第95話 風の約束、ふたたび川原へ
旅の終わりが見え始めたある日、カイは風に導かれるように、かつて列車が降りてきた夜の川原へ向かう。そこに“声”が待っていた。
午後の光が傾きはじめ、街の影が少しずつ伸びていく頃だった。
カイは、胸の奥にくすぶる感覚に気づいていた。旅が終わるという予感。
それは寂しさではなく、“もう一度確かめるべき場所がある”という静かな促しだった。
風が吹き、髪を揺らす。
その風の中に、懐かしい声が混ざっていた。
――カイ。来いよ。
ユウの声だ。
けれど、かつてのように切なく、遠い影ではない。
今のカイが聞き取れる、澄んだ呼び声だった。
「……行かないと」
カイは立ち上がった。
向かう先は、街の外れに続く古い橋の道。
その先には、あの“夜の川原”がある。
◆
川原へ向かう途中、ハルが走って追いかけてきた。
「カイさん、どこ行くんですか?」
「ちょっと……前に来た場所へ」
「僕も行っていいですか?」
ハルの瞳は不思議な光を宿していた。
まるで、ユウの記憶と並走するように。
「一緒に行こう」
二人は並んで歩き出した。
風が道に沿って吹き、白い花びらを運んでいく。
「ねえカイさん」
「うん?」
「僕、この街に来てから……時々、夢を見ます」
「どんな夢?」
ハルは少し照れたように笑った。
「冬の川でね、誰かと話してる夢。
相手の顔はよく見えないんだけど……すごく優しい声で」
カイは微笑むしかなかった。
「それはきっと、君が受け継いだものだよ」
「受け継いだ……?」
「うん。誰かが君に託した大事なもの」
ハルはしばらく黙った。
そして、まっすぐカイの顔を見て言った。
「それ、カイさんの友達ですよね?」
カイは、はっきりと頷いた。
「そうだ。ユウ。僕の親友で……」
「生きてるって感じがするから、って言う人?」
「どうして知ってる?」
ハルは胸に手を当てて言った。
「なんか……風が教えてくれました」
その言葉が妙に自然で、カイは笑った。
ユウなら、風の中からでも話しかけてくるだろう。
◆
やがて二人は川原へたどり着いた。
そこはもう、夜の色をしていなかった。
薄いオレンジの夕暮れが広がり、草原に影が揺れている。
水面は静かで、風が吹くたびに銀色の波紋が広がった。
「ここだ……」
カイの胸に、懐かしい痛みが戻ってくる。
それはもう、温かな記憶の痛みだった。
その時――川下から白い光が流れてきた。
百合の花だ。
三輪、四輪、そして五輪。
風に乗り、まるで列車の灯りのように並んで流れていく。
「きれい……」
ハルが息を呑む。
カイは歩き出し、川辺に膝をついた。
「ユウ……来たよ」
風が強く吹き、水面が揺れる。
波紋の中に、ユウの影が一瞬浮かんだ。
――ありがとう。
今度は、はっきり聞こえた。
ハルも驚いたように周囲を見渡す。
「い、今の……」
「うん。ユウだ」
ハルの瞳が揺れた。
「僕にも……聞こえました」
風が川原を通り抜け、ユウの声がまた届く。
――カイ、もう大丈夫だな。
――お前は“生きている時刻”を見つけた。
カイは微笑み、川面に向かってゆっくり言った。
「うん。僕はもう、逃げない。
僕は……生きてる。ちゃんと」
ハルがそっとカイの手を握った。
小さく温かい手。
その手は、過去と未来をつなぐように震えている。
ユウの声が、今度は風そのものになって囁いた。
――二人で行けよ。
――僕らの“続き”を。
百合の花が川面で一斉に光り、ゆっくり流れていく。
二人はその光を見つめながら、まるで新しい旅の入り口に立ったような気がした。
夕暮れの空に、列車の汽笛のような風の音が響く。
カイは深く息を吸い、静かに言った。
「ユウ、僕たち……行くよ」
その声は風に乗り、遠い空へ溶けていった。
◆
川原を離れた二人は、街への帰り道を歩いた。
ハルが言った。
「カイさん、これからどこに行くんですか?」
「決めてない。でも……誰かの悲しみが夜を作るなら、
僕らは“朝へ行く列車”を探すよ」
ハルは嬉しそうに笑った。
「じゃあ僕も一緒に行きます!」
「もちろん。二人の旅だ」
その言葉に、ハルの影が夕日に揺れた。
まるでユウの笑顔が重なるように。
川原の方から、最後の風が吹いた。
その風は確かに言った。
――行ってこい。
夜の川原へ戻ったカイは、ユウの声を最後に受け取り、
“過去”と“いま”をひとつに結んだ。
二人の旅は静かに、しかし確かに新章へと進み始める。




