最終章③ 一時の休息と、突破口
世界の最深部は、物理法則が悲鳴を上げる灼熱の地獄だった。
視界を埋め尽くすのは、天まで届く赤黒い絶壁――『熱脈鎮響壁』だ。
ドクン、ドクンと不気味に脈打つその壁は、まるで飢えた野獣の口腔のように、周囲のあらゆるエネルギーを貪り食っていた。
ゴオオオオオオ……!
凄まじい吸引音が響く。音だけではない。光も、魔力も、そして熱さえもが、壁の中心にある「裂け目」へと吸い込まれていく。
その裂け目の手前で、一人のエルフの男性が膝をついていた。
白衣は焼け焦げ、杖を持つ手は震えている。彼が展開していた青白い結界は、今や風前の灯火のように頼りなく揺らめいていた。
「パパッ!!」
ユッコの悲鳴のような叫びが、轟音を切り裂いた。
岩の巨人レムの側にいた彼女は、即座に父エルフ――シンシクルの前へと躍り出た。
全身の岩がキシリと鳴る。
レムは仁王立ちになり、その広大な背中で、壁から放たれる熱波と吸引力の奔流を受け止めた。
ジュッ、ジュワワァ……。
岩の表面が瞬時に赤熱し、溶け始める音がする。
だが、レムは一歩も引かない。歯車と音叉の刻印が刻まれた胸板を張り、相棒の父親を守る「盾」と化した。
「ユッコ……!? なぜここへ……!」
シンシクルが掠れた声で叫ぶ。その瞳には、信じられないものを見る驚愕と、娘の無事を確認した安堵が入り混じっていた。
「助けに来たの! パパを一人になんかさせない!」
「バカな……! 逃げろ! 私の魔力はもう尽きる。壁の暴走は止められない!」
シンシクルの言葉を裏付けるように、壁の脈動が激しくなった。
レムの巨体をもってしても支えきれないほどの、圧倒的な吸引圧力。
このままでは、全員が壁の養分として飲み込まれてしまう。
「ユッコ! 持っているか!?」
シンシクルが必死の形相で叫んだ。
「私が渡したシェルレックだ! あの『チャイムの音』を鳴らすんだ! 今すぐに!」
ユッコはハッとして、腰のポーチをまさぐった。
旅の間、ずっと肌身離さず持っていた、父の形見代わりの宝物。
彼女は震える手でそれを取り出し、壁に向かって掲げた。
「お願い……! パパを助けて!」
彼女がスイッチを押し込む。
その瞬間、灼熱の地獄に、場違いなほど牧歌的な旋律が響き渡った。
――キーン、コーン、カーン、コーン……。
低音質で、ノイズ混じりの電子音。
夕暮れの田園風景を告げる、『夕焼小焼』のチャイム。
魔力など欠片も含まない、ただの空気の振動。
ピタリ。
壁の動きが止まった。
ゴボッ……ガガッ……。
掃除機に異物が詰まったような、不快な音が壁の奥底から響く。
滑らかだった吸引の流れが乱れ、壁の表面が痙攣するように波打ち始めた。
壁は混乱していた。この世界には存在しない、消化できない「異物」を喉に詰まらせたのだ。
「今だッ!」
その隙を見逃さず、シンシクルが杖を振り上げた。
残った魔力を総動員し、乱れた壁のエネルギー流を強制的に縫い合わせる。
結界が再構築され、致命的な熱波が一時的に遮断された。
◇
一時の休息が訪れた。
壁はまだ不気味に唸ってはいるが、先ほどまでの「全てを食らい尽くす」勢いは削がれている。
「はぁ……はぁ……」
シンシクルがその場に崩れ落ちる。
ユッコが駆け寄り、その体を抱き起こした。
「パパ! 大丈夫!?」
「ああ……なんとか、な。ユッコ、大きくなったな……」
シンシクルは焦げた手袋を外し、愛おしそうに娘の頬に触れた。再会の喜びを噛み締める間もなく、彼は鋭い視線を傍らの巨人に向けた。
「……さて。説明してもらおうか」
その目は、研究者としての冷徹な光を帯びていた。
「お前は、私が作った『試作三号機』だな? 日本海溝への着水事故でロストしたはずの機体だ。なぜここにいる? いや、それよりも……」
シンシクルはレムの目の前に立ち、その青白く光る岩の瞳を覗き込んだ。
「その動き。ユッコを庇う判断力。そして何より、言葉を持たぬ身でありながら、明確な『意志』を感じるその瞳……。ただの自律プログラムではないな?」
レムは、隠すつもりはなかった。
彼は静かに頷き、自分の胸を叩いた。ここには心がある、と示すように。
「やはりか。事故のショックか、あるいは魔力的な因果か……。お前の中には今、『向こう側の世界(日本)』の人間の魂が入っているな?」
図星だった。
ユッコが驚いて声を上げる。
「えっ!? レムの中身って、人間だったの!? しかも、パパが目指してた異世界の人!?」
レムはようやく真実を知ってもらうことができた安堵で、隠していたつもりは無かったが申し訳なさそうに頭をかき(岩が削れる音がした)、ユッコに向かって深く頷いた。
ユッコは目を丸くしたが、すぐに破顔した。
「そっかぁ! だからチャイムの音を聞いた時、あんなに懐かしそうな態度をしてたんだ! なんだ、もっと早く言ってくれればよかったのに!」
彼女の適応能力の高さには救われる。
だが、事態は深刻だった。
シンシクルは苦渋の表情で、再び壁を見上げた。
「……私の狙いは、壁に『異界の雑音(毒)』を食わせて、消化不良を起こさせることだった。だが、計算が甘かった」
彼は壁を指差す。
さっきチャイムの音で苦しんだはずの壁が、再びゆっくりと脈動を再開し始めていた。
「壁は学習するのだ。同じ『毒』は二度と効かない。チャイムの音はもう解析され、抗体ができてしまった。次に同じ音を聞かせても、栄養として吸収されるだけだろう」
手持ちのカードは切れた。
このままでは、数時間後には壁が完全に復活し、世界は大静寂と熱暴走によって滅びる。
「なら、どうすればいいの!?」
ユッコの問いに、レムが一歩前に出た。
彼は指で遠くを指し示し、それから自分の胸を叩き、そして「持ってくる」というジェスチャーをした。
俺の世界には、もっとたくさんの音がある。
チャイムだけじゃない。工事現場の音、雑踏の音、電車の音。
壁がまだ知らない、強烈な「毒」のフルコースを持ってくればいい。
「……なるほど。お前の世界へ帰り、新たな音源を調達してくる、と言いたいのだな」
シンシクルはレムの意図を正確に読み取った。
ユッコも身を乗り出す。
「それだよ! レムの世界へ行って、新しいシェルレックいっぱいに音を詰め込んで帰ってくればいいんだ!」
しかし、シンシクルは首を横に振った。
「不可能だ。次元を超える負荷は、生半可なものではない」
彼はレムの岩の体を指差した。
「お前が今、その姿でいられるのは、頑強なゴーレムの『器』があるからだ。だが、日本へ戻るには、その器を捨てて『魂』だけで転移しなければならない。生身の魂で次元の狭間を通れば、自我は砕け散り、二度と戻っては来れん」
さらに、と彼はユッコを見る。
「ユッコも連れて行くつもりだろうが、論外だ。エルフの肉体など、次元圧力の前では紙切れ同然。瞬時に消滅する」
行き詰まった。
壁を止めるには日本の音が必要。
だが、音を取りに行くための手段がない。
「……ああ、もしも伝説の秘宝があれば話は別なのだがな」
シンシクルは自嘲気味に呟いた。
「『千年歌姫の真珠』……。千年の時を生きた巨大な貝の体内で生成される、虹色の真珠だ。あれには魂をカプセルのように保護する絶対的な防御力がある。あれをインクにして魔法陣を描けば、どんな次元の嵐も無傷で渡れるのだが……」
そんなおとぎ話のようなアイテム、今から探して見つかるはずもない。
シンシクルが諦めかけた、その時だった。
「……えっと、パパ。それって、こんなやつ?」
ユッコがおずおずと、ポケットから何かを取り出した。
薄暗い地底湖の闇の中で、それは自ら発光するかのように、幻想的な虹色の輝きを放った。
小指の先ほどの、美しい真珠。
「なッ……!?」
『グォッ!?』
シンシクルとレムが、同時に目を剥いて凝視した。
紛れもない。伝説の、千年歌姫の真珠だ。
「ど、どこでそれを手に入れたんだ!?」
「えっと……龍都の中華料理屋さんで、チャーハン食べてたら入ってたの。『おまけ』だね!」
チャーハンのおまけで世界を救う秘宝が出てくるか。普通。
シンシクルは口をパクパクと開閉させ、それから頭を抱えて天を仰いだ。
「……ははっ。どうやら運命の女神は、とんでもない気まぐれ屋か、あるいは私の娘の味方らしい」
彼は真珠をひったくるように受け取ると、猛烈な勢いで準備を始めた。
真珠を乳鉢ですり潰し、特殊な溶解液と混ぜ合わせる。
虹色に輝く、美しいインクが完成した。
「いいか、よく聞け。これがラストチャンスだ」
シンシクルは筆を取り、レムの岩の左手の甲と、ユッコの右手の甲に、複雑な魔法陣を描き始めた。
インクが肌に触れると、温かな光となって染み込んでいく。
「この魔法陣は、日本との間を『一往復』だけ繋ぐ切符だ。行きと、帰り。それですべての魔力を使い果たす」
彼は真剣な眼差しで二人を見据えた。
「時間の流れは異なる。お前たちが日本へ行っている間、こちらの時間はほぼ停止する。だから焦る必要はない。向こうで十分に音を集め、準備を整えてから戻ってこい」
書き終えた魔法陣が、脈動するように輝き出す。
「レムと言ったな。……娘を、頼む。あの子は無茶をする。お前が手綱を引いてやってくれ」
レムは背筋を伸ばし、深く、力強く頷いた。
任せてくれ。必ず守り抜く。そして、最高の音と共に帰ってくる。
その意志を込めて、彼はシンシクルに向かって親指を立てた。
「パパ……」
ユッコが泣きそうな顔で父を見る。
シンシクルは優しく微笑み、娘の背中をポンと押した。
「行きなさい。そして、私に見せておくれ。お前たちが奏でる、世界を救う大合奏を」
「……うん! 行ってきます!」
ユッコがレムの手を握る。
冷たくて硬い岩の手と、温かくて柔らかいエルフの手。
二人の手が重なった瞬間、魔法陣が強烈な光を放った。
「座標固定、対象・日本! 転送開始!」
視界が白く染まる。
重力が消える。
灼熱の熱気も、壁の唸り声も、父の声も、全てが光の彼方へと遠ざかっていく。
レムの意識が、岩の体から引き剥がされていく感覚があった。
だが、恐怖はない。
虹色の膜が、優しく魂を包み込んでいるのがわかる。
そして隣には、しっかりと手を握り返してくるユッコの温もりがあった。
さあ、帰ろう。
懐かしくて騒がしい、俺の故郷へ。
そして持ってこよう。この静寂の世界をぶっ壊す、最高にうるさいお土産を。
光が収束し、二人の姿は最深部から消失した。
後には、静かに微笑む父と、不気味に沈黙する巨大な壁だけが残された。




