第86話 星降る川原、もう一度の夜汽車
始まりの街で年月が流れ、カイとハルはそれぞれの道を歩いていた。
ある晩、ハルの「居場所を失くしたような」一言が、カイを再び夜の川原へと向かわせる――。
その夜、街は珍しく雲ひとつない空に包まれていた。
星がいつもより近く、手を伸ばせば届きそうに光っている。
カイは、部屋の窓辺で懐中時計を指先でもてあそんでいた。
銀色の蓋には、あの“時刻なき鉄道”の紋章。
針は静かに進み、規則正しいリズムで時を刻んでいる。
――コン、コン。
ドアを叩く音がした。
「どうぞ」
返事をすると、ハルが顔をのぞかせた。
「カイさん、まだ起きてます?」
「うん。星、きれいだよ」
そう言うと、ハルはばつの悪そうな顔をして部屋に入ってきた。
昔のあどけない少年の面影は薄れ、今のハルはもう立派な青年だ。
だが、その目の奥にだけは、あの冬の川の色がまだ残っている。
「どうした?」
カイが椅子をすすめると、ハルは座らずに窓辺まで歩み寄った。
「……今日、広場でさ」
ぽつりと、言葉がこぼれる。
「みんな、ちゃんと“ここ”を自分の居場所にしてる感じがして。
僕だけ、まだどこか半分“よそ者”みたいな気がして……変ですよね」
カイは少しだけ目を細めた。
ハルはこの街で仕事を見つけ、友人もできた。
パン屋を手伝い、子どもたちに本を読んで聞かせる姿も、何度も見てきた。
それでも――心のどこかに空白があるのだろう。
「変じゃないさ」
カイは静かに言った。
「僕もずっと、自分の居場所なんてわからなかった」
「でも、カイさんは今、ここを“始まりの街”って呼んでるじゃないですか」
「それは……“旅の途中の居場所”って意味だよ」
懐中時計の蓋をそっと閉じる。
小さな音が、二人のあいだに落ちた。
「ねえ、ハル。夜、川原に行ったことは?」
「川原? 昼間ならあるけど」
「今から行こうか」
「えっ、こんな時間に?」
カイは立ち上がり、外套を手に取った。
「だいじょうぶ。星が呼んでる」
からかうように言うと、ハルはむっとした顔をしながらもついてくる。
「……また、そうやってはぐらかす」
「昔、僕も誰かにそう言われたんだよ」
二人は静かな街を抜け、川へと向かった。
昼間は子どもたちの笑い声で賑わう道も、今は月と星の光だけが照らしている。
遠くから犬の鳴き声が聞こえ、家々の窓にはやわらかな灯がともっていた。
やがて、川原に出た。
水面には星空が映り込み、夜空と川の境目が曖昧になっている。
足元の小石を踏む音が、やさしく響いた。
「きれい……」
ハルが思わず立ち止まる。
「夜の川って、こんなに静かなんですね」
「そうだね。僕が最初に“あの列車”を見た夜も、こんな感じだった」
カイは川のほとりに腰を下ろした。
ハルも隣に座る。
ふたりの影が、川面に長く伸びて揺れた。
「ハル。君は、自分の居場所が見つからないって言ったよね」
「……はい」
「それはたぶん、“どこかひとつ”に決めようとしてるからだと思う」
ハルが顔を上げる。
カイは星空を見つめながら続けた。
「僕は、ずっとユウのいる世界だけが居場所だと思ってた。
でも、列車に乗って、いろんな場所を見て、
誰かの祈りが流れ込んでくるのを知った。
そのときわかったんだ。
“居場所”って、ひとつじゃなくていいんだって。
心の中に、いくつも小さな駅があっていい」
ハルは黙って聞いていた。
川の流れが、二人の沈黙をやさしく埋める。
そのときだった。
――かすかなレールのきしむ音がした。
ハルがびくりと肩を震わせる。
「今の、聞こえました?」
「やっぱり来たか」
カイは立ち上がり、川原の奥を見つめた。
星明かりだけだったはずの川辺に、
いつの間にか、白い霧がゆっくりと降りてきていた。
川向こうの闇の中から、細い光の線が伸びてくる。
それは――レールだった。
「……これが」
ハルが息を呑む。
「“時刻なき鉄道”」
遠くから、静かな汽笛が響く。
夜気を震わせるような音ではなく、祈りのように柔らかな音色。
やがて霧を割って、一両だけの列車が現れた。
窓には灯りがともり、車体には数字も文字もない。
ただ、先頭にある丸いプレートに、淡い光で文字が浮かぶ。
――「眠り町行き」
ハルが不安そうにカイを見る。
「これって……僕を連れて行くために?」
カイは首を振った。
「違う。呼ばれてるなら、もっと冷たい風が吹くはずだ。
今、感じるか? この風」
ハルは目を閉じ、夜風を胸いっぱいに吸い込んだ。
冷たさの奥に、確かなあたたかさがある。
涙が浮かびそうになるような、懐かしい匂い。
「……さみしいのに、さみしくない」
「それは、“誰かの祈り”が混ざってる風だからだよ」
列車は川原のすぐそばまでゆっくりと進み、
そこに“駅でもない駅”をこしらえるように止まった。
ドアが、音もなく開く。
「カイさんは、どうするんですか」
ハルの声は、少し震えていた。
カイは微笑んだ。
「乗らないさ。今の僕の居場所は、ここだから」
懐中時計に目を落とす。
針は“今”を指している。
「でも、誰かは乗る。
きっと、この街で“まだ夜を越えられていない誰か”が」
ハルは列車の窓を見つめた。
そこには、誰かの影がゆらゆらと揺れているように見えた。
自分と同じように、居場所を探してさまよってきた誰か。
「……僕、分かったかもしれません」
ハルがぽつりと言う。
「僕の居場所、ひとつはここで。
もうひとつは、きっと――迷ってる誰かの隣なんだ」
カイは驚いたようにハルを見た。
「隣?」
「はい。僕は、手紙をもらった側だから。
今度は僕が、誰かに渡す番だと思うんです」
そう言うと、ハルはポケットから小さな紙片を取り出した。
それは昼間、子どもたちに配っていた“お守りの言葉”が書かれた紙だ。
《きみがどこにいても、こころの中に帰る場所がある》
ハルはそれを列車の足元にそっと置いた。
風がふっと吹き、紙片を車内へと運んでいく。
「これでいい。今夜乗る人が、どこかでそれを読むかもしれない」
列車の灯りが、少しだけ明るくなった。
車窓の向こうの影が、静かにうなずいたような気がした。
カイは胸の奥が温かくなるのを感じた。
もしかしたら――あの頃の自分が、こうして誰かに支えられていたのかもしれない。
そして今、その役目をハルが引き継ごうとしている。
汽笛がもう一度鳴った。
列車はゆっくりと動き出す。
レールの光が星の川の上を滑り、やがて夜の向こうへ溶けていった。
川原には、静寂が戻った。
けれど、それはもう“孤独の静けさ”ではなかった。
「ハル」
カイが呼ぶ。
「はい」
「君は、もう“風の側”の人間だね」
ハルは少し照れたように笑った。
「カイさんこそ。“列車の側”じゃないんですか?」
「さあ、どうだろう。僕たちはきっと、どっちにもいるんだよ」
二人は並んで川原を歩き始めた。
頭上には、変わらず星が瞬いている。
どこか遠くで、光のレールの気配がかすかに続いていた。
――誰かがまた、夜を越える。
そしていつか、この街の朝へとたどり着く。
そのとききっと、ハルは笑ってこう言うのだろう。
「おかえりなさい」と。
夜の川原に再び現れた列車は、
もうカイを連れていくためではなく、
迷う誰かへと“居場所の言葉”を運ぶためのものだった。
カイとハルの旅は、今度は「誰かのため」に続いていく。




