第94話 風の裂け目、呼ばれる名前
夕暮れの街に現れた“風の裂け目”。
そこから呼ばれたのは、決して聞こえるはずのない名前――
カイは再び“境界”へと歩み出す。
夕暮れの光が街を黄金色に染めていた。
屋根瓦も、石畳も、川の水面さえも柔らかな輝きを放ち、あたかも世界の呼吸がゆっくりと刻まれているようだった。
カイは、広場の時計塔の前に立ち尽くしていた。
“時刻のある世界”に来てから、すでに幾日が過ぎている。
日々のリズムは穏やかで、街の人々との交流も自然になった。
だが、胸の奥にはいまだ消えずに残る何かがあった。
――あの列車の音。
――ユウの気配。
――そして、ハルが時折見せる不思議な影。
その夕暮れ、カイは“風の異変”に気づいた。
いつもは柔らかな風が吹く街に、突如として冷たい風が走ったのだ。
広場に落ちる影が大きく揺れ、子どもたちが思わず顔を上げる。
洗濯物がはためき、木の葉が渦を巻く。
――ザァァァ……。
音のない音が、世界の隙間から流れ込んでくるような気配。
カイは眉をひそめ、その風の中心へと歩いた。
「カイ!」
ハルが駆け寄ってきた。
頬を赤くし、肩で息をしている。
「見た? 広場の奥で、風が割れてるんだ……!」
「風が……割れる?」
ハルは急かすようにカイの袖を引き、広場の外れへと走った。
街の灯がともり始めた境界の道。
そこに“それ”はあった。
――空間が、裂けていた。
風が一点に吸い寄せられ、そこから紫の光が漏れている。
まるで見えない刃で空気そのものが切り裂かれたようだった。
裂け目の向こうには、深い夜が広がっている。
「……時刻なき鉄道の“向こう側”だ」
カイは呟いた。
胸が熱くなる。あの日の列車、夜の川原、霧の駅、影との対話、そして白い樹の丘。
すべてが、この裂け目へと繋がっている気がした。
そのとき――
――カイ。
不意に、名前を呼ぶ声がした。
確かに耳元で、それでいて遠い空の彼方から。
少年のころから聞き慣れた声だ。
「ユウ……?」
カイは思わず一歩踏み出していた。
胸の奥で時が逆流するような感覚。
冬の川、病室の窓、白い光……彼のすべてが甦る。
裂け目の奥から、もう一度声が響く。
――カイ、こっちだ。
「……行かなきゃ」
その一言が自然と口からこぼれた。
「カイ、ダメだよ!」
ハルが必死に腕を掴んだ。
「そこは“夜”だ。僕たちは朝の世界にいるんだ。行ったら帰ってこれなくなる!」
カイは振り返る。
ハルの瞳は涙に濡れていた。
「ハル……これは、僕にしか聞こえてない声だ。
ずっと、あの日から……僕を呼び続けていた声なんだ」
「でも……!」
裂け目がさらに広がり、風が激しく吹き荒れた。
街の灯が揺れ、鐘の音が風に飲まれていく。
夕暮れが夜を侵食し始めていた。
カイはハルの肩に手を置いた。
「大丈夫。僕はもう、帰る道を知ってる。
“自分の時刻”があるから、もう迷わない」
ハルは唇を震わせた。
「カイ……帰ってくるんだよね?」
カイは笑った。
優しく、ゆっくりと。
「約束だ。君が僕を呼ぶ限り、僕は必ず帰る」
風が裂け目の奥へと流れ込み、足元の石畳が震えた。
カイは深く息を吸い、裂け目へと踏み出した。
――その瞬間。
世界が白く弾けた。
まるで時刻の針が一斉に逆回転を始めたかのように、過去と現在が混ざり合う。
川の匂い。
冬の空気。
ユウの笑い声。
カイの意識は“夜”へと引き込まれていった。
“時刻なき鉄道”が再び彼を迎える気配がする。
汽笛が、遠くで鳴った。
――キィイイイイ……!
カイは目を閉じ、風の裂け目の中心へと飛び込んだ。
光が消え、全てが闇に包まれた。
そして次の瞬間――
“誰かの手”が、カイの手をしっかりと掴んだ。
「遅かったじゃん、カイ」
その声は、紛れもなく――ユウのものだった。
風の裂け目の奥で、ついに聞こえた“ユウ”の声。
夜へ戻ったカイは、再び影と光の境界に立つ。
次回、物語は深い核心へ――。




