第1話 そのゴーレムは語らない
最後の記憶は、夏の海と、肺が焼けるような苦しさだった。
ライフセーバーのバイト中、沖へ流された親子を救助に向かった俺は、二人をボードに乗せたあと、大波に揉まれて海底の岩盤に頭を強打した。
ゴボリ、と気泡が視界を埋め尽くす。
薄れゆく意識の中で思ったのは、「あ、これ死んだな」という、ひどく他人事のような感想だった。
――そして、今。
(……助かった、のか?)
ゆっくりと目を開ける。
視界に入ってきたのは、白い天井でも、病院のベッドでもなかった。
天井など、そもそも無かった。
苔むした高い石壁が四方を囲み、その向こうには、見たこともないほど巨大な二つの月が、紫がかった夜空に浮かんでいる。
ここはどこだ。
体を起こそうとして――俺は、猛烈な違和感に襲われた。
体が重い。いや、重いなんてものではない。鉛を全身に巻き付けられたような、あるいは自分自身が地面そのものになったかのような、圧倒的な重量感。
そして、耳障りな音が響く。
ズズズ……ゴリッ。
俺が腕を動かしただけで、岩と岩が擦れ合うような重低音が鳴るのだ。
恐る恐る、自分の「手」を目の前にかざした。
俺は絶句した。
そこにあったのは、肌色の皮膚でも、人間の指でもなかった。
無骨で、ゴツゴツとした、黄土色の岩塊。
五本の指はある。だが、それは岩石を削り出して無理やりくっつけたような代物で、関節を曲げるたびに、パラパラと石の粉がこぼれ落ちている。
(なんだこれ……手袋? いや、感覚はある)
慌てて近くの水たまりを覗き込む。
水面に映ったのは、ずんぐりむっくりとした、岩石の巨人。
目とおぼしき窪みが二つ、ぼんやりと青白く発光している。
(……嘘だろ。俺、ゴーレムになってる?)
混乱のあまり、大声で叫ぼうとした。おい、誰かいないのか、と。
『グォ……ゴゴ……』
喉から出たのは、石臼を引くような轟音だけ。
声帯がない。舌もない。唇さえもない。
俺は、言葉を失っていた。
◇
状況を整理しようと、俺は重たい体を引きずって周囲を探索した。
どうやらここは、石造りの巨大な廃墟のようだ。
かつては研究所か工房だったのだろうか。壁際に古びた棚が並んでいるが、中身は空っぽだ。床には分厚い砂埃が積もっているだけで、足跡一つない。
壁に残された紙片には、ミミズがのたうち回ったような文字が書かれていた。
読めない。英語でも、知っているどの言語でもない。
唯一理解できたのは、壁に刻まれた一つのマークだけだ。二つの歯車と、音叉を組み合わせたような不思議な意匠。何かのロゴだろうか。
(なんの情報もない……。俺を作った設計図とか、説明書とかないのかよ)
俺の意識にあるのは「人間だった頃の記憶」だけで、このゴーレムとしての記憶は一切ない。
自分が何のために作られ、なぜここにいたのか。そもそも、俺の魂はなぜこの岩塊に入ってしまったのか。
何一つ分からないまま、俺は途方に暮れた。
廃墟には出口があった。
外に出ると、そこは断崖絶壁の上だった。
眼下には海が広がっている。だが、その色は俺の知る群青色ではなく、どこか薄い、エメラルドグリーンに近い異世界の色だった。
波の音だけが、ザザァ、ザザァと響いている。
俺は崖を降り、波打ち際にある巨大な岩場に腰を下ろした。
ズシン、と地面が揺れ、岩の体がゴリゴリと音を立てる。
(詰んだ……)
膝を抱え(ようとしたが、腹がつかえてできなかったので体育座りのような格好になり)、俺は海を見つめた。
言葉も通じない。文字も読めない。飯も食えない。
これから先、何百年も、ただの意思ある岩塊としてここで過ごすのか?
孤独と絶望が、冷たい波のように押し寄せてくる。
俺は思考を放棄した。
どうせ岩なのだ。心も岩になってしまえば、辛くないかもしれない。
そうして微動だにせず、数時間が経過した頃だった。
「よいしょ、よいしょ……」
背中に違和感があった。
何かが、俺の背中を登っている?
カニかフナムシかと思ったが、それにしては重い。
「ここ足場にいいなぁ。この高い岩の上なら、海鳥の音が綺麗に録れそう!」
鈴が転がるような、軽やかな声。
人間の、女の子の声だ。
誰かが俺を「便利な足場」だと勘違いして、よじ登っているのだ。
俺は驚いて、反射的に振り向いてしまった。
『グォン?(おい)』
「わあっ!?」
足場がいきなり動いたのだ。当然、背中の主はバランスを崩す。
視界の端で、小柄な人影が宙に投げ出されるのが見えた。
下は尖った岩場だ。あの高さから落ちれば、タダでは済まない。
(危ない!)
思考より先に体が動いた。
ライフセーバーとして体に染み付いた、条件反射。
俺は目にも留まらぬ速さで剛腕を伸ばすと、落下するその体を空中で優しく受け止めた。
「き、キャアァァァ……って、あれ?」
俺の巨大な岩の手のひらに、ちょこんと収まっている少女。
長い耳。透き通るような金髪。宝石のような碧眼。
ファンタジー映画でしか見たことのない種族、エルフだ。
彼女は瞬きを数回繰り返すと、キョトンとして俺の顔を見上げた。
「た、助かった……?」
俺はホッとして、彼女を地面に下ろした。
そして、驚かせてしまったことを謝るために、深く頭を下げる。
『ゴゴ、グォン(すまん、驚かせた)』
「あ、ごめんなさい! 私こそ、ただの岩だと思って勝手に登っちゃって……!」
少女も慌てて頭を下げる。
俺は安堵した。俺には発音機能はないが、相手の言葉は理解できる。そして、こちらのジェスチャーや雰囲気も、なんとなく伝わるようだ。
顔を上げると、彼女は興味津々といった様子で俺を観察し始めた。
岩の腕をペタペタと触り、周りをぐるぐると回る。
「すごい、生きてるゴーレムさんだ。野生かな? それとも誰かの使い魔?」
彼女の視線が、俺の胸元で止まった。そこには、先ほど廃墟で見たのと同じ「歯車と音叉の刻印」が刻まれている。
「あれ? そのマーク……パパの研究ノートに描いてたやつと同じだ!」
パパ?
俺は反応した。このマークを知っているのか?
俺は背後の廃墟の方角を指差し、手招きをした。
『グォン(こっちだ)』
「え、あっちから来たの? もしかして、あの廃墟にパパの手がかりがあるの!?」
少女――どうやら父親を探しているらしい――は、期待に目を輝かせて駆け出した。
俺も、岩の足音を響かせてその後を追う。
◇
だが、結果は無慈悲だった。
俺が目覚めた廃墟に戻った彼女は、部屋中を走り回り、棚を調べ、床を這いずり回ったが、やがて肩を落として戻ってきた。
「……ううん、ダメだった。何も残ってない。もぬけの殻だわ」
彼女の手には、埃まみれの紙くずが握られているだけ。
俺もまた、自分が何者なのかを知る手がかりが得られず、再び無力感に襲われた。
二人の間に、重苦しい沈黙が落ちる。
廃墟の石壁が、しんと静まり返る。風の音さえも止んでしまったかのようだ。
すると、少女が急に落ち着かない様子を見せ始めた。
自分の二の腕を強く抱きしめ、呼吸が浅くなる。視線が泳ぎ、唇が震えている。
「……静かすぎ、だね」
独り言のように呟くと、彼女は懐から奇妙なものを取り出した。
手のひらサイズの、美しい巻貝だ。表面には真珠のような光沢があり、複雑な紋様が走っている。
「私、静かなのがダメなの。……これ、パパが残してくれた『お守り』なんだけど、聞くと落ち着くんだ」
彼女は祈るように巻貝を両手で包み込むと、先端にあるスイッチのような突起を押し込んだ。
「聞いててね、ゴーレムさん。すごく不思議な音なの」
♪~父の遺した哀愁音
次の瞬間、俺の思考は停止した。
――キーン、コーン、カーン、コーン……。
ノイズ混じりの、くぐもった音。
低音質で、少し音が割れている。
けれど、それは間違いなく、俺の魂に刻み込まれた旋律だった。
『夕焼小焼』のチャイム。
(は……?)
全身の岩が震えた。
幻聴じゃない。この異世界で、あの日暮れのメロディが流れている。
続いて聞こえてきたのは、カナカナカナ……というヒグラシの鳴き声。
遠くで響くカラスの声。
微かに混じる、軽トラの走行音。
ミーンミンミン、という蝉の声。
『グォ……(おい、嘘だろ)』
目を閉じれば、まぶたの裏に情景が浮かぶ。鮮烈なほどの解像度で。
子供の頃によく行った、祖父の家の縁側。
青々とした早苗が風にそよぐ水田に、夕日が反射して一面がオレンジ色に燃えている。
湿った土の匂い。畳の匂い。
(日本だ……! これ、日本の音だ!)
なぜだ。なぜ、異世界のエルフが「日本の夕暮れ」を持ち歩いている?
彼女の父親は、日本へ行ったことがあるのか?
チャイムの音が消えると、少女は深く息を吐き、愛おしそうに巻貝を撫でた。
震えは止まっていた。
~♪
「どうだった? 不思議な音でしょう。自然の中にいたと思ったら、突然流れるこの何とも言えない低音質なメロディー。パパがどこでこの音を録ったのかさっぱりわからないんだけど……」
彼女は、この音の事をよく知らないようだ。
ただ純粋に、行方不明の父親が残してくれた「謎の音」を、宝物のように大切にしている。
(……この音の場所)
俺の中で、消えかけていた炎が燃え上がった。
彼女の父親が何者で、なぜこの音を持っているのかは分からない。
だが、一つだけ確かなことがある。
この少女と一緒にいれば、いつかこの「音の出所」――つまり、日本へ帰る手がかりに辿り着けるかもしれない。
逆に言えば、ここで別れれば、俺はただの岩としてこの廃墟で朽ち果てるだけだ。
(この子について行こう。今の俺には、それしか道がない)
俺の目的は決まった。
俺は立ち上がり、彼女の足元にある巨大な荷物を指差した。
彼女の背丈ほどもある、パンパンに膨らんだ背嚢だ。中には旅の道具が詰まっているのだろう、さっき彼女が背負うのに苦労していたやつだ。
俺はそれを片手でひょいと持ち上げ、自分の広大な背中に担いでみせた。
岩の肉体にとって、この程度の重量は羽毛のようなものだ。
『グォン! ゴゴッ!(俺も連れて行け! 荷物持ちなら任せろ!)』
そして、親指を立ててサムズアップをする。
少女は目を丸くし、それからパッと顔を輝かせた。
「えっ、一緒に行ってくれるの? 助かるぅ! 私、ユッコ。癒音ハンターやってるの。一人旅は話し相手がいなくて寂しかったんだ!」
癒音?聞きなれない言葉だ。まぁいい、そのうち分かるだろう。
話し相手といっても、俺は喋れないが。
それでも彼女は、俺が意思を持っていること、そして敵ではないことを受け入れてくれたようだ。嬉しそうに手を叩いている。
「すごいすごい! あなたみたいな力持ちがいてくれたら百人力だよ! ……あ、そういえば」
ユッコは小首を傾げて俺を見上げた。
「あなたの名前は? ゴーレムさんじゃあ味気ないよね」
俺は首を横に振る。名前なんかない。
前の世界での名前(御城瓦正樹)はあるが、今の姿には似合わないし、そもそも伝えようがない。
ユッコはうーんと少し考え込んでから、ポンと手を打った。
「あなたはゴーレムさんだから……うん、後ろを取って『レム』! レムっていうのはどう? 響きも可愛いし!」
レム。
安直すぎるだろ。
心の中でツッコミを入れたが、悪くはない。俺は親指を立てて、グッと突き出した。
『グォン(分かった。俺はレムだ)』
「決まりだね! よろしくね、レム!」
ユッコが差し出してきた小さな手を、俺は岩の指先でそっと包み込んだ。
ひんやりとした岩の感触と、温かい手のひらの体温。
言葉を失った元人間の俺と、お喋りなエルフのユッコ。
奇妙な凸凹コンビの旅が、ここから始まる。
当面の目的地は、ユッコの父親の行方。
だが、俺の真の目的地は、あの懐かしいチャイムが鳴る場所だ。
いつか必ず、そこへ帰る。そのために、この岩の体を使ってやる。
「さあ、出発進行ー! 行くよ、レム! 次の街まで競争ね!」
ユッコが元気よく駆け出す。
俺は苦笑いしながら(表情筋はないが、心の中で)、その小さな背中を追いかけて一歩を踏み出した。
騒がしくも愛おしい、音を探す旅の始まりだ。




