第16話 グリフォンの岩峰と、空を切る風切り羽
雲海を眼下に臨む、天空のさらに上。
そこは、世界が最も空に近い場所、「天槍の峰ラクラリタ」である。
槍の穂先のように鋭く尖った岩山が連なり、絶えず吹き荒れる強風が、岩肌を刃物のように削り取っている。ここは、翼なき者が立ち入ることを許されぬ、過酷な高山地帯だ。
「はぁ、はぁ……! く、空気が……薄いよぉ……!」
エルフの少女ユッコが、岩場に手をついて荒い息を吐いた。
彼女の顔色は少し青白い。酸素の薄さと、吹き付ける冷たい突風に体力を奪われているのだ。
その背前に立ち、風よけの壁となっているのは、岩の巨人レムである。
呼吸を必要としないゴーレムの彼にとって、高山病は無縁だ。だが、相棒の辛さは痛いほど伝わってくる。
『グォン(無理するな、少し休もう)』
レムは手頃な岩陰にユッコを誘導し、背中の荷物から水筒を取り出して差し出した。
ユッコは震える手でそれを受け取り、水を喉に流し込む。
「ぷはぁ……生き返ったぁ。ありがと、レム。でも、地図だとこの頂上に、珍しい『風鳴り石』があるはずなんだけど……」
彼女はまだ諦めていないようだ。その根性には感服するが、この先は道なき道、断崖絶壁が続いている。
レムは屈み込み、自分の広い背中を叩いた。
乗れ、という合図だ。
「え、いいの? ……じゃあ、お言葉に甘えて!」
ユッコがレムの背負った背嚢にしがみつくと、レムは岩壁に太い指を食い込ませ、垂直に近い崖を登り始めた。
岩の体は重いが、その分、強風に煽られてもビクともしない。彼は確実な足取りで、雲を突き抜け、頂を目指した。
◇
頂上に辿り着いた時、二人が目にしたのは、予想していた「石」ではなかった。
巨大な、藁と枯れ木で組まれた巣だ。
その中に、白くふわふわとした毛玉のような生き物が三匹、身を寄せ合って震えている。
「わっ、かわいい! 大きな鳥のヒナかな?」
ユッコが目を輝かせて近づこうとした、その時だ。
キィィィェェェェェェッ!!
頭上から、空気を切り裂くような甲高い鳴き声が降ってきた。
突風と共に巨大な影が舞い降りる。
鷲の上半身と、獅子の下半身を持つ、伝説の聖獣。
グリフォンだ。
狩りから戻った親鳥は、巣に近づく侵入者を見て、怒り狂って翼を広げた。
「ひゃっ!? ち、違います! 何もしません!」
ユッコが悲鳴を上げて後ずさる。
親グリフォンは威嚇のために大きく翼を羽ばたかせた。
バサァッ!!
その風圧は凄まじく、巣の縁にいた一匹のヒナが、バランスを崩して宙に投げ出されてしまった。
「ああっ!」
『ピィッ!』
ヒナはまだ飛べない。
眼下は千メートルの断崖絶壁。落ちれば助からない。
(間に合え!)
レムの体が勝手に動いた。
ライフセーバー時代に培った、救助への条件反射。
彼は崖の縁ギリギリへ身を投げ出すと、落下していく白い毛玉に向かって、岩の腕を目一杯伸ばした。
ガシッ。
空中でヒナをキャッチしたレムは、そのまま崖下に落ちるのを防ぐため、空いている片手と両足を岩壁に突き刺し、強引にブレーキをかけた。
ズザザザザッ!
岩肌を削りながら数メートル滑落し、ようやく静止する。
レムは腕の中を覗き込んだ。
ヒナは目を白黒させていたが、怪我はないようだ。
『グォ……(よかった)』
レムがヒナを抱えて崖をよじ登り、巣に戻ると、親グリフォンは呆然としていた。
我が子を敵だと思っていた岩塊に助けられたのだ。聖獣たる彼らには高い知能がある。状況を理解した親鳥は、殺気を消し、申し訳無さそうにクゥと鳴いて頭を下げた。
◇
誤解が解け、和解したグリフォンは、お礼にと驚くべき提案をしてきた。
なんと、二人に「空の散歩」をさせてくれるというのだ。
聖獣の背に乗れるなど、一生に一度あるかないかの奇跡だ。
「む、無理無理無理っ! 私、高いところは見るだけでいいの! 落ちるってば!」
ユッコは顔面蒼白で首を横に振ったが、レムは興味津々だった。岩の塊である自分が空を飛ぶなど、通常ならありえない体験だ。
結局、逃げ腰のユッコをレムが抱え、そのレムの肩をグリフォンが強靭な足爪でガッチリと掴む、という変則的なスタイルで飛ぶことになった。
バサリ。
グリフォンが翼を広げる。
次の瞬間、ふわりと体が浮き上がった。
「ぎゃああああああああっ!!」
ユッコの絶叫と共に、世界が一気に遠ざかる。
グリフォンは力強い羽ばたきで上昇気流を捕まえ、みるみるうちに高度を上げていく。
雲を突き抜け、さらに上へ。
ユッコはレムの首にしがみつき、目を固く閉じて震えている。
「こ、怖いぃぃ! レム、離さないでよぉ! 絶対だよぉ!」
『グォン(大丈夫だ)』
レムは岩の腕で、胸元のユッコを包み込むようにガードした。
俺が掴んでいる。絶対に落とさない。その意志を伝えるように、少し強めに力を込める。
岩の感触と、揺るがない安定感。
それが伝わったのか、ユッコは恐る恐る目を開けた。
「……っ!」
言葉を失っていた。
そこには、見たこともない絶景が広がっていた。
一面に広がる真っ白な雲海。その隙間から覗く、エメラルドグリーンの大地。そして、どこまでも深く、濃い青色の空。
太陽がすぐ近くにあるように感じる。
「きれい……。世界って、こんなに広かったんだ……」
ユッコの碧眼から、ポロポロと涙がこぼれ落ちた。
風に飛ばされていく涙の粒が、宝石のようにキラキラと光る。
レムもまた、この光景を目に焼き付けた。
すると、グリフォンが鳴いた。
これから「本気」の飛行を見せる、という合図だ。
グリフォンは高度を上げ、翼を畳んだ。
急降下だ。
「え、ちょっと待って、何す――!?」
ユッコが慌てるが、その目はハンターの色に変わっていた。
彼女は震える手でシェルレックを取り出す。
「こ、こんな体験、二度とないもんね! この音もらった! 私が録っぴ!」
◇
♪~グリフォンの急降下と、風の断末魔
重力が消えた。
いや、全身が地面に向かって引っ張られる、強烈な落下Gが俺たちを襲う。
音の世界が、変貌する。
ヒュオオオオオオオオッ……!!
それは風が吹く音ではない。
大気が悲鳴を上げている音だ。
俺たちを掴んで落下するグリフォンは、翼を限界まで畳み、自らの体を一本の槍へと変えている。
流線型のフォルム。
極限まで抵抗を削ぎ落としたその姿勢は、空気という分厚い壁を、熱したナイフのように切り裂いていく。
――キィィィィィン。
速度が上がるにつれ、音が鋭くなっていく。
低音の轟音が消え去り、研ぎ澄まされた高周波だけが鼓膜を震わせる。
空気が圧縮され、逃げ場を失い、翼のエッジで断ち切られる断末魔。
俺の岩肌を、見えない刃が撫でていく感覚。
速い。
あまりにも速い。
かつて人間だった頃、バイクで風を切って走ったことがある。
だが、これは次元が違う。
エンジン音も、排気音もない。
あるのは、純粋な物理法則と、生命の躍動だけ。
野生の最高速。
俺の腕の中で、ユッコが息を呑んでいるのがわかる。
恐怖を超えた先にある、恍惚。
視界の端で、雲が一瞬で後ろへ飛び去っていく。
俺は今、ただの岩ではない。
空を飛ぶ流星だ。
シュバッ!!
グリフォンが翼を広げた。
強烈なブレーキ。
風の音が爆発的に膨れ上がり、俺たちの体はふわりと浮き上がり、水平飛行へと移行する。
切り裂かれた空が、再び癒着し、穏やかな風音へと戻っていく。
その一連のシークエンスは、完璧な計算と野性の勘によって成立する、空の芸術だった。
俺のコアがドクンと鳴った。
憧れていた「自由」の音が、今ここにあった。
~♪
◇
地上に戻った時、ユッコの足は生まれたての子鹿のようにプルプルと震えていた。
だが、その表情は晴れやかだった。
「し、死ぬかと思ったぁ……。でも、最高だった!」
彼女は乱れた髪を直すのも忘れ、興奮気味にレムに抱きついた。
「ありがとうレム! レムがガッチリ守っててくれたから、目を開けられたよ。あの景色、一生忘れない!」
『グォン(俺もだ)』
レムは、自分たちを降ろしてくれたグリフォンに向き直った。
聖獣は誇らしげに翼を広げ、クォンとひと鳴きすると、上昇気流に乗って再び空高く舞い上がっていった。
その姿が豆粒のように小さくなるまで、二人は見送っていた。
「……ねえ、レム」
ユッコが空を見上げたまま呟く。
「パパも、こんな景色を見てたのかな」
彼女の手には、録音したばかりのシェルレックが握られている。
風を切る音。空の音。
それは、地上を這う者たちには決して届かない、遥か高みの旋律だ。
「世界は広いね。まだまだ、私の知らない音がたくさんある」
ユッコは、今度は力強くレムを見た。
「行こう、レム。空の次は、どこへ行こうか!」
レムは重たい背嚢を担ぎ直し、親指を立てた。
空を飛んだ記憶は、重力に縛られた岩の体にとって、何よりの翼となった。
二人の足取りは、来る時よりもずっと軽く、力強いものになっていた。
天槍の峰に吹く風が、二人の背中を優しく押しているようだった。




