第14話 鋼鉄の心臓が刻む、白煙の鼓動
森を抜け、丘を越えた先に現れたのは、白濁した霧に包まれた鉄の迷宮だった。
スチーム機械都市、メカンガル。
そこは、魔法という神秘を持たぬ人々が、知恵と技術を結集させて作り上げた科学の聖地である。
「うわぁ……! すごいよレム! 街全体が熱々なヤカンみたい!」
エルフの少女ユッコが、目をキラキラと輝かせて歓声を上げた。
彼女の言葉通り、街は蒸気に支配されていた。
石畳の道、レンガ造りの工場、ひしめき合う住居。そのすべてを縫うように、無数のパイプが縦横無尽に走っている。太いもの、細いもの、錆びついたもの、真新しく光るもの。
それらはまるで、巨大な生物の血管のようだった。
都市の中心には、山と見紛うほどの巨大ボイラー塊が鎮座している。あれがこの街の「心臓」だ。地熱を利用して煮えたぎらせた水は高圧の蒸気となり、パイプという血管を通って街の隅々まで熱と動力を送り届ける。
シューッ、プシューッ。
あちこちの継ぎ目から漏れ出る蒸気の音が、街の呼吸音となって響いていた。
ここでは工場で歯車を回すのも、家庭でスープを温めるのも、すべてこの「蒸気」の力が使われているのだ。
「ゴホッ、ゴホッ! ちょっと鉄と油の匂いがきついけど……でも、この活気! 最高だね!」
ユッコは咳き込みながらも、興奮を抑えきれない様子でスキップをする。
その背後を、岩の巨人レムが重厚な足取りでついていく。
彼の目には、この光景が懐かしくもあり、同時に新鮮にも映っていた。魔法の力で動くゴーレムである彼が、魔法を排した科学の街を歩く。その皮肉な対比が、どこか面白かった。
◇
街の深部、工場区画を歩いている時のことだ。
入り組んだ配管の路地裏から、男の唸り声が聞こえてきた。
「くそっ……! 届かねぇ! あと数センチだってのに!」
声の主は、熊のように体格の良い人間の職人だった。油まみれの作業つなぎを着て、配管の隙間に腕を突っ込み、顔を真っ赤にして奮闘している。
どうやら、奥にあるバルブを回したいらしい。だが、複雑に入り組んだパイプの隙間はあまりに狭く、彼の太い腕と厚い胸板が邪魔をして、どうしても指先が届かないようだった。
「あらら、困ってるみたいだね」
ユッコが小走りで近づいていく。
職人は額に汗を浮かべ、悪態をついた。
「ああ? なんだ嬢ちゃん、危ねえからあっち行って……」
「おじさん、それ回せばいいの? 私なら入れるよ!」
職人が止めるのも聞かず、ユッコは配管の隙間を指差した。
確かに、小柄で華奢なエルフの体なら、その迷路のような隙間にも入り込めそうだ。
「本当か? だが、中は熱いぞ。それに足場も悪い」
「平気平気! 私、こう見えても身軽さには自信あるんだから。……レム、サポートお願い!」
ユッコが振り返ると、レムは即座に親指を立てた。
彼は巨大な岩の手を差し出し、ユッコの体をふわりと持ち上げる。そして、彼女を配管の隙間へと慎重に滑り込ませた。
「よいしょ……っと。うわ、結構狭いね」
パイプの森に潜り込んだユッコは、器用に体をくねらせて奥へと進む。
だが、バルブの位置は高い。足をつく場所もなく、宙ぶらりんの状態だ。
レムは隙間の外から腕を伸ばし、ユッコの足の裏を岩の手のひらでしっかりと支えた。即席の足場だ。
「ナイス、レム! ……よし、届いた!」
ユッコがバルブに手をかける。
熱された金属の熱気が伝わってくるが、彼女は手袋をしてグッと力を込めた。
「んんっ……! 硬い……けど、回れぇぇ!」
キィ、と錆びついた音がして、バルブが回転した。
プシュウウウッ!
滞っていた蒸気が一気に流れ出し、白い煙が噴き上がる。
「よしっ! 開通!」
「おおっ! 助かったぞ嬢ちゃん、それにデカブツの兄ちゃんも!」
煤だらけになって戻ってきたユッコを、職人はバシバシと背中を叩いて歓迎した。
「俺はギオルだ。いやぁ、あそこのバルブ一つ回すために、周りの配管を全部バラさなきゃならねぇところだったんだ。半日は得したぜ!」
ギオルと名乗った職人は、豪快に笑った。
そして、助けてくれた礼にと、とある場所への招待を申し出た。
「そうだ、お前さんたち、いいところに来たな。実はこの近くの第3工場で、とびきりの『新入り』が産声を上げるんだ」
「新入り?」
「ああ。我がメカンガルの技術の結晶、新型メガスチームエンジンだ。これから最初の火入れ式がある。新しい心臓が動く瞬間、立ち会ってみねぇか?」
その言葉に、ユッコの長い耳がピクリと跳ねた。
新しいエンジンの、最初の起動音。
それはつまり、この世でまだ誰も聞いたことのない「音」だ。
「行く! 絶対行く!」
◇
案内された第3工場は、大聖堂のように巨大な空間だった。
その中央に、怪物が眠っていた。
黒光りする金属の塊。見上げるような高さ。無骨なリベットと、複雑怪奇なパイプの装飾。
その名は『八万気筒の悪魔』。
八万ものシリンダーを持つというそのエンジンは、あまりの出力の高さゆえに「悪魔」の名を冠されているという。
周りには多くの技師たちが固唾を飲んで見守っている。
緊張感が張り詰める中、ユッコはレムの肩によじ登り、特等席を確保した。
レムが背負っている背嚢から愛用のシェルレックを取り出す。
「すごい……なんて迫力。これは間違いなく、時代を動かす音になるよ」
ユッコは真剣な眼差しで、眼前の鉄塊を見据えた。
ギオルが、中央制御室へ向けて合図の手を挙げる。
サイレンが鳴り響く。始動の合図だ。
ユッコがシェルレックのスイッチに指をかけた。
息を吸い込み、高らかに宣言する。
「この音もらった! 私が録っぴ!」
◇
♪~八万気筒の悪魔の始動音
世界から色彩が消え、俺の意識はただ「音」そのものへと純化していく。
目の前に鎮座するのは、冷え切った鉄の彫像だ。だが、俺にはわかる。その内部で今、血液となる蒸気が駆け巡ろうとしている気配が。
まず聞こえてきたのは、風の鳴くような音だった。
ヒュオオオオ……。
どこか遠くの渓谷を吹き抜ける風ではない。それは、直径十メートルはあろうかという巨大な吹き出し口が、空気を吸い込み、吐き出そうとする予備動作の音だ。
その暗い穴の奥には、剃刀のように鋭利なタービンブレードが無数に並んでいる。わずかにねじれ、幾何学的な美しさで中心から外側へと均等に敷き詰められたそれらは、静止したまま獲物を待ち構える猛禽の羽のようだ。
エンジンの奥行きは、視界の闇に溶けて見えない。
ただ、その深淵には、パイプ、ギア、シリンダーといった内臓器官が、数え切れないほどの密度で凝縮されているのだろう。
――カコン。
硬質なバルブの開放音が、静寂を裂いた。
始まりだ。
一箇所ではない。四方八方に張り巡らされた無数の供給パイプから、一斉に灼熱の蒸気が注入される。
シュゴオオオオオオッ!!
猛烈な噴出音。
巨大な圧力が、冷たい金属の回路を駆け巡る。
熱に触れた鉄が膨張し、ミシミシと軋み声を上げる。それは眠りから覚めた巨人が、全身の関節を鳴らして伸びをする音に似ていた。
キィン……ゴウン。
最初の回転。
巨大なファンが、重力に抗ってゆっくりと動き出す。
重い。あまりにも重い質量が動く音。
だが、一度動き出した怪物はもう止まらない。
ゴウン、ゴウン、ゴオオオオ……。
回転数が上がるにつれ、低周波の振動が床を伝い、俺の岩の足を、そして腹の底を直接揺さぶり始める。
かつて俺がいた世界で聞いた、ジャンボジェット機の離陸音。あれに似ている。
だが、これはもっと野蛮で、もっと原始的だ。
洗練された空力の音ではない。鉄と蒸気と油が、無理やり物理法則をねじ伏せて爆発的なエネルギーを生み出す、暴力的なまでの咆哮。
こちらのエンジンの大きさは、ジェットの数百倍はあるだろう。その分だけ、音の密度も、「圧」も桁違いだ。
ズドドドドドドド!
八万のピストンが覚醒した。
シリンダーの中で金属同士が擦れ合い、圧縮された蒸気が叩きつけられる打撃音。
それらが重なり合い、うねりとなり、やがて一つの巨大なリズムへと収束していく。
ドックン、ドックン、ドックン!
それはもはや機械音ではなかった。
この鋼鉄の都市メカンガルそのものの心臓の鼓動だ。
大地を震わせ、空気を引き裂き、生命体のような躍動をもって世界にその存在を誇示している。
この超高速回転から生み出されるパワーなら、きっとどんなに巨大な工業製品も作れるだろう。
いや、山をも砕き、川の流れさえも変えてしまうかもしれない。
恐怖すら感じるほどの圧倒的なエネルギー。
だが、どうしようもなく力強く、美しい。
俺は指揮棒の代わりに拳を握りしめ、この暴れまわる悪魔の独唱に、魂を共鳴させていた。
~♪
◇
録音が終わると、ユッコは興奮冷めやらぬ様子でレムに飛びついた。
彼女はシェルレックを掲げながら、何かを必死に叫んでいる。口の動きからして「すごい迫力だった!」とか「最高の音!」といった感想をまくし立てているようだが、轟音を上げ続ける『八万気筒の悪魔』の前では、その声はほとんどかき消されていた。
レムは耳に手を当てる仕草をして「聞こえない」と首を振る。
しかし、ユッコの満面の笑みを見れば、言葉などなくても十分に伝わってきた。
頬を紅潮させ、碧眼をキラキラと輝かせる彼女の表情は、この上ない満足感を物語っている。
レムは岩の顔をほころばせ(るような雰囲気を出し)、大きく親指を立てて彼女の成果を称えた。
工場の外へ出ると、夕暮れの風が火照った体を冷やしてくれた。
耳の奥には、まだあのエンジンの重低音が残響としてこびりついている。
「いやあ、いい立ち会いだった。助かったぜ、二人とも」
見送りに来てくれたギオルが、煤で汚れた顔をタオルで拭きながら言った。
彼は礼として、幾つかの整備用工具と、この街の名物である蒸しパンを二人に持たせてくれた。
「それにしても……妙だな」
ふと、ギオルが足元の石畳に視線を落とし、不思議そうに呟いた。
彼は分厚い靴底を地面にこすりつけている。
「さっきのエンジンの熱気も凄かったが、最近、どうも地面そのものが熱い気がするんだ」
「地面が? ボイラーの熱が漏れてるんじゃなくて?」
ユッコが蒸しパンを頬張りながら首を傾げる。
「いや、配管が通ってねぇ場所でも熱いんだよ。地下水も温度が上がってるしな。俺たち職人の間じゃ『星が風邪でも引いて熱を出してるんじゃねぇか』なんて冗談も出てるくらいでな」
ギオルは肩をすくめ、やれやれと苦笑した。
「まあ、この街は元々蒸気だらけだ。気のせいかもしれん。……じゃあな、気をつけて行けよ!」
職人は手を振り、白い湯気が立ち昇る工場へと戻っていった。
「地熱が上がってる、かぁ。温泉でも湧くのかな?」
ユッコは能天気に笑っている。
科学の粋を集めたこの機械都市の住人でさえ、その異変が何かの前触れであることには、まだ気づいていなかった。
蒸気の街に夜の帳が下りる。
無数のパイプの中を流れる熱き血潮の音を背に、レムとユッコはまた新たな音を求め、次の目的地へと歩き出すのだった。




