第84話 光の窓、遠い約束の影
始まりの街での日々が続く中、カイはふとした瞬間に“あの声”を思い出す。
午後の光が差し込む窓辺で、遠い約束の影が静かに揺れた――。
始まりの街の午後は、不思議と静かだった。
朝の喧騒が去り、夕暮れの気配が訪れる前の、空気の色が変わり始める時間帯。
カイは自室の窓辺に座り、懐中時計の針が刻む音を聞いていた。
トクン、トクン――
それは、彼の胸の鼓動とゆっくりと重なり合っていく。
窓の外では柔らかな風が吹き、白い布を干す家々の軒先を揺らしていた。
遠くの丘の上では子どもたちが凧を揚げ、川辺では旅人が休んでいる。
始まりの街は、どの瞬間を切り取っても“生きている”気配に満ちていた。
カイは懐中時計の蓋を閉じ、その表面に刻まれた紋章を指でなぞった。
“時刻なき鉄道”の象徴――
あの旅が終わってからも、彼の心の中でそのレールは静かに続いていた。
「……ユウ、見てるか?」
思わず零れた問いは、風に紛れて消えた。
手紙を風に託してから何度か、
カイはふとした瞬間にユウの声を思い出すようになっていた。
午後の光が差した窓枠の影の揺れ。
道を歩くときに背中を押す風。
川辺に落ちている白い百合の花――
どれもが、彼の心に“続きの声”を運んでくる。
トトン――
机の引き出しを開く音がした。
カイはそこから一枚の紙を取り出した。
それはユウが最期の冬に描いた、小さなスケッチだった。
雪景色の中で二人が笑っている。
指先の冷たさなど忘れて、ただ走り、転んで、また笑っていたあの日の絵。
カイはそっとその絵を胸に当てた。
「……まだ、君に言ってないことがあるんだ」
すると――
コトン、と硬いものが床に落ちる音がした。
振り向くと、扉に寄りかかるようにしてハルが立っていた。
肩で息をし、頬は少し赤く、手には紙袋を持っている。
「……カイさん、ちょっと来てほしいんです」
「どうした?」
「街の外。風の道の入り口です。
誰か、あなたを呼んでいました」
カイの心臓が跳ねた。
「誰かって……誰だ?」
ハルは小さく首を横に振った。
「顔は見えませんでした。でも……あの声、聞いたことがある気がして」
風が窓を震わせるように吹き込んだ。
懐かしい匂い――冷たい川の気配が混ざっていた。
「行こう」
カイは立ち上がった。
街を出ると、空が金色に染まり始めていた。
風の道の入り口は丘の上にあり、白い花々が揺れていた。
その中央に、ひとつの影が立っていた。
目を細めたとき、胸が強く鳴った。
影はゆっくりと振り返った。
夕陽の逆光で顔は見えない。
けれど、その佇まいに覚えがある。
肩の傾き、手の置き方、風の受け方――
それらすべてが、記憶の中の“彼”と一致していた。
「……ユウ?」
影は微笑んだように見えた。
風が強く吹く。
白い花の花弁が舞い上がる。
そして、影は静かに言った。
「――カイ」
その声は間違いようがなかった。
ユウの声だった。
けれど実体はない。
光が透け、夕陽の中に溶けかけている。
カイは一歩近づいた。
影はゆっくりと首を振った。
「ここまででいい。
僕は……向こう側の旅を続けているんだ」
「でも、どうして……」
「君の手紙が届いたからだよ」
影――ユウは優しく言った。
「ありがとう、カイ。
僕のことを忘れずにいてくれて。
そして……生きてくれて」
カイの両目が熱くなった。
「僕は、まだ君に――」
ユウの影は静かに手を伸ばした。
カイはその手を掴もうとした。
だが、指先は風をすり抜けた。
「もう充分だよ、カイ。
君はもう、僕の代わりに“生きて”なんていない。
君は……君自身の時刻を歩いてる」
風が流れ、ユウの影が揺れた。
光が弱まり、境界が薄れていく。
「また会えるかい?」
カイは声を震わせた。
ユウは微笑んだ。
「――君が生きている限り、ずっとそばにいるよ」
そして影は、夕陽の中へと消えていった。
カイはその場に立ち尽くした。
ハルは静かに言った。
「……カイさん。今の人、あの手紙の……」
カイは頷いた。
「うん。
君のおかげで、僕はまた一歩前に進めた」
風が吹く。
丘の花が揺れ、その影が長く伸びていく。
その影は、もうひとり分増えたように見えた――
カイにもハルにも、それが誰の影かはもう分かっていた。
風の道で再び出会った“影”は、別れではなく前へ進むための光だった。
カイの心はもう揺らがない――ユウの声は、これからも風と共にある。




