第70話 朝の河原、再び降りてくる列車
朝、カイは初心の地――夜ではなく“朝”の河原に立つ。
そこへ再び、光をまとった列車が降りてきた。
朝の空はゆっくりと青を深めていた。
風にそよぐ草の匂いが川面に流れ、やわらかな光が水の表情を照らしている。
カイは、かつて“夜”に立った河原へと戻ってきていた。だが今は夜の闇ではない。雲間から射す陽光が石を照らし、風の音が静かに耳へ届いてくる。
この場所へ戻るのは、長い旅の果てにたどり着いた自然な選択だった。
ユウと最後に歩いた川原。
“眠り町行き”へ乗る前に佇んだ岸辺。
そのすべてが、今では別の意味を持つ。
「……ここから始まったんだよな」
カイは小さく呟いた。
旅は、たしかに闇から始まった。
ユウの死という深い喪失、その痛みを抱えて乗り込んだ“時刻なき鉄道”。
何度も心の声に導かれ、恐れを抱えたまま歩き、風の道を越え、朝の街で自分の「時刻」を手に入れた。
あれからの日々は穏やかだった。
ハルと出会い、風に手紙を託し、何度も鐘の音を聞いた。
だが――今日は、特別な朝だった。
胸の奥で小さな振動がした。
それはまるで、遠いところで汽笛が鳴っているかのような響き。
風が止まり、川の流れの音だけがはっきり聞こえた。
そのときだった。
空気が一瞬だけ震え、川原の上に光が広がった。
白い光の帯が空へ伸び、やがて一本の線路が浮かび上がる。
現実には存在しないはずのレール。
けれどカイは、それを知っていた。
“時刻なき鉄道”が降りてくる前触れだ。
眩しい光がゆっくりと形を取り、天から列車が降りてきた。
夜の闇を割って降りてきたあの姿とは違う。
朝の光をまとって、まるで風そのものが形になったような輝きだった。
「……また、来てくれたんだな」
列車は音もなく河原にとまった。
扉が開き、朝の風がふわりと流れ込んでくる。
その風には、どこか懐かしい匂いが混ざっていた。
カイは思わず深く息を吸い込んだ。
胸の奥で優しい痛みがする。
―ユウに初めて別れを告げた日の風と同じ匂いだった。
「おはよう、カイ」
列車の中から声がした。
その声は風に揺れ、光に包まれ、どこかで聞き覚えがあるようで、しかしはっきりとは思い出せない。
けれど、カイは一歩踏み出していた。
列車の扉へと。
車内は以前と変わらず、やわらかな青の光に満たされていた。
だが、窓の外の風景は夜ではなく朝の色。
席には誰もいない。
ただ、通路の奥にひとりの人物が立っていた。
黒い外套の影――
追憶の原で出会った“もうひとりのカイ”とよく似た面影。
だが、その表情は柔らかかった。
「心配しなくていいよ。これは“別の旅”の車両だから」
影の人物は言った。
「君が夜に乗った車両とは違う。これは、朝を生きる者が乗る列車だ」
「朝を……生きる者?」
カイは聞き返した。
影は頷いた。
「君は夜を越えた。ユウの死も、自分の弱さも、そして祈りも。
だから今、列車は君を“次の旅”へ連れていくために来たんだ」
カイは胸の奥で何かが静かに灯るのを感じた。
列車に乗ることへの恐れはもうなかった。
悲しみも、後悔も、すべてが優しい影のように背後に揺れているだけだった。
「でも……どこへ連れていくんだ?」
影は微笑んだ。
「それは、君自身が決めることだよ」
列車の天井に光が走り、風のざわめきが聞こえた。
川原の向こうで、ハルの声がした気がした。
「また会おうね、カイさん!」
その声に、カイは微笑み返した。
「行けるよ、ユウ」
小さく呟いた。
「僕はもう、どこへでも行ける」
影はゆっくりとうなずき、手を差し出した。
「さあ――次は、君の“物語”の駅だ」
列車の扉が閉まる。
光のレールが再び空へ伸び、車体が浮かび上がっていく。
朝の河原に、風が吹いた。
草が揺れ、石が光り、水が流れ、空が広がる。
そのすべてがカイの背中を押す。
列車は空を走り、朝の雲の向こうへ消えていった。
カイの新しい旅が、また始まった。
朝、列車は“夜”ではなく“朝”へと降りてきた。
カイの旅は終わらず、光の中へ続いていく――
彼自身の「時刻」を刻むために。




