第92話 灯りの道、帰郷の支度
始まりの街での生活にも慣れ、カイはある決意を胸に抱く。
それは“帰るため”でもあり、“また進むため”でもある――。
静かな夕暮れの中、彼は灯りに導かれて歩き出す。
始まりの街に夕陽が沈む頃、カイは川沿いの道をゆっくり歩いていた。
空は深い橙色に染まり、建物の影が長く伸びている。
川面には焚き火のような光が揺れ、それが風に乗って小さく瞬いた。
この街の夕暮れには、どこか儀式めいた美しさがある。
「今日も綺麗だね」
隣を歩くハルがそう言った。
彼は肩に木の箱を抱えており、その中には灯りをともすための小さなガラス瓶が並んでいる。
「この瓶……なにに使うの?」
カイが尋ねると、ハルは誇らしげに胸を張った。
「夕暮れの“灯り送り”だよ。
この街では、日が沈むと瓶に灯りを集めて、川に流すんだ。
みんなの今日の気持ちを、夜へ託すの」
「今日の気持ち……」
カイはゆっくりと川を見た。
水面を揺れる夕陽の反射が、彼の胸の奥の何かをそっとくすぐった。
ユウの面影、風の道、そしてここまでの旅路――。
それらすべてがひとつの光になろうとしている気がした。
川のほとりには、すでに何人かが集まっていた。
小さな子供から、年老いた人まで。
皆、ひとつの瓶に向かって、今日の気持ちをそっと吹き込むように手を添えている。
「カイもやってみる?」
ハルに促され、カイは空の小瓶を受け取った。
透明なその器は、光を入れる準備が整っているようだった。
「どうすればいい?」
「簡単だよ。
胸の中にある“今日の言葉”を、この瓶に向かってそっと唱えるだけ」
カイは少しだけ戸惑った。
――今日の言葉。
それは何だろう?
夕陽が沈みかけ、空が赤から青へと変わる。
川面に映る光の揺らぎが、彼の胸の奥、かつて夜の列車に揺られていたときの鼓動を思い出させた。
カイは瓶を胸に抱え、静かに目を閉じた。
今日、僕は生きている。
誰かのためじゃなくて、僕自身のために。
でも、その中にはちゃんと、ユウの光もある――。
彼の胸の奥から、柔らかな光がふっと生まれた。
小瓶の口から、淡い金色の光がふわりと入り込み、瓶の中に満ちていく。
「わ……」
ハルが驚いたように目を丸くした。
「すごく綺麗だよ、カイ」
瓶の中の光は、まるで炎のように形を変え、揺らめいていた。
ユウの笑顔のようにも、風の道の光の橋のようにも見えた。
川の中央に設けられた小さな木の台に、街の人々が灯りの瓶を順番に置いていく。
カイも光の瓶を持って、そっと台の上へ置いた。
「さあ、あとは流れるのを見守るだけだよ」
ハルが合図すると、川の下流へ向けて木の柵がゆっくり開いた。
数十の小瓶が、淡い光をまといながら川へと滑り出す。
夕暮れの水面の上を、光の列がゆっくり進んでいく。
川はまるで夜のレールのようだった。
静かに揺れる光が、何かを導くように続いている。
「ねぇカイ」
ハルの声が風に乗って届いた。
「最近、顔つきが変わったね」
「そうかな?」
「うん。なんていうか……帰る準備ができた人の顔になってる」
帰る準備――。
カイはゆっくりとその言葉を噛みしめた。
確かに、心のどこかで“帰る”という言葉が形を持ち始めていた。
でも、それは過去に戻ることではない。
今の自分を抱えて、前へ進むための帰郷だ。
「ハル……僕、そろそろ旅に出ようと思う」
ハルは驚いたように目を見開き、すぐに微笑みに変えた。
「うん、そう言うと思った。
この街は“始まり”だから。
旅人はいつか、次の朝へ行くんだよ」
川の光が少しずつ遠ざかり、夜の色が街を包みはじめる。
ゆっくりと灯りが溶けていくその道を見つめながら、カイは静かに息を吐いた。
「僕はもう大丈夫だよ、ユウ」
心の中でそう呟く。
「君の光は、ちゃんと僕の中に生きてる」
その瞬間、遠くから列車の汽笛のような音がした。
“時刻なき鉄道”の記憶を思い出すような、やわらかい音。
ハルが微笑む。
「きっと、君の準備ができたことを祝福してるんだよ」
カイは頷いた。
光の列が夜の闇へ溶け、やがて見えなくなる。
その道は、まるで“明日”へ続くレールのように見えた。
夕暮れの灯り送りは、カイの胸に残る“旅の灯”を優しく照らした。
そして彼は気づく――帰る準備とは、前へ進むための合図なのだと。




