第18話 一角獣の聖域と、清浄なる波紋
深い霧に覆われた森の入り口に、ひっそりと佇む集落があった。
「清めの里」と呼ばれるその場所は、かつて森の奥に住まう聖獣に仕えていた一族の末裔たちが暮らす、静謐な隠れ里だ。
木造の質素な家並みは、森の景観を乱さないように蔦や苔で覆われている。行き交う人々も皆、白や淡い青の民族衣装を身にまとい、その表情はどこか修行僧のように穏やかだった。
「わぁ……なんか、すっごく空気が澄んでるね。深呼吸するだけで、肺の中が丸洗いされそう!」
エルフのユッコが、大きく胸を張って深呼吸をした。
彼女の輝く金髪と、活動的な冒険者風の服は、この静かな里の中では少し目立つ。だが、里の人々は彼女を奇異な目で見ることはなく、むしろ隣を歩く岩の巨人――レムの方に、畏敬の念を含んだ視線を向けていた。
「おお、まさかゴーレム様がお見えになるとは。これは吉兆やもしれぬ」
杖をついた村の長老が、しわがれた声で呟き、レムに向かって深く頭を下げた。
レムは困惑しつつも、岩の首を小さく下げて会釈を返した。
どうやらこの里では、土や岩から生まれた存在は「大地の精霊に近いもの」として崇められているらしい。
「ふふん、すごいでしょ私の相棒! 岩肌もツヤツヤでメンテナンス済みですよー!」
なぜかユッコが得意げに胸を張る。彼女の物怖じしない明るさは、どこへ行っても変わらない。
長老は微笑ましそうに目を細め、二人に忠告を与えてくれた。
「この先、『迷わずの森』の最奥には、聖獣ユニコーン様の泉がある。だが、ユニコーン様は『清らかなる乙女』にしか心を許さない。心の穢れた者が近づけば、鋭い角で貫かれることもあろう。ゆめゆめ、粗相のないようにな」
「き、清らかな乙女……」
ユッコの表情がピクリと固まった。
彼女はチラリとレムを見上げ、小声で囁く。
「ねえレム。私、大丈夫かな? ほら、清らかさには自信あるけど……たまに宿代ケチって野宿させたり、レムに荷物全部持たせたりしてるし……」
『グォ、ゴッ(今更だな)』
レムは心の中でツッコミを入れつつ、大丈夫だ、と親指を立てた。
彼女のおしゃべりは騒がしいが、その魂は誰よりも真っ直ぐで、他人のために怒り、泣ける優しさを持っていることを、彼は知っているからだ。
◇
里を後にした二人は、鬱蒼とした森の中を進んでいた。
霧が立ち込め、視界は悪い。だが、レムの岩の体には、大地から微弱な磁気のような導きが伝わってきていた。聖域が彼を呼んでいるかのようだ。
数時間の行軍の末、視界がぱっと開けた。
そこは、森の緑に囲まれた円形の広場だった。
中心には、直径十メートルほどの泉がある。だが、その水は驚くほどに濁っていた。
黒く澱み、水面には灰色の泡が浮いている。森中の穢れや毒素を、この泉が一身に吸い寄せているかのようだ。
「ここが……ユニコーンの泉? なんか、思ってたのと違う……」
ユッコが不安そうに呟いたその時。
対岸の茂みが揺れ、白亜の輝きが姿を現した。
一角獣、ユニコーン。
雪のように白い体毛、しなやかな筋肉、そして額から伸びる螺旋状の鋭い角。
その姿は、神々しいという言葉が陳腐に思えるほどに美しかった。
「わぁ……っ! 本物だ……!」
ユッコが目を輝かせ、思わず一歩踏み出す。
伝説の聖獣との対面。癒音ハンターとして、また一人の少女として、心が躍らないはずがない。
彼女は両手を広げ、満面の笑みで歩み寄った。
「こんにちは! 私、ユッコっていいます! 怪しいものじゃ――」
ヒヒィィィンッ!
甲高い嘶きと共に、ユニコーンが前足を荒々しく踏み鳴らした。
その瞳は敵意に満ち、鋭利な角の切っ先が真っ直ぐにユッコに向けられる。
「ひゃっ!?」
ユッコが慌てて飛び退く。
ユニコーンはブルルと鼻を鳴らし、まるで「寄るな、俗物が」とでも言いたげに睨みつけた。
「う、嘘でしょ……!? 私、清らかじゃない判定!? 長老さんの言った通り、心が薄汚れた大人になっちゃったってこと!?」
ユッコがガクッとショックを受け、地面に手をついて項垂れる。
確かに彼女は、金貨の音には敏感だし、レアな音源のためなら危険地帯にも突っ込むたくましさがある。深窓の令嬢のような「清らかさ」とは少しベクトルが違うかもしれないが、そこまで拒絶しなくてもいいではないか。
レムは傷心の相棒を庇うように、静かに前に出た。
もし襲ってくるなら、この岩の体で受け止めるしかない。
覚悟を決めて対峙するレム。
しかし、ユニコーンの反応は劇的だった。
スッ……。
敵意が霧散し、ユニコーンは警戒心を解いてレムに歩み寄ってきたのだ。
そして、あろうことかレムのゴツゴツした腹部に、その美しい顔をスリスリと擦り付け始めたではないか。
『グォ?(……え?)』
「な、なんでぇぇぇ!? レムはいいの!? ただの岩の塊だから!?」
ユッコが理不尽さを嘆く叫び声を上げる。
レムも困惑した。
おそらく、岩石生命体であるレムには、人間やエルフのような「欲」や「業」がないと判断されたのだろう。あるいは、単にミネラル豊富な岩塩か何かだと思われているのかもしれない。
ユニコーンはレムの匂いを嗅ぎ、安心したように長い睫毛を伏せた。
レムはためらいがちに剛腕を伸ばし、その首筋を岩の指先でそっと撫でた。
温かい。そして、筋肉の躍動が伝わってくる。
ふと、レムは背後で落ち込んでいるユッコを見た。
彼女の目には、羨望と寂しさが滲んでいる。
父を探す旅の途中、こんな美しい生き物に出会えたのに、自分だけが拒絶される悲しみ。
(……こいつは、そんなに汚れた奴じゃないぞ)
レムはユニコーンの瞳を見つめ、心の中で語りかけた。
そして、ゆっくりと片手を後ろへ伸ばし、ユッコの手を取った。
「え……レム?」
レムは強引にユッコを引き寄せ、自分の岩の体に密着させる。
そして、彼女の手を握ったまま、ユニコーンの首筋へと導いた。
ユニコーンがビクッと体を強張らせる。
だが、レムは「大丈夫だ」と伝えるように、もう一度優しく聖獣のたてがみを撫でた。
俺が保証する。
この手は、お前を傷つける手じゃない。
レムの仲介を受け、ユニコーンは静かに鼻を鳴らすと、抵抗をやめた。
恐る恐る伸ばされたユッコの手のひらが、純白の毛並みに触れる。
「……あったかい」
ユッコの顔がパッと華やいだ。
ユニコーンもまた、彼女の掌から伝わる体温を受け入れ、穏やかな瞳で彼女を見つめ返した。
レムという「無垢な岩」を介して、種族を超えた絆が結ばれた瞬間だった。
しばらくの触れ合いの後、ユニコーンは何かを思い出したように、くるりと踵を返した。
向かった先は、あの黒く濁った泉だ。
水辺に立った聖獣は、天を仰いで短く嘶くと、その螺旋の角をゆっくりと水面へと向けた。
「……あ、始まるんだ」
ユッコが息を呑む。
里の伝承にあった「浄化の儀式」。
森中の穢れを一身に引き受けた泉を、聖獣がその霊力で清める瞬間だ。
「レム、準備して! これは、世界で一番綺麗な音になるはずだよ」
彼女は真剣な眼差しで、背嚢から新品のシェルレックを取り出した。
先ほどの涙目はもうない。そこには、音を追い求めるプロのハンターの顔があった。
ユニコーンの角の先端が、微かに発光し始める。
ユッコは震える指でスイッチに触れ、静かに、けれど力強く宣言した。
「この音もらった! 私が録っぴ!」
◇
♪~一角獣の浄化、聖なる波紋
世界から色彩が消え、俺の意識は音の波形だけを捉えるモノクロームの領域へと沈んでいく。
森のざわめきも、風の音も、すべてが遠ざかる。
残るのは、目の前の泉と、一頭の聖獣だけ。
ユニコーンが首を下げ、光を帯びた角の切っ先が、黒い水面に触れる。
――キィィィィィン……。
それは、この世の物質が発する音ではなかった。
極限まで薄く研ぎ澄まされたクリスタルグラスの縁を、濡れた指先でなぞった時に生まれるような、透明で鋭利な高周波。
だが、そこには不快な響きは一切ない。
あまりにも純度が高く、あまりにも完全なサインウェーブ。
耳から入るのではない。脳の芯、いや、魂の在り処を直接震わせるような共鳴音だ。
視覚と聴覚が混ざり合う。
角から放たれた波紋が、同心円を描いて広がっていく。
その波が通過した場所から、劇的な変化が起きていた。
ジュワァ……サァァァァ……。
黒く澱んでいた汚泥が、光の粒子となって分解されていく音。
混沌としていた分子構造が、あるべき秩序へと整列させられていく。
まるで、調律の狂ったオーケストラが、指揮者の一振りで完璧なハーモニーを取り戻す瞬間のように。
濁りは透明へ。
悪臭は芳香へ。
死は生へ。
俺の岩の体もまた、その音に共振していた。
ゴウ……ゴウ……と体内で唸る動力炉のノイズが、この高周波に包まれて鎮まっていく。
岩の隙間に溜まった苔や埃が、音の振動で払い落とされ、心まで洗われていくような感覚。
かつて人間だった頃、音楽大学のホールで聞いたパイプオルガンの荘厳な響きを思い出す。
いや、それよりももっと根源的な、「祈り」そのものが音になったような響き。
――ヒョォォォォォン……。
水面全体がエメラルドグリーンに輝き出した。
浄化の音は、いまや泉を超え、森全体へと広がっていく。
枯れていた草花が色を取り戻し、蕾が一斉に開花する微かな音が、副旋律となって重なる。
サイレントとも違う。
これは「清浄なる音」だ。
すべてのノイズを赦し、解き放ち、無へと帰す、優しきリセットの音色。
俺はただ、その圧倒的な美しさに身を委ね、指揮棒を振ることさえ忘れて立ち尽くしていた。
この音が、ユッコの心の奥底にある「静寂への恐怖」さえも、優しく溶かしてくれますようにと願いながら。
~♪
◇
音が消えると、そこには奇跡のような光景が広がっていた。
先ほどまでの汚れた泉は消え失せ、底の小石まで透けて見える清冽な水が満々と湛えられている。
水面は鏡のように空を映し、周囲の空気までもが凛と張り詰めていた。
「……すごい」
ユッコがほうっとため息をつき、録音を停止したシェルレックを胸に抱いた。
「なんか、聞いてるだけで心が軽くなった気がする。これが『浄化』の音なんだね」
彼女の表情は、憑き物が落ちたように晴れやかだった。
ユニコーンは仕事を終えたと言わんばかりにブルルと鼻を鳴らすと、濡れた角を振って水滴を飛ばした。そのしぶきが虹色に輝く。
「ありがとう、ユニコーンさん。素敵な音だったよ」
ユッコが頭を下げると、ユニコーンは穏やかな瞳で彼女を一瞥し、そしてレムに向かって軽く角を掲げて挨拶をした。
そのまま、音もなく森の奥へと姿を消していく。
後に残されたのは、清らかな泉と、二人の旅人だけ。
「へへ、やったねレム! これ、きっと教会とか神殿の人が高値で買ってくれるよ! 『聞くだけで厄払い!』とか銘打ってさ!」
早速商売っ気を出し始めるユッコに、レムはガクッと膝をつきそうになった。
さっきまでの感動的な空気はどこへ行ったのか。
しかし、すぐに思い直す。この逞しさ、この世俗的なノイズこそが、彼女の「生きる音」なのだ。
レムは立ち上がり、巨大な背嚢を担ぎ直した。
清らかすぎる世界は、少し息苦しい。
やはり自分には、この騒がしい相棒の隣が一番合っている。
『グォン(行くぞ)』
レムが顎で先を促すと、ユッコはニカッと笑って駆け出した。
「うん! 次はどんな音が待ってるかな。行こう、レム!」
清められた森に、二人の足音が力強く響き渡った。
その足音は、どんな聖なる音よりも、今のレムにとっては心地よい響きだった。




