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夜の川原に降りてくる列車  作者: たむ


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第7話 橋の真ん中で聞いた言葉

兄の影が差し出した手。その奥には、長いあいだ封じていた痛みがあった。ぼくは揺れる橋の上で、忘れたかった記憶と向き合うために、一歩を踏み出した。

 足元の木の板が、きしりと鳴った。

 “忘れられた橋”は古びているはずなのに、ぼくが踏み出すたびに、まるで記憶そのものが軋んでいるような感触がした。

 風の気配はない。霧だけがゆっくり揺れ、橋の下で白い海のように広がっている。


 兄の影は橋の中央に立ったまま、ぼくが近づくのを静かに待っていた。

 その背中の線、肩の形、立ち方──全部が懐かしくて胸が痛む。


「……兄さん」


 呼ぶと、影がふっと微笑んだように揺れた。


「流星。ちゃんと来たな」


 ぼくは喉の奥が詰まり、息を吸うのに少し力が要った。


「来るだろ……そりゃ」


「いや。おまえは来ないと思ってた」


「なんで」


「怖がりだから」


「……うるさい」


 兄の影は静かに笑った。

 その笑い方が、ぼくの記憶の中の兄そのままで、涙腺が少しだけ熱くなる。


 橋の中央に着いた瞬間、空気の温度が変わった。

 そこだけ、時間が止まっているみたいに感じられた。


「覚えてるか、流星」


 兄の影が言った。


「最後の日。家を出たときのこと」


「……覚えてるよ」


「おまえ、廊下の角から見てただろ」


 胸がぎゅっと締めつけられる。

 あの日の光景が、一気に蘇ってきた。


 兄が荷物を背負い、靴ひもを結んでいた後ろ姿。

 玄関の外の、夕方の濁った光。

 ぼくは声をかけられなくて、壁の影に隠れてじっと見ていた。


 兄はぼくを見ていなかった。

 ぼくも兄を呼べなかった。


「兄さんは……なんで行ったの」


 問いかけた声が震えた。

 影の兄は、欄干にもたれるようにしてゆっくり答えた。


「逃げたかったんだ。家からも、自分からも」


 その言葉が重く沈んで、胸に落ちた。


「強いと思ってた」


「強くなんか、なかったよ」


 霧が風のように揺れ、影の兄の輪郭が少しだけ歪んだ。


「おまえは小さかった。だから俺の弱さを見せたら……崩れそうでさ。怖かったんだよ」


 兄の声が、ほんの少し震えた。


「でも、それで……置いていったの?」


「……ああ。置いていった」


 影の兄ははっきり言った。

 痛みを隠すことなく。


「それだけは謝らなきゃいけない」


 言われた瞬間、ぼくの中に押し込めていた感情が一度に溢れた。


「……ずっと聞けなかったんだよ」


 ぼくは声を震わせながら続けた。


「兄さんがどう思ってたか……何があったのか……。

 ぼくが弱かったから?

 ぼくが足手まといだったから?

 それとも、ぼくなんて……いらなかったから?」


「違う」


 影の兄は強い声で言った。


「流星。俺は……おまえがいたから、家を離れたんだ」


 耳が疑うような言葉だった。


「……どういう意味?」


「守りたかったんだよ」


 影の兄は目を伏せた。


「このままだと、おまえまで潰れると思った。家の中の空気も、俺の状態も……全部、おまえに影響する。そう思ったら、怖くなって……」


 橋の板が乾いた音を立てる。


「逃げたんじゃないんだよ。

 おまえにだけは、見せたくなかったんだ」


「そんなの……そんなの、わかるわけないだろ」


「わかってほしいとは思ってなかった」


「じゃあ、なんで」


「言えなかったからだよ」


 影の兄は、ゆっくりと顔を上げた。

 霧の揺らぎの中で、その瞳がぼくをまっすぐ捉える。


「流星。俺、おまえのことが幸せでいてほしかったんだ。

 俺の影を背負わせたくなかった」


 胸が痛いほど熱くなった。


 ぼくは唇を噛んで、言葉を探す。


「……馬鹿じゃん」


「そうだな」


「勝手に背負って、勝手に遠く行って……。

 そんなんで守れるわけないだろ……!」


「ごめんな」


 兄の影は、霧に溶けそうな声で言った。


「守りたかったのに、守れなかった。

 おまえにだけは……謝りたかったんだ」


 ぼくは一歩、兄の影に近づいた。


 影は手を伸ばした。

 しかしその手は触れられるものではなく、霧のように揺れている。


「流星。最後に一つだけ言わせてくれ」


 ぼくは黙って頷いた。胸が苦しいほど脈打っている。


「おまえは……俺より強いよ」


 その言葉が、ぼくの中の何かを強く揺さぶった。


「だから……前に進め」


 その瞬間、霧がふっと明るくなり、

 兄の影の輪郭が淡く崩れはじめた。


「兄さん……待って」


「ありがとう、流星。

 そして……ごめんな」


 影は柔らかく笑い、

 風のない丘の上で、静かに消えていった。


 残されたのは木の橋と、白い霧だけ。


 けれどぼくの胸の中には、確かに温かいものが残っていた。


「……兄さん」


 ぼくは小さく呟き、橋の向こう側へと歩き始めた。


 列車の灯りが遠くからぼくを照らし、

 次の旅路へ導くように揺らめいた。

兄の影は、流星が長く抱えていた「触れられなかった記憶」の象徴でした。次の駅は“白紙通り”。ここで流星は、自分が未来に描けなかった“ある感情”と向き合うことになります。

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