第93話 風灯(ふうとう)の丘、消えない火
風に揺れる灯火が夜を照らす丘で、
カイとハルは“消えない火”の秘密に触れる。
それは過去に囚われた者だけが見ることのできる光だった。
夕暮れが静かに降りてくると、始まりの街の空気は昼とはまったく違う表情を見せる。
昼間の喧騒は和らぎ、色濃い橙が家々の壁を照らす。
カイとハルは川沿いの道を歩き、丘へと続く石段の前で足を止めた。
「カイさん、今日、丘に行きましょう」
ハルの瞳は、いつもより真剣だった。
「風灯の丘……だよね」
頷くと、少年は静かに笑った。
「はい。あの火を見ないと、次に進めない気がして」
風灯の丘は、街の北側にそびえる小高い場所だ。
昔から、夜になると無数の灯火が風に揺れ、まるで星が地上に降りてきたような景色が広がると言われている。
その灯は“風灯”と呼ばれ、祈りを風に乗せる役割を持つという。
二人は石段を登り始めた。
夕風が頬を撫で、遠くの鐘がかすかに響く。
カイは胸に下げた懐中時計をそっと握った。
ハルは、その音に気づいたようにちらりと振り向いた。
「カイさん。その時計……時を刻む音が変わりましたね」
「分かる?」
「はい。前より、優しい音がします」
カイは苦笑した。
「僕も……そう感じる。君と出会ってから、ずっと」
ハルは何か言いかけて、しかし言葉を飲み込んだ。
風だけが、ふたりの間を通り過ぎていく。
◆ ◆ ◆
丘の頂上に辿りついたとき、そこはすでに灯火で満ちていた。
大小さまざまなランタンが支柱に吊られ、風に揺れている。
その中で、ひとつだけ――揺れない灯があった。
「……あれが、消えない火?」
カイは思わず呟いた。
丘の中央に置かれた小さな石台。
その上で燃える炎は、普通の火とは違った。
青く、澄み渡り、風が吹いても微動だにしない。
まるで“時間の外側”にあるような光。
ハルがそっと近づいた。
「この火は、過去から抜け出せずにいる人だけが見えるんです」
「……じゃあ、僕たちはまだどこかに囚われてる?」
「きっと。でも、それを見届けた人は――前に進めるんです」
カイはしばし炎を見つめた。
青い光を見ていると、胸の奥で封じていた景色が浮かんでくる。
白い病室。
雪の降る窓。
ユウが笑ったあの日。
「ユウ……」
口にした瞬間、炎の揺らぎが変わった。
青から、透き通る白へ――。
ハルが息を呑む。
「カイさん、この色……あなたの祈りが届いてます」
「祈り……僕にそんな力が?」
「あります。だって、風がずっと、あなたの言葉を運んでいました」
カイは拳を握った。
ユウの笑顔が、胸の奥でまた少し近づいた気がした。
◆ ◆ ◆
そのとき、丘の反対側から足音がした。
ふたりの影が夕陽を切り裂く。
現れたのは、あの“渡し守の少女”だった。
「あなたたちの灯火を見に来ました」
少女は微笑む。
「カイ。あなたはもう“夜の彼方”を越えた。
けれど……ハルはまだ途中です」
「ハル……?」
カイは少年を見る。
その瞬間、ハルの影が揺れた。
まるで息を吸うように、影が形を変える。
ひとまわり大きく――いや、“誰か”に似ていく。
「え……」
カイの胸が跳ねた。
影は、あの日川辺で笑っていたユウに見えた。
少女は静かに言った。
「ハルは、あなたとユウの祈りが結んだ“影”なのです。
誰かの記憶が風に流れ、未来の命として生まれた影」
カイは息を呑んだ。
ハルはうつむいたまま震えている。
「僕……ずっと、この気持ちが何か分からなくて……」
「ハル……」
カイはそっと肩に手を置いた。
「あの日の手紙、君が受け取ったのは偶然じゃない。
ユウが君を選んだんだ。僕みたいに迷わないように」
ハルの瞳から、ひとつ涙が落ちた。
それが風灯の炎に触れた瞬間、炎が金色に光った。
「ほら。君はもう大丈夫だ」
ハルは涙のあとを拭い、笑った。
「……カイさんと出会えたから」
カイの胸に、温かいものが広がった。
この街に来た意味が、ようやく完全に繋がった気がした。
◆ ◆ ◆
金色に輝く炎が、風に溶けていく。
少女が柔らかく告げる。
「この火が消えたということは、
あなたたちが“過去から歩き出せる”という印です」
丘の下から夜風が吹いてきた。
金の炎は風に乗り、空へと昇ってゆく。
まるで星になるように。
ハルがぽつりと言った。
「カイさん。これからも……一緒に歩いていいですか?」
「もちろん」
カイは迷わず答えた。
「僕ら二人の“今”を探しに行こう」
その言葉に、風灯の最後の火がほのかに光った。
夜が訪れるけれど、闇はもう怖くなかった。
二人の影は寄り添い、丘を降りていった。
風灯の炎は、過去の痛みを照らし、未来への道を開く光だった。
カイとハルは“影”としての縁を確かめ、
新しい夜へゆっくり歩き出していく。




