第90話 風の祈り、光のゆく先
夕暮れへ向かう丘の上で、カイは“風の祈り”を聞く。
それは旅の果てに立つ者だけが感じられる、静かな光の導きだった。
夕方の光が、始まりの街全体を金色に染めていた。
カイとハルは並んで丘を歩いていた。
昼間の暑さはすっかり引き、風が頬を撫でるたびに心まで軽くなる。
「カイさん」
ハルがふと足を止めた。
「今日は、風がいつもより話してますね」
「うん。僕にもそう聞こえる」
空を渡る風が、どこか懐かしい声を乗せてくる。
低く、温かい気配だ。
ユウの声にも似ているし、別の誰かにも聞こえる。
それは“旅をつないできた者たち”の声のように思えた。
丘の上には古い風見塔がある。
夕陽を受けて白く光り、その影が長く伸びていた。
塔のてっぺんで回る風見鶏が、キィ、とやわらかい音を鳴らす。
「ねえ、カイさん」
ハルが言った。
「ぼく、あの日のことを思い出しはじめたんです」
「あの日?」
「うん……手紙を拾う前の日。
あの時、ぼく、すごく寂しかったんです。
どうしてかわからないけど、胸がぎゅっとなって」
ハルは夕陽の中に目を細めた。
「でも手紙を読んだら、胸の痛さが少し軽くなった。
“生きてるって感じ”が、ぼくの中にも生まれたんです」
カイは静かに頷いた。
「それは君の力だよ。
君が誰かを大切だと思う心が、痛みをほどいてくれたんだ」
ハルは少し照れたように笑った。
「カイさんは……誰かを大切だと思ったとき、どうしてました?」
カイは空を見上げた。
夕暮れの色が紫から橙へゆっくり変わっていく。
「僕はね、怖がってたよ」
「怖がってた?」
「うん。
大切な人を失うのが怖くて。
だから、心のどこかで距離を置いてたんだと思う」
風が吹き、言葉に合わせるように草原が波を打った。
「でも、ユウは僕に言ったんだ。
“生きてるって感じがするからさ”って」
「うん」
「その時は意味がよく分からなかったけど……
今なら少しだけ分かる。
大切に思う人がいること、そしてその人を思って歩くこと。
それが生きてるってことなんだって」
ハルはカイの言葉をしっかりと胸に刻むように頷いた。
丘の頂上に着くと、風が一段と強くなった。
カイとハルは並んで立ち、街を見下ろした。
夕暮れの始まりの街は、赤く染まり、家々の窓に灯りが灯り始めている。
「カイさん、聞こえますか?」
ハルが耳に手を当てた。
風の向こうから、確かに声が聞こえた。
――カイ。
――歩け。
――胸を張れ。
それはユウの声に似ていた。
けれど、カイはそれが“ユウだけの声”ではないことを知っていた。
追憶の原で出会った自分、
列車で言葉を残した影、
白い樹の丘で刻まれた名前、
始まりの街で風に託した手紙――
すべてがつながり、今の自分を作っている。
風はそれらを運び、未来へ送り届けている。
「カイさん」
ハルがそっと手を伸ばした。
「ぼく……こわいこともあるけど、誰かを大切にしたいです。
その人の名前が、まだわからなくても」
カイは優しく微笑んだ。
「その気持ちがあれば、きっと届くよ。
風が君の背中を押してくれる」
風が二人の間を通り抜ける。
その風は、夕陽の光を集めて輝いていた。
カイの胸の懐中時計が静かに鳴った。
――トクン。
そこへ、ひときわ強い風が丘を吹き抜けた。
草がざわめき、風見塔の羽根が勢いよく回り始める。
その瞬間、空の高みで光がひとすじ走った。
まるで列車の軌跡のように、白く、長く、遠くへ――。
カイは息を呑んだ。
「見えるか、ハル?」
「はい……!」
ハルの瞳が夕陽を受けて輝いた。
光は雲の切れ間を突き抜け、どこまでも続いている。
それはもう“夜の列車”の道ではない。
朝の街から未来へ伸びる、“光の旅路”だった。
カイは静かに言った。
「さあ、行こう。
ここからは僕と君の旅だ」
ハルは嬉しそうに頷いた。
「はい!」
風が二人の背をそっと押した。
丘を下り始める二つの影が、ゆっくりと夜に向かって伸びていく。
だがその影は、もう迷いではなく、確かな光を内包していた。
風は祈りのように吹き続け、
その祈りは遠い空の向こうへ――
光のゆく先へ運ばれていった。
風は、過去を運び、未来を導く。
カイとハルの影が重なったとき、新しい旅の扉が開いた。
光の道は、二人の心を確かに“次”へと押し出していた。




