第78話 風の切れ間、もうひとつの声
旅を続けるカイとハル。
穏やかな風の道の途中、ふいに“風の途切れる場所”に迷い込む。
そこで二人は、もうひとつの声と出会う――。
朝の光が山の稜線を照らし、風がやわらかく草を揺らしていた。
カイとハルは、ゆるやかな丘を歩いていた。ここ数日、二人は“始まりの街”の外に広がるルートを探索している。
「カイさん、前より歩くのが軽くなったね」
ハルが笑顔で言う。
カイは肩をすくめて笑い返した。
「そうかな。ハルが横にいるからかもな」
「それは……嬉しいよ」
風が二人の間を通り抜ける。
草原の道には、どこまでも光の線が伸びていて、それはまるで“時刻なき鉄道”が地上に続いているようだった。
しかし、その光がふっと揺れた。
風が止んだのだ。
「……あれ?」
ハルが足を止める。
カイも違和感に気づいた。
耳を澄ませても、風の音がしない。鳥の声まで遠ざかったように静まり返っている。
「風が……途切れてる?」
「うん、ここだけ、変だ……」
二人は周囲を見渡した。
草も揺れず、雲の流れもゆっくりと止まったように見える。
世界が少しだけ“時間の隙間”に入ったような、そんな感覚。
その時だった。
――カイ。
確かに、誰かが呼んだ。
だが周囲には誰もいない。
風も吹いていない。
「ハル……今、聞こえた?」
ハルは首を振る。
「なにも。でも……顔、少し青いよ?」
カイは胸に手を当てた。
息がゆっくりと深くなる。
あの声は確かに聞こえた。
ユウでも、ハルでもない。
そして、自分の声でもなかった。
――もう一度、来て。
呼び声は、丘の奥、森の影のほうから聞こえた。
「行ってみるか?」
カイが言うと、ハルは迷わず頷いた。
「うん。きっと、放っておけない声なんだよ」
二人は風の止まった道を進んでいく。
一歩進むごとに音が吸い込まれていくようで、靴音すら淡く消えていく。
やがて、背の高い木々に囲まれた空間に辿り着いた。
そこは“風の影”とでも呼ぶべき場所だった。
一面が静止したかのように、空気そのものが重たい。
「……誰かいるの?」
カイが声を出す。
返事はない。
しかし、影の奥で微かに白い光が見えた。
ハルが小声で言う。
「光……誰だろう?」
「わからない。でも……行ってみよう」
二人が歩を進めると、光がゆらゆらと揺れ、やがて人影に変わった。
白い外套の少女――。
しかし、どこかで見た気配だった。
「……渡し守?」
カイは思わずつぶやいた。
だが、その少女は“渡し守の彼女”よりずっと幼く見えた。
年齢でいえば、ハルと同じくらい。
瞳は澄んでいるが、どこか不安げな色をしている。
少女は小さく口を開いた。
「……カイ。ハル。
会えて、よかった……」
二人は顔を見合わせた。
確かに、自分たちの名前を呼んだ。
「どうして僕たちの名前を?」
ハルが尋ねる。
少女は胸元を押さえながら言った。
「わたし……“未来の渡し守”。
まだ、完全じゃないの……」
風がふっと戻ったように微弱な音を立てた。
「未来……?」
カイは息を飲む。
少女は頷いた。
「この世界の“風”が、少しだけ乱れているの。
だから……あなたたちに、会いたかった」
「風が乱れている?」
「うん……。
本来なら守るべき道が、一部だけ途切れかけてる。
あなたたちが歩いてきた“光の道”も、そのひとつ……」
カイの背筋が冷たくなった。
「じゃあ……僕たちは危険なところを歩いていたのか?」
少女は首を横に振った。
「危険じゃない。でも……“ある声”が働いているの。
カイを呼ぶ声。
それが、風を乱している」
カイの心臓が強く跳ねた。
「さっき聞いた声……あれは?」
少女は静かに答えた。
「その声は……ユウじゃない」
カイは息を呑んだ。
当たり前だと思いながらも、確かにその声は違っていた。
「じゃあ……誰なんだ?」
少女の答えは、短く、重く落ちた。
「“カイのもうひとつの未来”……それが呼んでるの」
風が強く吹き、木々がざわめいた。
森の奥で、何かが目を覚ますような気配がした。
少女はさらに言った。
「あなたたち二人で進める場所じゃない――
だけど、カイ。あなたは一度、そこへ行かないといけない」
カイは言葉を失った。
ハルが不安そうに彼の手を握った。
「カイさん……行くって、どこへ?」
カイは空を見た。
風が戻り始め、草が揺れ始めている。
風の切れ間は、もうすぐ閉じる。
彼はゆっくりと答えた。
「……わからない。
でも、“呼ばれた場所”があるなら、
その声の正体を確かめないといけないんだろうな」
ハルは唇を噛み、しかし頷いた。
「一緒に行くよ」
少女が首を振る。
「ハルは行けない。
これは、カイだけの“影の旅路”。
行くべきなのは――心の奥の、もうひとつの場所」
風が一気に吹き込み、世界が動きを取り戻した。
少女の体が光に包まれていく。
「また会える。
そのとき……選んで。
“どの未来”を歩くのか」
そう言い残し、少女の姿は風に溶けるように消えた。
残された二人の間に、深い沈黙が落ちる。
やがて、カイは言った。
「ハル……ありがとう。でも、きっとこれは僕の旅だ」
「うん……わかった。でも、戻ってきてね」
「必ず」
風がまた吹いた。
森の奥から、先ほどの“声”が呼んだ。
――カイ。
カイは一歩、森の影へと足を踏み入れた。
陽の光と風の世界が、ゆっくり遠ざかっていく。
背後で、ハルが小さく叫んだ。
「待ってるから!」
その声に背中を押され、カイは“影の旅路”へ向かった。
風が途切れた場所で現れた“未来の渡し守”。
そして、カイを呼ぶもうひとつの声。
彼はついに、自分の“影”へ向かう旅を決意する――。




