第19話 巨人の台所と、大包丁の断裁音
雲海が、足下にはるか彼方で広がっていた。
ここは世界の屋根、雲よりも高い場所にある秘境「サイクロプス・ハイランド」。
標高数千メートル。本来なら酸素が薄く、生物の生存すら危ぶまれる過酷な環境だが、この台地には不思議な魔力が満ちており、平地と変わらぬ――いや、それ以上に濃密な空気が漂っていた。
「はぁ、はぁ……。ねえレム、まだ着かないのぉ? もう足が棒どころか、針になっちゃうよぉ……」
エルフのユッコが、杖代わりの木の枝にすがりつきながら情けない声を上げた。
彼女の背丈ほどもある巨大なシダ植物をかき分け、道なき道を進む。
岩の巨人であるレムは、涼しい顔(表情筋はないが)で、巨大な岩肌の斜面を登っていた。彼の無尽蔵のスタミナと、悪路をものともしない健脚は、こうした登山でこそ真価を発揮する。
『グォッ(もうすぐだ。ほら、あれを見ろ)』
レムが指差した先には、あり得ない光景が広がっていた。
巨大な石積みの壁。そして、山のような切妻屋根。
家だ。
ただし、そのサイズがおかしい。玄関の扉だけで高さ二十メートルはあるだろうか。庭先に転がっているバケツでさえ、市民プール並みの大きさがある。
「うわぁ……でっか……。私たちが小人になったみたい」
ユッコがポカンと口を開けて見上げる。
そう、ここは一つ目巨人「サイクロプス」の隠れ里。
普段は「見上げる側」である巨体のレムでさえ、この場所では豆粒のような存在になってしまう、「サイズ感の逆転」した世界なのだ。
◇
二人は、村外れにある一際大きな石造りの家へと近づいた。
煙突からはもくもくと白煙が上がり、何とも言えない芳醇な香りが漂ってくる。煮込み料理の匂いだ。
「くんくん……いい匂い! これ絶対おいしいやつだ!」
空腹のユッコが匂いに釣られてフラフラと開いた扉の隙間から中へ入る。レムも慌てて後を追った。
家の中は、体育館を数個繋げたような広大な空間だった。
中央には巨大な竈があり、大鍋がグツグツと煮立っている。そして、その前に立つ巨影があった。
身長十五メートルはあろうかという、岩のような筋肉の塊。
額の中央に、ギョロリとした大きな瞳が一つ。
サイクロプスだ。
彼は腰に巨大な布を巻き、巨木のようなお玉で鍋をかき混ぜていた。
「おや? なんだ、ネズミか?」
サイクロプスの野太い声が、大聖堂のパイプオルガンのように室内に響き渡る。
彼は足元にいる二人に気づくと、興味深そうに屈み込み、太い指でユッコをつまみ上げた。
「ひゃあぁぁぁっ! た、食べないでぇぇ!」
ユッコが手足をバタつかせる。
サイクロプスは彼女を鼻先に近づけ、くんくんと匂いを嗅いだ。
「ふむ。柔らかそうな肉だが、小さすぎて腹の足しにもならんな。……そっちの塊はどうだ?」
ギョロリとした単眼がレムに向けられる。
レムは直立不動で立ち尽くしていた。
勝てない。
直感がそう告げている。普段なら怪力自慢のゴーレムとしてならしているレムだが、この質量差は絶望的だ。デコピン一発で粉砕されるビジョンが見える。
「……まあいい。スープの出汁くらいにはなるだろう。お前ら、鍋に入りな」
サイクロプスが無慈悲な提案をする。
ユッコが顔面蒼白で悲鳴を上げる中、レムは咄嗟に動いた。
戦うためではない。
彼は部屋の隅に積まれていた、白く輝く岩の塊――巨大な岩塩の結晶に目をつけたのだ。
レムは全力疾走し、その岩塩の塊に抱きつくと、自らの硬い岩の腕をヤスリのように擦り付けた。
ガリガリガリガリッ!!
豪快な音が響き、削り取られた塩の粉雪が舞う。
レムはその塩を両手いっぱいに抱え、サイクロプスの足元にある空の皿に提示してみせた。
そして、沸騰する大鍋を指差し、サムズアップをする。
『グォッ! ゴゴッ!(味付けが足りないんだろ! これを使え!)』
サイクロプスは片眉を上げ、レムが差し出した塩を指先で舐めた。
そして、鍋の味見をする。
「……ふむ。確かに、ちと味がボケていたところだ。気が利く石ころだな」
サイクロプスはニヤリと笑うと、つまみ上げていたユッコをそっと床に降ろした。
「気に入った。俺は料理研究家のガストンだ。出汁にするのはやめて、客として扱ってやろう」
「は、はひぃ……助かったぁ……」
ユッコがへなへなと座り込む。
レムも心の中で冷や汗を拭った。どうやらこの巨人は、見た目に反して繊細な味覚と、職人気質の持ち主だったらしい。
◇
命拾いをした二人は、ガストンの好意で食事に招待されることになった。
案内されたのは、広大な台所の中央に鎮座するダイニングテーブルだ。
だが、そこにも問題があった。
「た、高い……。これじゃ座れないよぉ」
椅子一つとっても、ユッコにとっては断崖絶壁だ。座面によじ登るだけで日が暮れてしまう。
途方に暮れるユッコを見て、レムがスッと手を差し出した。
巨大な岩の手のひらを、地面と水平に広げる。
『グォン(乗れ)』
「あ、レム……! ありがとう!」
ユッコがちょこんとレムの手のひらに乗る。
レムは彼女を落とさないよう、慎重かつ滑らかに腕を持ち上げた。
ウィーン……という駆動音と共に上昇する視界。
あっという間にテーブルの高さまで到達する。
「わあぁ! すごいすごい! レムの動く床、最高!」
ユッコが歓声を上げ、レムの手のひらからテーブルへと降り立つ。
テーブルの上は、まるで広大な広場のようだった。
レムもまた、テーブルの縁に手をかけ、懸垂の要領で軽々とその上によじ登った。
二人がテーブルの端に腰掛けると、ちょうど良いベンチになった。
ユッコは足をぶらつかせ、楽しそうに笑っている。
「さて、仕上げといこうか」
ガストンが再び包丁を握った。
彼が手にしたのは、もはや包丁というより巨大な鉄板、いや、ギロチンの刃だ。
まな板の上には、丸太のように太いニンジンや、岩のようなジャガイモ、そして恐竜の肉塊が置かれている。
「メインディッシュの付け合わせだ。刻むぞ!」
ガストンが包丁を振りかぶる。
その迫力に、ユッコの目が輝いた。
「来る……! このサイズ、この重量感! 絶対にいい音がするはず!」
彼女は素早く背嚢からシェルレックを取り出した。
食欲を刺激する匂いと、圧倒的な質量の前で、彼女のハンターとしての本能が昂ぶる。
レムもまた、その瞬間に備えて神経を研ぎ澄ませた。
ユッコがシェルレックを掲げ、高らかに叫ぶ。
「この音もらった! 私が録っぴ!」
◇
♪~巨人族の調理、あるいは生命の打楽器
俺の意識が切り替わると同時に、世界から余計な色彩がフェードアウトしていく。
残るのは、まな板という名のステージと、ガストンという名のソリストだけだ。
振り上げられた鋼鉄の刃が、天井の明かりを反射してギラリと光る。
重力に従い、凶器のような質量が落下を始める。
空気が悲鳴を上げ、風圧が俺の岩肌を撫でる。
――ダンッ!!
最初の音が、腹の底に響いた。
それは単なる「切る音」ではない。大地を杭打ち機で叩いたような、重厚で破壊的なインパクト。
テーブルという大地が揺れ、俺とユッコの体がバウンドする。
ダンッ! ダンッ! ダンッ!
リズムが生まれる。
一定の間隔で刻まれる、断裁のビート。
丸太のようなニンジンが、鋼鉄の意志によって無慈悲に輪切りにされていく。
繊維が断ち切られる「ザクリ」という微細な音が、重低音の中に確かに混じっている。
切られたオレンジ色の円盤が、ハイスピードカメラの映像のようにゆっくりと宙を舞い、重なり合ってまな板の上に倒れる。
その様は、まるで鮮やかなドミノ倒しのようだ。
次は肉塊だ。
ズダンッ! バシンッ!
音質が変わる。
硬質な野菜の音から、湿り気を帯びた肉の音へ。
筋肉の繊維が悲鳴を上げ、脂が飛び散る音が、雨音のように周囲に降り注ぐ。
これは、生命の音だ。
生きるために、他の命を奪い、解体し、己の血肉へと変える。
その根源的な営みが、この圧倒的な音圧となって具現化している。
「いただきます」という言葉の前に存在する、荒々しくも神聖な儀式。
俺の脳裏に、オーケストラの大太鼓が重なる。
いや、それよりももっと原始的な、祭りの太鼓だ。
五臓六腑を震わせる振動。
生きていることへの、圧倒的な肯定感。
ガストンの額から汗が飛び散る。
彼は笑っている。料理ができる喜び、食べる喜び、振る舞う喜び。
その感情が、包丁を通じてまな板へと伝わり、音となって世界へ拡散される。
ダダダダダダダンッ!!
ラストスパート。
みじん切りの連打。
それはもはや雷鳴だ。
機関銃のようなリズムが空間を埋め尽くし、俺の思考さえも白く塗り潰していく。
激しく、熱く、そしてどこか温かい、食卓のドラム・ソロ。
――ダンッ。
最後の一撃が振り下ろされ、完璧な静止が訪れる。
立ち上る食材の香気。
余韻として残る、テーブルの微かな震え。
ああ、腹が減った。
岩の体を持つ俺でさえ、そう思わずにはいられない、極上の「メシの音」だった。
~♪
◇
「すっご……! お腹にズシズシ来たぁ!」
録音を終えたユッコが、興奮冷めやらぬ様子でシェルレックを抱きしめた。
彼女の碧眼はキラキラと輝き、頬は高揚で赤く染まっている。
「これ、『空腹増進サウンド』として食堂とかに売ったら大人気間違いなしだよ! 聞いてるだけでヨダレが出てきちゃうもん!」
確かに、今の音を聞いて食欲を刺激されない者はいないだろう。
ガストンが豪快に笑いながら、切り分けた食材を鍋に放り込む。
ジュワァァァ……という音と共に、さらに濃厚な香りが立ち上った。
「さあ、出来上がりだ。食え食え!」
ガストンがユッコの前に置いたのは、深皿に入った特製シチューだ。
それがたとえ「小皿」であっても、お風呂くらいのサイズがある。
木のスプーン(これもスコップ並みの大きさだ)ですくって口に運ぶ。
「んん~っ! メチャントおいしい~!」
ユッコが頬を抑えて悶絶する。
野菜の甘みと肉の旨味が溶け出し、レムが削った岩塩が絶妙なアクセントになって全体を引き締めている。
体の芯から力が湧いてくるような味だ。
「ガハハ! いい食いっぷりだ。作り甲斐があるってもんよ!」
ガストンは満足そうに自身の杯を干した。
テーブルの上で、小さな二人と巨大な一人が食卓を囲む。
種族も、大きさも違う。
けれど、「美味しい」という感覚の前では、皆が平等だった。
レムは、隣で夢中になってシチューを頬張るユッコを見つめた。
彼女の足は、まだ宙ぶらりんに揺れている。
その背中を、レムの岩の指がしっかりと支えていた。
(……俺は普段、自分がデカいと思っていたが)
上には上がいる。世界は広い。
だが、どんなに世界が広くて大きかろうとも、俺が守るべき範囲は決まっている。
この手のひらに収まる、小さな相棒。
彼女が笑顔でいられる場所を守ること。
今の俺には、それだけで十分すぎるほど大きな役目なのだ。
『おかわり』
ユッコは空になった器を差し出した。
ガストンが「おうよ!」と応え、レムが「その小さな体のどこに入っていくんだ?」と笑う。
雲の上の巨人の台所に、温かな笑い声がいつまでも響いていた。




