ白な破片で埋め尽くされる。
カシャァァァァン! パリィィィィン! ジャラァァァァ……。
それは、世界中のガラスというガラスを一箇所に集めて、一斉に叩き割ったかのような音だった。
厚いガラス、薄いガラス。強化ガラス、すりガラス。
大小様々な氷の塊が互いに衝突し、砕け、擦れ合う。
鋭利な破片が風を切り裂くヒュンヒュンという音、巨大な塊が地面を叩くズシンという重低音。
それら無数の音が複雑に絡み合い、カオスでありながらも、どこか数学的な美しさを持った「破壊の交響曲」を奏でている。
だが、真の主役は遅れてやってきた。
氷の牢獄から解き放たれた、水の怪物だ。
ゴオオオオオオオオオッ!!
8年間、氷壁の裏側で息を潜め、蓄えられてきた莫大な量の水が、決壊したダムのように一気に溢れ出したのだ。
それはもはや「流れる」という表現では生ぬるい。
怒涛の奔流が、砕け散った無数の氷塊を飲み込み、噛み砕きながら、滝壺へと雪崩れ落ちていく。
その音は、何万頭もの野獣が同時に咆哮しているかのようだ。
大地が揺れ、空気が震える。俺の岩の体さえもが、その圧倒的な音圧に共振し、ビリビリと痺れているのがわかる。
滝壺に激突した水流は、行き場を失って爆発的な水しぶきを上げ、四方八方へと飛散した。
視界が霧で覆われ、何も見えなくなる。
……やがて。
轟音が少しずつ遠ざかり、霧が晴れていく。
俺は息を呑んだ。
そこには、空にかかる巨大な虹があった。
巻き上げられた水煙と氷の粒に、傾きかけた太陽の光が反射し、七色の光の橋が架かっているのだ。
破壊の後に訪れた、あまりにも幻想的な静寂と美。
ああ、なんて綺麗な虹だ。
今日はいいことあるかもな。
いや、違う。もう、あったんだ。
今、この瞬間、俺たちは歴史的な音の証人となったのだから。
~♪
◇
轟音が収まり、静けさが戻った雪原に、ユッコの歓喜の声が響き渡った。
「と、録れたぁぁぁぁっ! 奇跡! これぞ奇跡の録音だよレムぅぅぅ!」
彼女は全身ずぶ濡れになり、髪も服も氷の粒だらけだったが、そんなことはお構いなしにシェルレックを抱きしめて飛び跳ねていた。
レムもまた、ユッコを守りながら飛んできた氷塊を体で受け止めていたため、あちこちが傷だらけになっていたが、相棒の無邪気な笑顔を見て、安堵の息を漏らした(ような仕草をした)。
「見てレム! あの虹、すっごく綺麗!」
ユッコが空を指差す。滝壺の上に架かる巨大な虹は、まだその輝きを失っていなかった。
よく見ると、その虹の光の中を、何かがキラキラと光りながら泳いでいるのが見えた。
「あれ……魚? 空を飛んでる?」
それは、手のひらサイズの美しい小魚たちだった。体自体が七色に発光し、虹の光に溶け込むように、優雅に宙を舞っている。
『グォン?(なんだあの魚は)』
「もしかして……『七色発光長眠浮遊魚』!? 図鑑で見たことある! 氷の中で何十年も冬眠して、氷が溶けた時だけ目覚めて空を泳ぐっていう、幻の魚だよ!」
8年ぶりの解放を祝うように、魚たちは群れをなして乱舞していた。
その中の一匹から、ひらりと一枚の鱗が剥がれ落ちた。
鱗は風に乗ってユッコの方へと舞い降りてくる。彼女がそっと手を差し出すと、それはガラス細工のように繊細な音を立てて、彼女の手のひらに収まった。
宝石のように美しく輝く、七色の鱗だった。
「わぁ……メチャント綺麗。これ、お土産にしよっと!」
ユッコは嬉しそうに鱗を太陽にかざした。
危機一髪の状況だったが、結果的には最高の音と、素敵なお土産まで手に入れたわけだ。彼女の強運と行動力には、レムも脱帽するしかない。
だが、レムの心の中には、一つの疑念が渦巻いていた。
(……なぜ、予定よりも2年も早く氷瀑が崩れたんだ?)
ここカッチコッチャは極寒の地だ。しかし、豊富な温泉が湧き出る地熱の高い場所でもある。
氷瀑が予定より早く解けたのは、大地が暖かくなっているってことか?
(何かが、おかしい。この世界で、何かが起き始めている……)
レムは足元の地面を見つめた。
分厚い氷雪の下で、大地の熱が不気味に脈動しているような気がしてならなかった。
「さーて、大収穫だったね! 体も冷えちゃったし、今日は奮発して温泉宿に泊まっちゃおっか! レムも一緒に入れる露天風呂があるところがいいな!」
能天気なユッコの声が、レムの思考を現実に引き戻す。
彼女はまだ、この世界の異変には気づいていないようだ。
(まあいい。今はまだ、確証もない推測だ)
レムは考えるのをやめ、ユッコの後を追った。
(今はただ、この騒がしくも愛おしい相棒との旅を続けるだけだ)
二人の背後では、崩れ去った氷瀑の跡地で、七色の魚たちがいつまでも楽しげに舞い踊っていた。
次なる音を求めて、凸凹コンビの旅は続く。




