第8話 白紙通りを歩く影たち
兄の影と向き合い、胸の奥の固い部分が少しほどけた。だが列車はゆっくり次の駅へ向かう。“白紙通り”──ぼくが未来を描けなかった場所だという。
忘れられた橋を渡り切り、ぼくが列車に戻る頃には、胸の鼓動がようやく落ち着きはじめていた。兄との対話は深く胸に残り、痛みと温かさが入り混じった不思議な余韻を残していた。
列車の扉が静かに迎え入れ、木の床に足を踏み入れた瞬間、ほっとした空気が肺の奥までしみ込んでいく。車掌がぼくを見て軽く礼をした。
「お帰りなさいませ、流星様」
「……ただいま」
その言葉が自然に口から出て、自分でも驚いた。
車掌は微笑むかわりにランタンを少し傾け、その光を路線図のほうへ導いた。
「次の駅へ向かいます。“白紙通り”でございます」
「白紙通り……」
ぼくはその名をつぶやいた。
白紙。
何も書かれていないもの。
言葉を選ぶ余裕もないほど、ぼくはその響きに心をざわつかせた。
「白紙通りは、流星様が“未来に描けなかったもの”が並ぶ道です」
「未来に……?」
「ええ。人が生きるうえで抱える“これから”の不安や、置き去りにしてきた願いが姿を取る場所でございます」
兄の影と向き合った直後のぼくには、その言葉が妙に重く響いた。
「白紙通りでは、影ではなく、“形になる前の思い”が姿を現します。
それは見ようとしなければ見えず……しかし、見てしまうと目をそらせないものです」
「……見たくないって思ったら?」
「それでも、通りを歩くことになります」
車掌は淡々と言ったが、その声にはどこか悲しい響きがあった。
「どうしても、ですか」
「はい。眠り町へ向かう者は必ず通ります。未来と向き合わずに祈りは結ばれません」
窓の外の色が変わっていく。
光の粒が消え、代わりにぼんやりとした乳白色の世界が広がり始めた。
地面は薄い紙のように滑らかで、まるで鉛筆の線一本で崩れそうなほど脆い。
「もうすぐ到着します」
列車がきい、と短く軋み、ゆっくりと止まった。
扉が開くと、白い空気が静かに流れ込んできた。
霧でも煙でもない。薄い紙の層が空気と一緒にめくれているような、不思議な現象だった。
ぼくは深呼吸し、一歩踏み出した。
白紙通りは、名前のとおり“白かった”。
地面も壁も空も境目が曖昧で、歩くたびに薄い線が足元に浮かび、すぐに消えていく。
まるでぼくが歩いた軌跡だけが、一瞬だけ現れては消える。
「……なんだ、ここ」
通りには建物のようなものが並んでいるけれど、それらは塗りつぶされていないスケッチのようで、輪郭しか存在しない。時折、その輪郭の中に淡い色彩が滲むが、ぼくが近づくとふっと消える。
そのとき、ふいに背後から声がした。
「りゅうせいくん」
振り向く。
そこには、輪郭だけの人影が立っていた。
体の線だけが描かれ、顔も髪も服も、色がない。
「……だれ?」
「ぼくだよ。聞こえない?」
その声に、胸がざわついた。
声の主はぼくの名前を呼んだ。
けれどその声は、ぼくが知っている誰でもなかった。
「ぼくは……きみが“こうだったらよかった”と思っていた未来のひとつ」
人影は、ゆっくりとぼくに近づく。
その足音はない。
ただ輪郭が紙のように揺れながら、こちらへ歩く。
「未来の……ぼく?」
「うん。たくさんあるんだよ。きみが心のどこかで望んで、でも怖くて諦めた未来が」
ぼくは喉の奥が乾いた。
「ぼくはさ、“ちゃんと強くなったきみ”だよ」
白紙の未来のぼくは続ける。
「きみは、本当はもっと強くなりたかった。
ハルがいなくても、兄さんがいなくても、自分で立てる未来を描きたかった」
その言葉に、心臓が跳ねた。
「だけど、描けなかったんだ。
怖かったから。
失うことも、間違うことも、ひとりになることも」
「やめろ……」
「だから、きみはぼくを“白紙”にした。
未来を描けなかった。
描くのを、やめたんだ」
視界が少し揺れた。
ぼくは無意識に拳を握っていた。
「違う……描けなかったんじゃない。描かなかったんだ」
「どうして?」
「……失敗したら、全部無駄になるって思ったから」
初めて口にした本音だった。
白紙のぼくは静かに頷いた。
「だからぼくは薄いんだ。
きみが、ぼくをちゃんと描かなかったから」
そのとき通りの向こうから、別の輪郭が現れた。
今度は身体が大きい。
少し大人びた形だ。
「ぼくは“誰かを守れるようになったきみ”」
また別の未来。
また別の“ぼく”。
さらに通りの向こうから三人、四人と輪郭が歩いてくる。
「絵を描く道を選んだきみ」
「旅に出たきみ」
「誰かを救ったきみ」
「誰かに救われたきみ」
白紙通りのどこからともなく、色のない“ぼく”が次々と集まり始めた。
「りゅうせいくん。きみは未来を描けなかったんじゃない。描ける選択肢が多すぎて、選べなかったんだよ」
最初の輪郭のぼくが言った。
「怖がらなくていい。描き損ねても、間違っても、きみの未来はたくさんある」
その言葉は、胸の奥に静かに浸透していくようだった。
「でも、どれかひとつはきみが“選ばなきゃ”描けない」
ぼくは息を吸った。
白紙通りの白さが、ほんの少しだけ柔らかく見える。
「……選べるのかな、ぼく」
「選べるよ。
きみは、霧町も、未練が丘も、橋も渡った。
ここまで歩けたきみなら、選べる」
白紙の未来のぼくが、ぼくに近づいて手を伸ばした。
触れられないはずの白い輪郭の手が、ぼくの胸の真ん中をそっと押した。
「ここに“描きたいもの”があるんだろ」
胸の奥が、熱くなる。
ハルの笑顔。
兄の影の言葉。
幼いぼくの願い。
全部が、ぼくを未来へ押し出そうとしている。
「……描きたいもの、あるよ」
はっきりと言った。
白紙のぼくたちは静かに微笑んだ。
「それがあれば十分だよ」
その瞬間、白紙通りの白い景色がゆっくりと色を帯びはじめた。
淡い青、淡い金色、淡い灰色──
未来がまだ薄くても、確かに“色”を持ち始めていた。
ぼくは深呼吸して列車の方向へ歩き出した。
「……ありがとう」
白紙のぼくたちが、声をそろえて答えた。
「がんばれ、流星」
白紙通りは“描けなかった未来”との対話の場所でした。次回は、旅の折り返しに近づく“風灯台前”へ向かいます。ここで流星は“祈りの核心”に触れることになります。




